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更新日時 2017年11月06日
赤森煉瓦倉庫群:イギリス積みの煉瓦の壁体の美しい建物で,港町らしさを感じさせる建物である。切妻の屋根,開口部はアーチ型の防火扉となっており,地区の歴史性を最も良く表している。平成7年に、テナントショップとして倉庫から生まれ変わる。 金森赤レンガ倉庫の歴史は、初代渡邊熊四郎が最初の事業、金森洋物店を開業したところから始まります。明治2年(1869年)榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、開拓使出張所が函館に置かれた年、まさに新しい時代の幕開けでした。24歳の時に長崎から函館にやってきた熊四郎は、旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の事業を営むかたわら函館四天王の一人として創設期の函館に数々の業績を残しました。特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校や病院の建設、公園や水道施設の整備等、多くの公共事業に私財を投じました。 | |
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B赤森煉瓦倉庫。1869年(明治2年)、大町に金森森屋洋物店を開業した。これが現在の赤レンガ倉庫の起源となる。背景として、同年に榎本武揚らが率いた旧幕府軍が洋装の官軍に次々と倒されるのを見て洋服の時代を確信したことがあったとされる。函館市内に開拓使出張所が設置された経緯がある。洋物店開業の際、屋号を森屋とした。現在もレンガ建物に描かれている、「曲尺(かねじゃく)」(“金”にも掛けている)に「森」の字のトレードマークは、この開業の時の商標である。曲尺の記号には律義でまっすぐという意味があり、商売に駆け引きは不要としていた初代らしい屋号である。 |
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B赤森煉瓦倉庫。現在倉庫群が位置しているのは、幕末に造船所や外人居留地があった埋立地である。この地は「地蔵町築島」と呼ばれ、明治時代以降は「船場町」という名に改称された。1872年には開拓使の官吏であった福士成豊により、日本人による最初の気象観測が行われた場所でもある。 |
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B赤森煉瓦倉庫。1884年(明治17年)頃より、渡邉熊四郎は自身の事業に倉庫が必要であると考え始めた。翌1885年(明治18年)には共同運輸会社と郵便汽船三菱会社が合併し、日本郵船会社が設立。この合併により共同運輸会社がそれまで使用していた倉庫建物や地所が不要となっていたため、熊四郎がそれらを買い取り1887年(明治20年)より営業倉庫業を始めた。 |
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B赤森煉瓦倉庫。函館市内において最初の営業倉庫業であった。1890年(明治23年)頃には海運業が栄え、最初は不振だった倉庫業も倉庫の数が不足するほどに、預り貨物の量が増えていった。その後は金森船具店などを開業する傍ら倉庫の数を増やし、建物の建材には煉瓦や瓦が壁や屋根に使用された。また、同年にドイツの商人が住んでいた洋館を買い上げて場所を湯川へと移動させ、洋館のあった場所に倉庫を建設していった。 |
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B赤森煉瓦倉庫。 |
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B赤森煉瓦倉庫。腰壁部分は焼き煉瓦が使われている。 |
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B赤森煉瓦倉庫はイギリス積みで積まれている。 |
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B赤森煉瓦倉庫の軒下の平面を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。 |
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B赤森煉瓦倉庫の送水口。この送水口は後年に付けられたと思われる。 |
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