更新日時 2016年04月11日

 多田銀銅山軌道:多田銀銅山は旧摂津国、現在の兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市の広範囲にわたり坑道が開堀されてきた銀山である。主な鉱石は黄銅鉱、斑銅鉱、方鉛鉱、輝銀鉱および自然銀であり、鉱脈の成因は熱水鉱床である。天平時代より銅山として開発され、このときの神教間歩から産出した銅は東大寺の大仏鋳造用に使用されたといわれるが記録に乏しい。寛文年間に銀および銅の産出が急増するに至り銀山に代官所が置かれ、銀山村が形成され天領となり幕府の支配が強化された。寛文年間初頭には年間の産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。これより前の寛永年間より南蛮吹による精錬が行われ、荒銅より灰吹銀が採取され、抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。その後産出高は次第に減少し、宝永年間には年間銅14万斤(約84トン)前後、正徳年間には年6万斤(約36トン)前後となった。天保11年(1840年)、高槻藩の預り所となり、天保14年(1843年)に大坂代官所の支配となったが、弘化元年(1844年)、再び高槻藩の預り所となった。明治時代に入り、三菱が稼行し、昭和19年(1944年)には日本鉱業が買収し操業を続けたが、昭和48年(1973年)に閉山した。
 @山側に一段高い平坦面があります。全体の機械配置は未調査のため、個々の煉瓦遺構物の用途は明らかになっていません。しかし、遺構の配置状況から明治40年(1907年)にボイラーが据え付けられたのは、上段の煉瓦遺構であったと推測されます。当時は蒸気機関も設置される予定で、発生した動力は滑車とベルトで伝達され、上段と下段それぞれの選鉱の機械を動かす設計であったと考えられます。下段にある高さが揃った5基の煉瓦構造物は、回転軸を保持するための土台として築造されたものと推測されます。また、5基の煉瓦遺構より約2.4m高い東側の煉瓦構造物も機械選鉱場の一部で、鉱石シュートと想定されます。
@製錬所で出土した赤煉瓦。 @鍋形カラミとカラミ煉瓦。
@煉瓦の刻印も残っています。
 @溶鉱炉跡の煙道吸込み口。多田鉱山からは銀、銅、鉛が産出されました。鉱石は硫黄を含む鉱物(黄銅鉱や方鉛鉱)で構成され、溶鉱炉で製錬する際、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)が排出されました。このため、明治時代には各地の製錬所で煙害が問題になりました。堀家製錬所の排煙施設は、溶鉱炉と焼鉱炉の2箇所の吸込み口から煙道を通り、排出される設計になっています。煙道は念力山の山頂(標高約227m)まで、坑口を避けながら山頂まで斜面に沿って約200mおよぶ長さで築かれました。この排煙施設は煙道と煙突で構成され、創業当時は最善の排煙対策が取られていた事を示す文化財です。現在は残っていませんが、山頂には大きな煙突が有り、地元では煙突山と呼んでいました。念力山一体には、煙道を含めて崩壊しやすい遺構がたくさん有ります。地域住民の方の配慮により、当時の状況を伝える貴重な遺構が良好な状態で現在も残っています。
@多田銀銅山 悠久の館は以外と展示物が少ない。もう少し鉱山用の機械とかの展示が欲しかった。
 @銀山代官所跡:銀山橋の南方に有る約千坪の広大な銀山役所跡。多田銀銅山は品位の高い銀の産地として、豊臣時代・徳川時代(天正期〜慶長期)そして徳川時代(寛文期〜天保期)と二度も全盛を極めました。当時、銀山の人口は1万人にも達し、個数は3千戸あったと言われています。銀山の最盛期は、寛文期で寛文4年(1664年)には銀が5,625kg、銅が453t産出していました。明治時代、役所廃止後は、鉱夫の住居地や畑地として転用されました。
 A高札場跡。高札は、法度・掟書・犯罪人の罪状などを板札に墨で記し、人々に広く周知させるため、交通量の多い、人目に付く場所に掲げられました。地元に残されている絵図には銀山橋の脇に高札場が描かれている。
A鉱山住宅の廃屋と思われる。
B青木間歩看板と川に降りる階段。
B橋を渡り、その先10m程先に青木間歩坑口が有る。
 B青木間歩:周囲にアオキが茂っていたことからその名が付いたと言われています。江戸時代に採掘されたと思われる手堀の露頭堀と、削岩機などの機械を使って採掘された坑道との両方が楽しめます。唯一、坑道内を体験出来る間歩です。照明設備もあり、午前9時〜午後5時まで自由に見学出来ます。尚、坑道は江戸時代に間歩と呼ばれていました。
B入口から10m程で突き当たるが、この先に旧坑道が有るらしい。
B青木間歩は入口から10mで突き当たり、右へ坑道が折れている。
B行き止まり。青木間歩は意外と見所が無い。
B手堀の旧坑道跡。
B手堀の旧坑道跡。
B手堀の旧坑道跡近くに穴が開いている。
C煉瓦及び耐火煉瓦を使った焼却炉。
 D日本鉱業多田鉱山事務所跡。昭和41年4月より月産粗鋼量400t生産を開始しましたが、京都の河守鉱山(日本鉱業)の鉱量枯渇による閉山に伴い多田鉱業所となりました。しかし、多田鉱山も鉱量枯渇により昭和48年6月には遂に閉山となりました。昭和47年10月鉱山事務所陣容は坑内25名、坑外14名の計39名でした。記録によると、鉱石は選鉱場で精鉱とずり(廃石)に仕分けられ、一部は河守鉱山(京都府)に輸送されていました。
D日本鉱業事務所跡。 D多田銀銅山大露頭。
D多田銀銅山大露頭。 D坑口らしき物が見える。
E日鉱採鉱エレベーター跡。
 D台所間歩。瓢箪間歩と同様、豊臣秀吉が開口したという銀山の最も代表的な間歩。豊臣時代に良質な銀・銅が出鉱し、当時大阪城の台所をまかなう、すなわち、豊臣政権の経済を支えるほどの豊富な量であった事から、台所間歩と呼ばれています。右図は、最後の銀山役人であった秋山良之助が描画した徳川時代の「柵内銀山町御用地略絵図」のうちの台所間歩周辺の様子を表しています。
D台所間歩の入口は柵が設けられ、鍵が掛かっている。
F台所間歩と瓢箪間歩間の道路。
 G瓢箪間歩。足利時代に一度盛山であった旧間歩。豊臣時代(天正期)におびただし銀・銅を産出し大繁栄した代表的な間歩。山先(鉱山技師)の原丹波、原淡路親子がこの鉱脈を発見し、ほうびとして豊臣秀吉の馬印である線成瓢箪を与えられ入口に掲げたことから瓢箪間歩と言われています。検分に来た豊臣秀吉が馬上のまま坑内に入ったという言い伝えがあります。
G瓢箪間歩の坑口にも柵が設けられ、鍵が掛かっています。
H石散当の石柱と日本鉱業多田鉱山の廃屋。
H日本鉱業多田鉱山の廃屋。
H日本鉱業多田鉱山の廃屋。
Hこの先に千石間歩が有る? H奥に溜め池が有る。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『猪名川町』を掲載」
出典: 猪名川町 多田銀銅山 悠久の館
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