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更新日時 2018年02月04日

 観音崎煉瓦構造群:観音崎は、神奈川県横須賀市鴨居4丁目に位置する岬。三浦半島東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する。対岸の房総半島富津岬までは約7kmである。付近は「県立観音崎公園」として整備され、観音埼灯台が立地するほか旧日本陸軍が明治10年代から20年代にかけて建設した砲台と弾薬庫跡が多く残る。園内にはこのほか1953年創立の観音崎自然博物館があり、横須賀美術館が2007年(平成19年)4月に開館した。博物館横の「たたら浜」には円谷英二監督の怪獣映画「ゴジラ」でゴジラが日本に上陸したところが観音崎だったことにちなむゴジラの足跡がある(実際にはゴジラが上陸したのは品川である)。園内には墓と見られる多くの横穴が崖にみられる。また、海上保安庁東京湾海上交通センターも公園内にある。 観音崎海水浴場が隣接しており、夏季は海水浴客で賑わう。他に京急の観音崎京急ホテルや海上自衛隊観音崎警備所がある。
@住友重機械工業浦賀ドックの煉瓦塀。浦賀船渠(うらがせんきょ)は横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。
@住友重機械工業浦賀ドックの煉瓦塀。太平洋戦争後も海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年(平成15年)に閉鎖された。
@住友重機械工業浦賀ドックの煉瓦塀はフランズ積みで積まれている。
@住友重機械工業浦賀ドックの煉瓦塀天端は焼き過ぎ煉瓦で積まれている。焼き過ぎ煉瓦は吸水率が赤煉瓦に比べて少ないので、雨が一番当たる部分に使われている。
@住友重機械工業浦賀ドックの明治32年(1899)に作られたクレーン。ジブ部分が下に降ろされている。1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成。クレーンは昭和18年製。
@住友重機械工業浦賀ドック。2008年の駅からハイキングの時に撮影。浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつである。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。
(2008年10月18日撮影)
@住友重機械工業浦賀ドック。2008年の駅からハイキングの時に撮影。
(2008年10月18日撮影)
@住友重機械工業浦賀ドック。2008年の駅からハイキングの時に撮影。ドライドックで使われていた煉瓦?フランス積みのサンプル。
(2008年10月18日撮影)
A浦賀かもめ団地の蛸の滑り台。
B多々良浜のトーチカ。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道を抜けるとコンクリート造りの構造物が残る。
C海上自衛隊観音崎警備所下の観音崎に抜ける隧道を抜けるとコンクリート造りの構造物が残る。
C海上自衛隊観音崎警備所に昭和12年頃に旧日本軍が建造した検潮所跡が残る。
C海上自衛隊観音崎警備所に昭和12年頃に旧日本軍が建造した検潮所跡が残る。潮の干満を調査する機械が設置されていたが現在は使われて無く鵜の休憩所となっている。
E2代目観音崎燈台の残骸。日本初の洋式灯台であり、この灯台の着工日を記念して11月1日が灯台記念日に指定された。初代の設計はレオンス・ヴェルニー等が担当したが、大正時代の地震により2度再建され、現在の灯台は3代目にあたる。地震で被災した初代に代わりコンクリート造で再建されたが、関東地震(関東大震災)により、わずか半年ほどで崩壊した。
E観音崎燈薹所轄地の境界杭。
E旧陸軍の境界杭(表)
E旧陸軍の境界杭(裏)
防二0三。
E3代目観音埼灯台。
F天武天皇の御代天平十三年(741年)の春、行基菩薩は諸国修行の途中ここに来られ、この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を鵜羽山権現として祀られました。
G北門第1砲台跡。ここ観音崎は三浦半島の最東端にあり東京湾を一望できることから古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されていました。この砲台は明治13年6月5日着工、明治17年6月27日完成。半円形の2基の砲台が扇型に配置されここに口径24cmの巨砲2門が海に向かって並び両砲台はトンネルで通じており地下には弾薬庫と兵員室などが有りました。
G北門第1砲台跡。
G北門第1砲台跡。地下の弾薬庫と兵員室へ降りる階段があったが、埋められている。
G北門第1砲台跡。地下の弾薬庫と兵員室の階段隙間から撮影。
G北門第1砲台跡。
G北門第1砲台跡。
G北門第1砲台跡。
G北門第1砲台跡。煉瓦はフランス積みで積まれている。落書きが多いのが残念である。
G北門第1砲台跡。
G北門第1砲台跡の煉瓦の平面を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
G北門第1砲台跡の煉瓦の平面を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
G北門第1砲台跡の煉瓦の平面を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
G北門第1砲台跡。謎の突起物。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道内部に煉瓦積みの横穴がある。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道内部に煉瓦積みの横穴がある。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道内部に煉瓦積みの横穴がある。内部はモルタル塗りの白い壁で覆われている。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道。
H北門第2砲台跡(東京湾海上交通センター)から連絡道に抜ける隧道。
I北門第2砲台跡。ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。この砲台は明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。24cm加砲6門と弾薬庫が作られましたが、現在は4砲座と弾薬庫が残っています。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
奥行きが約12m。
内部はフランス積み。
I北門第2砲台跡。
レーザー距離計で奥行きを計測。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
奥行き約3m。
内部はフランス積み。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
奥行き約9m。
内部はフランス積み。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
奥行き約2m。
内部はフランス積み。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
I北門第2砲台跡。
奥行き約7m。
内部はフランス積み。
I北門第2砲台跡。
I東京湾海上交通センター。
ここにも砲座があったが、東京湾海上交通センター建設のために2砲座解体された。
I東京湾海上交通センター。
J観音崎第3砲台へ続く隧道。
J観音崎第3砲台へ続く隧道はイギリス積みで積まれている。
J観音崎第3砲台へ続く隧道内部。一部は岩盤むき出し。
J観音崎第3砲台へ続く隧道。
J観音崎第3砲台へ続く隧道。
J観音崎第3砲台の弾薬庫。
J観音崎第3砲台の弾薬庫。
この弾薬庫はイギリス積みで積まれている。
J観音崎第3砲台の弾薬庫。
内部もイギリス積み。
J観音崎第3砲台の弾薬庫の奥行きは約11.5m。
J観音崎第3砲台。明治17年6月27日完成。
J観音崎第3砲台。
J観音崎第3砲台の擁壁煉瓦はフランス積み。
J観音崎第3砲台。
J観音崎第3砲台擁壁煉瓦の天端を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
J観音崎第3砲台擁壁煉瓦の天端を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
J観音崎第3砲台横のこの部分は何だろうか?トイレ?この部分もフランス積み。
J観音崎第3砲台上部のスペース。
K戦没船員の碑。
K神戸商船大学に保存されていた進徳丸は、平成7年1月17碑、阪神・淡路地方を襲った大地震により、設置地盤が崩壊したため、老築化していた船体は解体撤去されることになり、平成8年2月多くの人々に惜しまれつつ、その波乱に満ちた生涯を閉じました。解体された進徳丸の船首とマストは、神戸商船大学の「進徳丸メモリアル」に残りました。
K大浦堡塁砲台。明治29年7月31日完成。
K大浦堡塁砲台。明治29年7月31日完成。
K大浦堡塁砲台の煉瓦はイギリス積み。
Mここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため東京湾防備の重要地点として明治13年〜28年の間に観音崎各所にに煉瓦とコンクリートによる15箇所の近代砲台が築かれました。これらの砲台は日清、日露戦争時代に活躍したものです。この場所は三軒家砲台跡です。
M三軒家砲台跡の門樋。
M三軒家砲台跡。弾薬庫跡。
M三軒家砲台跡。弾薬庫跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。イギリス積みで積まれている。
M三軒家砲台跡。弾薬庫跡。
先ほどの鉄の扉が付いた弾薬庫跡と繋がっていた。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。
M三軒家砲台跡。弾薬庫跡。
M三軒家砲台跡。弾薬庫跡。
焼き過ぎ煉瓦のイギリス積みで積まれている。
M三軒家砲台跡。井戸があった。
N登録有形文化財走水水源地。横須賀軍港水道走水水源地の第1期拡張工事で建設された上屋付き煉瓦造貯水池。内部空間を構成する扁平ヴォールトが,入口・丸窓を左右対称に配した壁面で覆われ,屋上は盛土される。横須賀鎮守府経理部建築科の海軍技師井川喜久蔵,堀池好之助らが担当。
N登録有形文化財走水水源地。
N走水水源地の平面が出ている部分を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
N登録有形文化財走水水源地。明治9年(1876年)に横須賀造船所に通水したのが始まりで、市内唯一の自己水源地です。明治35年(1902年)に完成した煉瓦造貯水池とその後に造られた国内では初期の鉄筋コンクリート構造の浄水池は、いずれも国登録有形文化財となっています。昔から走水の湧水は水量が豊富で、ミネラルを含んで美味しく、腐らないと評判でした。
湧水が涸れたという記録はなく、水量は1日2,000立方メートルあります。
N登録有形文化財走水水源地。
N登録有形文化財走水水源地。
O走水第2隧道走水町側。このトンネルの前身は導水隧道で、明治9年横須賀造船所に走水の湧き水を送る土管敷設するために掘られた。当時は、およそ幅が1m、高さが1.5m長さが320mの素掘りで途中海側に明かり取りの丸窓が付いた1本のものであった。その後、東京湾要塞として走水・観音崎地区の重要性が高まり、馬車による交通路を確保するため、軍によって明治16年、およそ現在の規模に拡張された。
O走水第2隧道走水町側。
P走水第2隧道馬堀町側。
P走水第2隧道馬堀町側。
P走水第1隧道走水町側。
P走水第1隧道走水町側。
P走水第1隧道走水町側。下部はイギリス積み。
Q走水第1隧道馬堀町側。
Q走水第1隧道馬堀町側。横須賀造船所のフランス人技師ヴェルニーが計画した軍港水道で、明治9年(1876)に市内で初めて水道管を敷設したトンネルです。走水の豊富な湧水を7km先の造船所へ通水するため、高低差10mの傾斜を利用した自然流下方式でした。当初の低く狭い1本の長い曲線のトンネルを、軍用道路として拡張し、明かりとりの穴を削って、現在の2本に改修しました。馬堀側トンネル入口の山腹に、古墳時代後期の横穴群があります。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『横須賀市』を掲載」
煉瓦構造物 観音崎煉瓦構造群