更新日時 2012年08月20日

 通潤橋(つうじゅんきょう)は江戸時代の嘉永7年(1854年)に阿蘇の外輪山の南側熊本県上益城郡山都町(やまとちょう/旧・矢部町)の五老ヶ滝川(緑川上流に位置する一支流)の谷に架けられた石組みによる用水の水路橋である。形式はアーチ橋となっており、橋の上部には3本の石管が通っている。肥後の石工(匠)の技術レベルの高さを証明する歴史的建築構造物であり、国の重要文化財に指定されている。なお通潤橋を含む通潤用水は日本を代表する用水のひとつとして農林水産省の疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は、通潤用水と白糸台地の棚田景観として国の重要文化的景観に選定されている。橋の中央上部両側に放水口が設置されており(川の上流側に2つ、下流側に1つ)、灌漑利用が少ない農閑期には観光客用に時間を区切って20分程度の大規模な放水を行っている。この放水の本来の目的は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものである。最近では全国から通潤橋の放水風景を見に来る観光客も多い。この場所に石橋が建造されたのは最も谷が狭かったからであるが、200メートル程下流には五老ヶ滝(落差50m)があり原料となる石材が上下流の川底に大量に存在していたことも理由の1つである。高さ20メートル、長さ75メートルもあり、江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに全体の高さは国内最大である。常時人が渡れるもののあくまで水路のための橋であるため手摺等は一切無いが、これまで転落した人は一人もいないという。現在も現役で灌漑用に通水されているが、水需要の増大に対応して上流の川底に内径0.8メートルのヒューム管の送水管も設けられている。
通潤橋の案内看板。
御小屋史料館。
通潤橋の支保工模型。 通潤橋の下流側。
 通潤橋は嘉永7年(1854年)、水源に乏しい白糸台地へ水を送るために架けられた通水橋である。建造にあたっては地元の総庄屋であった布田保之助が計画を立てて資金を調達し、熊本八代の種山村にあった著名な石工技術者集団種山石工の協力を得、近隣農民がこぞって建設作業に参加した。この水路付き石橋はアーチ型の木枠(支保工)を作った上に石を置き、水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造された。石橋の木枠を外す最終段階には橋の中央に白装束を纏った布田翁が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだという。単一アーチ式水路石橋という特異な構造と物理的原理が見事に成り立っていることからその貴重さが認められて、昭和35年(1960年)に国の重要文化財の指定を受け、またくまもとアートポリス選定既存建造物にも選定された。この地域には通潤橋の他にも規模の大きなアーチ石橋が架けられており、加藤清正以来の肥後石工集団の技術の高さを示すものである。この橋は2つの地区を水路で結んでいるが橋の位置は2つの地区よりも低い位置にあるため、水を通す時には噴水管(逆サイフォン)の原理を利用している状態になる。ゴムなどのシーリング材料の無い時代であり、石で作られた導水管の継ぎ目を特殊な漆喰で繋いで漏水しないように密封して橋より高台の白糸台地まで用水を押し上げている。通潤橋は日本の独自技術で実現した最初の噴水管(逆サイフォン)の橋と考えられており、NHKの番組「新日本紀行」などで紹介された。またこの橋の建設の物語は『肥後の石工』というタイトルで児童向けの本となっており、それが国語の教科書に取り上げられたこともある。
通潤橋の橋の上。手摺りはないが橋梁の幅が広いのでさほど怖くはない。
通潤橋の水栓。 通潤橋から見る風景。
通潤橋の上流側。
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通潤橋