更新日時 2012年10月26日

 上田陶石運搬軌道本線:天草陶石が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられていますが、定かではありません。正徳2(1712)年頃、肥前の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した始めとされています。天草陶石の採掘は代々上田家の事業として、江戸〜明治中期を経てその間陶石脈の探査開発を行い、明治45(1912)年高浜皿山に馬車軌道並びに自転巻軌道を施設し、本格的な量産体制に入りました。大正1(1912)年陶石運搬馬車軌道・索道開通。大正11(1922)年3月に合資会社上田商店を創始したその後、合名会社上田商店と改称し、昭和23(1948)年5月さらに組織を変更して上田陶石合資会社としました。「天草陶石」鉱床は熊本県天草下島西部に分布し、海岸線に沿って海岸脈と村山脈、それらの東方の皿山脈から成っています。総延長は南北約13kmに及び、海岸脈と村山脈は脈幅3〜4mから8〜10m、最大幅は約15m、延長距離は約1.2kmから4kmでほとんど直立しています。皿山脈の脈幅は膨縮に富み8〜15m最大幅25m、脈の総延長は約7kmです。
 @上田家代々の累記を見ると、高浜村上田家の祖、第3代伝右衛門が享保13(1728)年に採掘し享保15年に中止しています。その後第5代勘右衛門達賢が宝暦4(1754)年に採掘を再開しており、当時は砥石または硯石として出荷されていました。第6代目伝五右衛門武弼は、天草陶石が陶磁器原料として最も優良であること聞き、肥前長与の陶工山道喜右衛門を招き、宝暦12(1762)年に高浜村鷹の巣山で焼物を焼き始めました。これが高浜焼の元祖とわれています。
@上田陶石合資会社のこの庭にはトロッコ軌道が敷かれていた。
A上田陶石合資会社の廃線跡。軌道は台貫の辺りを抜けていた。木造建物が元の機関庫。
 A小田床鉱床の採掘場で陶石を選鉱している作業員に本社には機関車があると聞いて、本社事務所を訪ねて機関車を見させて頂いた。倉庫(機関庫)は普段は鍵が掛かっていて、たまに見させてくださいと訪れる人がいるようだ。以前も鉄道雑誌の取材で見に来られた方がいたそうです。事務所の方に鍵を開けて頂いて戸を開けて頂いたが、倉庫には照明が無く薄暗い中に雑然と機関車が置かれていた。保存をしているというよりは不要な物を置いているといった感じだ。その他にはトロッコの台車も置かれていた。
 A機関庫の中には上田陶石軌道本線で使われていたBuickの七宝製のエンブレムが付く機関車が眠っている。原始的なフリクション変速装置をもつナロー軌道(762mm)の3t程度の小型ガソリン機関車です。ガソリンエンジンは直列6気筒でBuickの刻印が確認出来た。事務所の方の話ですと、元々馬車軌道の軌道を転用した脆弱な軌道であったため、脱線が多く機関車は使い物にならなかったそうだ。戦中のガソリン不足もあり馬車軌道に戻ってからは機関庫で眠り続けています。
B上田陶石運搬軌道の廃線跡。
C上田陶石運搬軌道の廃線跡。
D上田陶石運搬軌道の廃線跡。
E上田陶石運搬軌道の廃線跡。
F上田陶石運搬軌道の廃線跡。
G上田陶石運搬軌道の廃線跡。
H上田陶石運搬軌道の廃線跡。山側へ行く道が廃線跡。
I上田陶石運搬軌道の廃線跡。
J上田陶石運搬軌道の廃線跡。
K上田陶石運搬軌道の廃線跡。
L上田陶石運搬軌道の廃線跡。
M上田陶石運搬軌道の廃線跡。
N上田陶石運搬軌道の廃線跡。
O上田陶石運搬軌道の廃線跡。
P上田陶石運搬軌道の現役の選鉱場。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『天草市』を掲載」
出典: 上田陶石合資会社
上田陶石運搬軌道本線