更新日時 2008年09月14日

吉見の百穴
−国指定史跡− 
電話番号 0493−54−4541 営業時間/午前8時30分〜午後5時
入園料 ・ 中学生以上:300円・ 小学生:200円・ 小学生未満:無料休園日/年中無休
 吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末〜7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定された。横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたものであるが、死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じである。百穴が分布する一帯は凝灰質砂岩と呼ばれる比較的掘削に適した岩盤が広がっており、当時の人々は掘削するのに適した場所を探して横穴墓を造ったと考えられる。吉見百穴は明治20年に発掘調査が実施されているが、わずかな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんど残っていない。現在確認できる横穴の数は219基である。
吉見の百穴 軍事工場跡
 昭和19年〜20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡である。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴である。
 太平洋戦争の末期、米軍の大規模な空襲によって日本の航空機製造工場の生産能力は壊滅的な打撃を受けた。当時、東京都武蔵野市の中島飛行機工場は、空襲から逃れるために地下に移転する計画があったが間に合わず、昭和19年11月と12月の2度の空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われている。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。吉見百穴にある地下軍需工場跡は、こうした空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたのである。本来、市ノ川は湾曲しながら百穴の裾の付近を流れていたが、地下軍需工場の前面に平地を確保するため川を西に移動させ、湾曲した川を直線に改修し現在のようになったと言われていることから、この工事が大規模なものであったことが理解できる。
 軍需工場の対象となったのは松山城から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいた。おそらく吉見と松山にいたる工事という意味と思われるがその理由は定かではない。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していた。ダイナマイトを使用しての工事であったが、地下施設工事に適した凝灰質砂岩の分布は百穴と岩粉山付近でしか認められず、松山城下には第三紀層の固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航したと言われている。また、この工事は設計後の図面に基づいて実施しているわけではないので、工事を進めながら設計を進めるという作業であった。そのため掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われている。七月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様であるが本格的な生産活動に移る前に終戦となった。この工事に携わったのは全国から集められた3,000〜3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事であった。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けている。
−国指定天然記念物−
  ヒカリゴケはコケ類の一種であり、緑色の光を放出しているように見えるところから、この名がついている。ヒカリゴケの生育には、一定の気温と湿度を保つ環境に恵まれることが必要で、この条件に合った吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。ヒカリゴケは一般的に中部以北の山地に見られるが、関東平野に生育していることは植物学上極めて貴重である。
吉見の百穴の上部に行く道 吉見の百穴の山から東松山方面を見る
 横穴墓の形態は数種類に分類することが可能であるが、ほとんどの横穴の壁際には10〜20cm程の段が作られている。これが死者を安置した部分であり、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示している。また、横穴墓の入り口には「緑泥片岩」と呼ばれる山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていた。この蓋の存在は、横穴に死体を葬った後であっても、再び石室内に入ることが可能であることを意味する。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」を前提にしているのである。これは古墳時代後期に造営された古墳の石室構造と同じものである。
 仏教が伝来したのは西暦552年(一説には538年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年〜622年であり、百穴が造られ始めたころとほぼ一致する。仏教が本格的に広まるのは後年のことではあるが、古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することが出来る。
 また、6〜7世紀は地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力をいっそう強め、日本全体が中央集権国家へと移り変わっていった時期である。西暦645年の「大化の改新」以降、中央集権国家としての国家機構は加速していくことになる。646年には葬送の儀式に関係した「薄葬令」が出された。「薄葬」とは一言でいえば「簡単に葬ること」で、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を禁止した法律である。西暦652年には班田収受法が施行され、豪族の支配していた「土地」と「人」のすべてが大和朝廷の支配下に置かれるようになり、公地公民制が本格化されていった。
 この「仏教伝来」「中央集権国家」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのである。
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