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更新日時 2017年01月02日
広島陸軍兵器補給廠は、現在の広島市南区霞町に存在していた日本陸軍の施設(1940年以前の名称は「広島陸軍兵器支廠」)。帝国陸軍の武器弾薬の集積・補給を行っており、近隣には陸軍要塞砲兵連隊(のち電信第2連隊 / 比治山本町)・広島陸軍被服支廠(出汐町)・演習砲台などの陸軍施設があった。戦後、広島県庁、ついで広島大学の医療系学部や広島大学病院が跡地に移転し(広大霞キャンパス)、かつての補給廠の建物は医学部の食堂などに転用されていたが、1970年代以降次々と解体が行われ、最後まで「医学資料館」として使用し保存されていた11号館(第11兵器庫)も1999年(平成11年)に解体された。その際、外壁の一部が広島市中区の修道中学・高等学校で被爆建物として保存・展示されている。 | |
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G現在の医学資料館は取り壊されたレンガの一部を利用し復元的に建築されたレプリカ。 |
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G明治27年に勃発した日清戦争をきっかけに広島は軍事都市としての性格を強め、市内に多くの軍事施設が設置され、この地にも兵器支廠(軍用倉庫)として11棟の2階建て煉瓦造群などが建設された。昭和20年8月6日、原爆に被災したものの、比治山の陰で建物に大きな被害は無く、臨時救護所として罹災者の救護が行われました。戦後は広島県庁などに、その後、広島大学医学部に移管されましたが、施設整備の拡大に伴って次々に姿を消しました。最後の1棟となった11号館は、医学部創立30周年を記念して設置された医学史料館などとして利用され続けて来ましたが、新病棟の整備に伴い平成11年3月に取り壊されました。この建物が大正初期の建造物であり、広島市被爆建物等保存・継承建物であったことから、新しく医学資料館を建設するにあたり、玄関を中心とした煉瓦壁及びほとんどの石材は11号館に使用されていたものを利用し、外観はほぼ完全な形で復元しました。平面が見える部分の煉瓦の刻印を探しましたが、見つかりませんでした。 |
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G11号棟の頭頂部の石材が残されている。 |
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G現在の医学資料館は取り壊されたレンガの一部を利用し復元的に建築されたレプリカ。赤煉瓦及び塩焼き(焼きすぎ)煉瓦は両方とも復元されたレプリカ。 |
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Gレンガの一部を再利用し復元した部分。色が違うので解ります。 |
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G現在の医学資料館は取り壊されたレンガの一部を利用し復元的に建築されたレプリカ。 |
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G広島県立医科大学予科の校舎(豊田郡安浦町)広島女子高等師範学校と同じキャンパスを使用した。 |
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G原爆ドーム被爆石材。 |
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G原爆ドーム被爆石材。 |
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G原爆ドーム被爆石材。 |
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G元安川より発掘された刻印入り煉瓦。2015年4月5日に実施された原爆ドーム竣工100年記念発掘調査の際に発見されました。発掘場所は原爆ドーム前元安川西側護岸付近の川床。 |
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