更新日時 2011年12月05日

 高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。平成16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては「八葉蓮台」という大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。
 奥の院 弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
 @一の橋:この橋は、弘法大師御廟に向かう参道入口で最初に渡る橋なので、一の橋と言われます。正式には大渡橋(おおばし)と言われ、昔から、お大師様が人々を、ここまで送り迎えしてくれると言い伝えられ、今でも、この橋の前で合掌一礼してお参りします。
 @司馬遼太郎の文学碑の所から国道371号線沿いの参道と山沿いの参道に分かれる。右写真は国道沿いの参道。
A岡山津山森家墓所。 A森中将忠政墓所。
 A高野山町石道:弘法大師空海が高野山を開創して以来、聖地高野山への表参道であり、信仰の道とされてきました。その道しるべとして建てられたのが町石で、高さ3mを超す五輪塔婆の形をしており、根本大塔を起点として慈尊院まで1町(約109m)毎に180期、弘法大師御廟まで36基建てられています。「紀伊山地の霊場と参道」として、西暦2004年(平成16年)7月7日、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
B龍泉院墓所。 B信州松本水野家墓所。
C多田満仲墓所。 C紀州初代藩主徳川頼宣墓所。
 D武田信玄勝頼墓所:武田信玄は、好敵手上杉謙信とともに乱世を生きた戦国武将であるが、正確直情の中にも文字を学び神仏に帰依し、その墓所を弘法大師空海の御傍この奥の院の一隅に求めた。戦国武将らしく簡素な墓石は、豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、却って人の心に迫るものがある。向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼供養塔。信玄の碑面表には、恵林寺殿とあり、裏面には天正元年(西暦1573年)4月12日逝去と記されている。また勝頼の碑面表には、宝泉事殿と刻まれ、裏面には天正10年(西暦1582年)3月11日逝去と記されている。菩提所は成慶院。
E紀州徳川家七代宗将墓所。  E大師の腰掛け石:弘法大師空海が、ちょっと休憩にと、腰を掛けた石であるという言い伝えが残されています。昔は「息処石」と書いて「腰かけ石」と呼んだと謂われています。
E播州姫路酒井家墓所。  E紀州徳川二代光貞三代綱教四代頼職六代宗直墓所。
F周防岩国吉川家墓所。 F伊達政宗墓所。
F奥の院の参道。
G薩摩島津家初代家久二代光久・網久墓所。 G石田三成墓所。
G上州高崎安藤家墓所。 G越後村上内藤候墓所。
G奥の院の参道。
H戸田家累代々墓所。 H筑後久留米有馬家墓所。
H陸奥白河二本松丹波家墓所。 H吉富製薬株式会社有縁物故者慰霊塔。
 H関西の私鉄王 松本重太郎翁の墓:ここに眠る松本重太郎翁は難波と高野山を結ぶ南海電気鉄道の前身、阪堺鉄道の創業者であり、初代社長をつとめたのをはじめ、銀行家、企業経営者として、明治中期の傑出した財界人である。明治18年には我が国私鉄の先駆けとなる「阪堺鉄道」創業の先頭に立ち、以来20年間その社長職の重責を全うした。かたわら九州鉄道、阪鶴、讃岐、豊川、七尾等の各私鉄の建設にも参画して「関西の私鉄王」の名をほしいままにした。その他にも朝日麦酒、日本精糖その他四十余を超える事業に直接、間接に関与して、五代友厚なきあと明治中期の大阪財界最高の指導者の一人であった。
 I中の橋:この橋は、一の橋と御廟橋(ごびょうばし)の中間にあるので、中の橋と言われます。正式には手水橋(ちょうずばし)と言われ、平安時代には、この場所で、身を清めていました。ここを流れる川は、昔から金の河と呼ばれ、金は死の隠語を表し、死の河、つまり三途の川を表しているそうで、この橋を渡ると、これから先は、死の世界に入ると言う意味になるようです。
 I中の橋を渡るとすぐの、この地蔵堂の中には、汗かき地蔵をお祀りしています。この汗かき地蔵は、世の中の人々の苦しみを、お地蔵様が身代わりになり一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられています。黒っぽい石材に地蔵尊が半肉彫りされていて、実際にツユが吹いて汗が流れているように見える時があるようです。姿見の井戸は、昔からこの姿見の井戸を覗き込んで、自分の影から映らなければ、三年以内に亡くなってしまうと言う、怖い言い伝えがあります。しかし最近では、自分の寿命を試そうと覗き込む勇気ある人も多いようです。
 J第2次世界大戦に於いて北ボルネオに派遣され、オーストラリア軍との戦いに戦没された両軍の将兵並びに殉死された現地住民の総慰霊を祀ってあります。  J禅尼上智碑:この供養塔は、高さ90cmの砂岩製で、梵字が一字と、永和元年(西暦1375年)の北朝の年号が刻まれています。昔から、この供養塔に耳をあてると極楽の声に似た音が聞こえると言い伝えられています。
K森下仁丹墓所。 Kパナソニック墓所。
K奥の院の参道。
L高麗陣敵味方戦死者供養塔。 L京都音羽組納骨塔。
L奥の院の参道。
M豊後岡中川家墓所。 M安芸浅野家墓所。
Nビルマ方面戦没英霊納骨塔パコダ。 N長州毛利家墓所。
O備後福山水野家墓所。 O肥前島原松平家墓所。
P奥の院の参道。
P安芸浅野家墓所。 P父母恩重碑。
 Q松平秀康及び同母霊屋:向かって右が越前松平家初代当主である松平秀康を祀る霊屋で、西暦1607年(慶長12年)に二代当主忠直によって建立されました。左側は秀康自身が母公を祀るために西暦1604年(慶長9年)に建立したものです。その当時の粋を凝らし、幅奥行き共7.5mの二基の石廟を並べ、瓦や壁は勿論、内部の柱や棟木、扉に至まで全て石造りとし、木材は殆ど使用されていません。壁面に削り出されたレリーフを含め当時の技術の高さを感じさせます。
 Q豊臣家墓所:この墓所の正面には、豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓があります。織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山応其上人の説得により、高野攻めを取りやめ、以後応其上人の言葉に耳を傾け、高野山を庇護するとともに復興興隆につとめられました。
Q奥の院の参道。
  R大黒天:大黒天は梵名摩訶迦羅(まかぎゃら)といい、戦闘神・財福神・冥府神としての性格が与えられていますが、日本では七福神の一尊としてよく知られています。一般的に知られる姿が説かれるのは唐で成立したとされる「大黒天神法」で、それによると頭に烏帽子、袴を着せ裙は短く袖は細く、右手は拳で右腰にあて、左手は大袋を持ち肩にかける大黒天像を食屋(厨房)に祀り供養すると、一般の家は栄えて富や位を得られ、寺院では千人の衆徒の食を養うことができるとされます。高野山の各寺院でも厨房には大黒天が祀られています。
 R御廟橋:この橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。この橋を渡る人は、橋の前で服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで霊域に足をふみ入れます。この橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には、仏様のシンボルの梵字が刻まれています。この橋の上で、あの苅萱道心(かるかやどうしん)と石童丸親子(いしどうまる)が初めてめぐり合ったとも伝えられています。この橋は従来、木の橋でしたが、現在は原型通りの石橋に架け替えられています。
 Sこの弘法大師御廟は、大師信仰の中心で聖陵です。転軸、楊柳、摩尼の三山の千年杉に周囲を囲まれ、奥深く厳かな、たたずまいを見せています。 お大師様は、西暦835年(承和2年)3月21日寅の刻、御年62歳で、予てからの予言通り御入定なさいました。玉川の清流に沿った台地に、ご入定前には、既に納涼坊、総修堂が建立されており、お大師様自ら廟所と決められていたとも伝えられています。御入定後、お弟子たちは、予定通りその場所に御廟を建立され、御入定後86年を経て、西暦921年(延喜21年)醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。この御廟で祈れば、お大師様は必ず応えて下さると言われており、入定留身の聖地として今日なお廟前に祈りを捧げる参拝者は絶えません。
 S奥の院:燈籠堂は真然大徳(しんぜんだいとく)が初めて建立し、その後、藤原道長によって西暦1023年(治安3年)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」があります。一つは、祈親上人(きしんしょうにん)が献じた祈親灯(きしんとう)。もう一つが、白河上皇が献じた白河灯(しらかわとう)です。この祈親灯の事を、祈親上人のすすめで貧しい生活の中、自らの髪を切り売ってまで工面したお金で、献灯したと伝わるお照(おてる)の話に因んで貧女の一灯(ひんにょのいっとう)と呼ぶ説もあります。それにあわせて白河灯の事を、長者の万灯と呼び、貧女の一灯、長者の万灯の伝説が残るお堂です。
 @特別母樹林:一の橋より弘法大師御廟橋に至る奥の院参道沿いの樹齢数百年の杉の内、左の表札がついている樹木が特別母樹林です。特別母樹林とは、樹形材質ともに優れた樹木を保存し、優良な種子を確保する目的で農林水産大臣が法律(林業種苗法第四条)に基づき、指定された樹木です。
@奥の院前(中の橋)からの参道。右写真英霊殿。
AUCC上島珈琲株式会社墓碑。 A小松製作所墓碑。
B日産自動車株式会社慰霊碑。 B株式会社紀陽銀行慰霊塔。
Cシャープ慰霊塔。 Cヤクルト慰霊塔。
D福助株式会社慰霊塔。 D日本しろあり対策協会。
E土木建築殉職者之墓。 E新明和工業株式会社慰霊塔。
F奥の院前(中の橋駐車場)からの参道入口。
G清浄心院。
H赤松院。 H毘沙門天。
H恵光院。
 I苅萱道心と石童丸は、約四十年の長き間、この苅萱堂で修行されました。堂内には、親子地蔵尊を祀り、苅萱親子一代記の彫刻画を額に入れて掲げています。石童丸は父親を探すために母親と共に高野山の麓まで参りましたが、当時、高野山の掟であった女人禁制により、山に入れない母を学文路の宿に残して父を探し求め、一人高野山に登りました。しかし、石童丸の帰りを待ちきれずに、母親は病気を患い亡くなってしまいます。父の苅萱道心は、自分も修行中の身であるため、石童丸を自分の子供と知りながらも名乗りあわないまま、共に高野山で修行されたと伝わっています。この苅萱道心と石童丸の悲しい物語は、現在も、高野山にまつわる伝説として言い伝えられています。 I地蔵院。
J遍照光院。
K三寳院。高祖院。
Lビルマ戦没者慰霊塔。
L成福院。
M大園院。
N高室院。
O蓮花院。
 P金剛峯寺は、元は真然大徳のお住まいがあったところで西暦1131年(天承元年)10月17日に覺鑁上人(かくばんしょうにん)が鳥羽上皇の許を得て大伝法院(だいでんぽういん)を建立され、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立させた寺院で、その名を青厳寺と呼び応其上人の住いとなりました。その後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は西暦1863年(文久3年)に再建されました。西暦1869年(明治2年)3月に青厳寺と興山寺の2ヶ寺が統合され、さらに全国の真言宗寺院を総括する管長職が置かれました。現在は、奥の院祖廟を信仰の中心として結成された、高野山真言宗三千余寺、信徒約1千万人の総本山として、高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主の住いとなっています。 (拝観料500円)
 Q六時の鐘:この鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提を祈って、西暦1618年(元和4年)に建立されたことに始まります。福島候といえば、豊臣秀吉と柴田勝家との戦いで、賤ヶ岳七本槍といわれた、豊臣家きっての勇将でした。西暦1636年(寛永12年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることが有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。
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出典:高野山宿坊組合・高野山観光協会
高 野 山