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更新日時 2023年06月21日

 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる。日本において煉瓦建築の技術は、近代化とともに導入されたが、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災では多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。ただし、建材には煉瓦風のタイルも様々な種類が存在し、仕上げ材としては現在でも多く用いられる。これは洋風の雰囲気を出すため、木造や鉄筋コンクリート造の表面に張り付けるものである。
上記イラストはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より借用。
煉瓦構造物 ねじりまんぽ 煉瓦塀
煉瓦樋管 ランプ小屋 煉瓦橋梁・隧道
煉瓦構造物写真集
門司区大里本町2丁目煉瓦倉庫:北九州市門司区大里本町2丁目にある煉瓦倉庫。用途不明、個人宅?煉瓦は粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。日本において煉瓦建築の技術は近代化とともに導入されたが構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり関東大震災では多くの被害を出したことから煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。
関門製糖:砂糖を製造する製糖会社。鈴木岩治郎は1874年に兵庫県で商社である鈴木商店を創業(現在の双日)。1903年には大阪辰巳屋と合同で北九州市の大里に大里精糖所を設立。大日本製糖に買収。大日本製糖は第二次世界大戦までは台湾工場を持ち北大東島と南大東島を社有島としていた。1982年(昭和57年)6月 大日本製糖株式会社と三菱商事が出資し、西日本製糖株式会社として設立。大日本製糖の砂糖製造を受託。
飯野物産門司営業所:北九州市門司区大里本町2丁目3番1号にある飯野物産門司営業所の煉瓦造りの倉庫。大正13年(1924年)現北九州市門司区に飯野商店として創業して以来、住宅設備機器商社として快適な住まいづくりに邁進し90年以上の年月が経過。外壁はイギリス積み。
旧サッポロビール九州工場(門司赤煉瓦プレイス):福岡県北九州市門司区大里本町の旧サッポロビール九州工場の施設を保存活用した建物群。当地には1913年(大正2年)に帝国麦酒が門司麦酒工場を建設し、その後変遷をへてサッポロビール九州工場として稼働していたが1996年(平成8年)に老朽化等により大分県日田市の新九州工場への移転がサッポロビールより発表され、2000年(平成12年)に新工場竣工に伴って旧・九州工場は閉鎖された。保存された建物群は2007年(平成19年)に国の登録有形文化財に登録。
旧門司税関:福岡県北九州市門司区の門司港地区にある歴史的建造物を復元した建築物。1912年(明治45年)3月、前々年に焼失した門司税関の2代目の庁舎として建設、1927年(昭和2年)西海岸に3代目の庁舎となる旧合同庁舎が完成するまで使用された。その後民間に払い下げられ、1945年(昭和20年)6月の門司空襲によって屋根がなくなり、修復される直前は窓はモルタルで塞がれ、倉庫(松庫ビル)として使用されていた。歴史的意義を踏まえ過去の写真などを元に復元された。
旧大里製粉所倉庫:かつて日本一の年商を誇った鈴木商店は国産の製粉の需要が増えたことを背景に明治43年(1910年)に大里への製粉会社進出計画を発表。翌年にかけて旧大里製粉所倉庫(現ニッカウヰスキー(株)門司工場倉庫)を含む、大里製粉所の工場群が建てられた。大正4年(1915年)大里製粉所は火災に見舞わる。工場1棟、倉庫2棟が全焼する大火事でしたが、復旧を急いだことで翌年再開。この時、新しくつくられた倉庫が、今もニッカウヰスキーの倉庫として使われ続けている。
旧下関英国領事館:山口県下関市唐戸町に現存する国内最古の領事館用途の建築である。1906年(明治39年)12月に竣工した煉瓦造2階建。1999年(平成11年)5月に国の重要文化財に指定された。領事館建設にあたっては、英国工務局上海事務所の建築技師長ウィリアム・コーワン(William Cowan)が当地を訪れ、敷地調査の上、設計に取りかかった。工務局のロンドン本局は1903年の設計案を却下、1905年の案に対してはベランダやペディメントの変更を指示した。
楠原天主堂:長崎県五島市岐宿町楠原736番地3にある煉瓦造りの教会。楠原天主堂は、宣教師の指導と資金援助のもと、信徒達の資金拠出と子供、老人まで総力をあげての労役奉仕によって、1912年(明治45年)に完成したものであり、西欧の建築様式が施され、福江島内で堂崎天主堂とともに歴史を刻む教会堂である。
堂崎天主堂:長崎県五島市の福江島にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂である。江戸時代からのキリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂。設計はペルー神父、施工は野原与吉・鉄川与助が担当し、1908年に完成した。煉瓦造・ゴシック様式の平屋で、五島初の洋風建築とされ、その美しい外観は五島内の他の天主堂の模範となった。内部は木造で、ステンドグラスの模様は五島の他の教会と同じく椿をモチーフとしている。リブ・ヴォールト天井はイタリアから資材を運び込んだといわれている。
旧武毛銀行本店:武毛銀行は明治期から大正期の埼玉県下吉田村(現・秩父市)に本店のあった銀行。1899年12月10日、下吉田村において金融会社金崎永保社を母体に国神銀行の名称で設立し1900年1月21日に開業。1902年8月15日に武毛銀行に改称。1922年6月15日に秩父銀行に買収され幕を閉じた。1919年頃に建築された本店は当地には珍しいレンガ作りの洋風建築であり現在も国の登録有形文化財として保存されている。
旧桂ヶ谷貯水池堰堤:山口県山口市小郡上郷(旧:小郡町)にある水道用貯水池の堰堤。旧小郡町の中心部は飲用に適した井戸がなく、付近の河川の水を飲用水として使用していたが、水需要の増加や伝染病への危機感から上水道の必要性が求められ、1922年(大正11年)に着工、翌1923年(大正12年)に完成した。山口県では2番目に築かれた近代的上水道システムである。2016年(平成28年)に国登録有形文化財に指定。
旧町屋変電所・発電所跡:1909年(明治42年)1月、JX金属株式会社の前身である久原鉱業所日立鉱山によって建設された水力発電所の変電施設。ゃ町屋へ行け」と偉大な町のシンボルを誇ったといいます。煉瓦造りで切妻屋根の建物と寄棟屋根の建物がつながった外観が特徴のこの変電施設は,町屋発電所から送られてきた電力をフランス製と見られる三相の碍子から取り入れ、各地に送電していました。1956年(昭和31年)まで変電所として機能した。
糸魚川駅煉瓦車庫モニュメント:平成27年3月に北陸新幹線長野−金沢が開業しその新幹線工事において煉瓦モニュメントの整備工事を行った。糸魚川駅構内にたっていた煉瓦車庫が解体された際に、大小62個に分割保存された一部分を再度組み立て復元したもの。裏側は鉄骨で補強されている。
旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場:旭川市街北部に位置する。明治29年に札幌に置かれた第七師団が、明治32年鷹栖村字近文に移転することに決まり、直ちに諸営舎、官衙が大規模に建設された。その営舎の一つである覆馬場は積雪時の軍馬訓練用に作られた切妻造煉瓦建造物で明治末期から大正初期にかけて各連隊、大隊に設置された。本建物は騎兵第七連隊に属するもので、大正1年から大正2年の建築と推定され、現存する唯一の覆馬場の遺構である。
大久野島火薬庫跡:大久野島は瀬戸内海芸予諸島の一つであり、広島県竹原市に属する無人島(定住者なし、居住者あり)。「ウサギの島」「毒ガスの島」として知られる。昭和初期に国内で2箇所、大日本帝国陸軍では唯一の毒ガス製造工場があった島である。
小坂精錬煉瓦施設:小坂製錬株式会社は、金、銀、銅や鉛、錫などのリサイクル製錬を行うDOWAホールディングス傘下のDOWAメタルマインの事業子会社。秋田県鹿角郡小坂町に本社および製錬所を置く。過去には小坂製錬所で製造された濃硫酸を輸送するため、大館市の大館駅と小坂町の小坂駅を結ぶ鉄道として小坂線を所有していたが、同線による製品輸送は2008年3月で終了し、2009年4月1日に同線を廃止した。
函館水電第2発電所跡:土木学会近代土木遺産。渡島水電株式会社が1908年(明治41年)函館水電株式会社に社名変更、1910年(明治43年)大沼第二発電所運転開始。出力は900kw。1965年(昭和40年)2月3日に廃止。函館水電株式会社は北海道函館市にかつてあった電力会社、軌道事業者(路面電車運営)、路線バス事業者である。現在、電力事業は北海道電力、軌道事業は函館市企業局交通部、路線バス事業は函館バスに引き継がれている。
奥羽本線第二板谷峠隧道煉瓦排気口:1899年(明治32年)5月15日:福島駅 - 米沢駅間が開業。第二板谷峠隧道は板谷峠の下を全長 1,629 mの隧道で貫通し現在でも奥羽本線の下り線として使われている。この隧道は東西の坑口と深さ約90mの巨大な竪坑を掘って施工した。これによって切羽の数を増やし工期短縮と完成後の通風を狙った。この煉瓦の竪坑は102段に積まれた赤煉瓦からなり、外周7.2m、直径2.3m、高さ6.6mの円筒状。竣工後は蒸気機関車の排煙用として活躍。
野蒜築港煉瓦:野蒜築港は明治初期に仙台湾に面する桃生郡を中心に行なわれた港湾建造事業。鳴瀬川河口に内港、浜市村に新市街、野蒜村に外港を設けるという港湾建設のみならず運河・鉄道・道路の新設も行って水上・陸上の物流ネットワークをつくり上げる計画であった。日本初の近代港湾の建設であり、明治政府による東北開発の中心的な事業と位置づけられていたが完成から3年後に台風で突堤が崩壊し施設はそのまま放棄された。新鳴瀬川の両岸には煉瓦作りの橋台跡が残っている。
旧日本銀行京都支店(京都文化博物館):この建物は明治36年(1903年)9月に着工され、明治39年(1906年)6月に竣工した日本銀行京都支店の建物である。日本銀行京都出張所は明治27年(1894年)4月に東洞院通御池上るに開設されたが、業務の拡張に伴い明治39年7月にこの三条高倉の地に新築移転された。昭和61年(1986年)4月に京都府に寄贈され、京都府教育委員会文化保護課により創建当時の姿に修理・復元された後、昭和63年(1988年)10月に京都府京都文化博物館として一般公開した。
琵琶湖疎水第一竪坑:琵琶湖疏水は琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。切羽の数を増やし工期短縮と完成後の通風を狙った。第一竪坑の工事は乏しい光源の下で2、3人掛りの手掘りで行われたが、想定以上の岩盤の硬さと、湧水を人力で汲み上げるなどの人力に頼らざるを得なかった当時の技術が原因の過酷な重労働、出水事故などにより工事は難航。ポンプ主任の自殺を発端として事故などで殉職者が多発し、その数は17人を数えた。結局、47mの竪坑は196日間かかって完成した。
旧丸治醤油煉瓦倉庫他:加太町は1889年(明治22年)4月1日町村制施行により、海部郡加太浦、深山村、大川浦が合併して加太村が成立。1899年(明治32年)4月1日町制を施行して加太町となる。1958年(昭和33年)7月1日 市町村合併により和歌山市へ編入。大阪湾に面した和歌山市加太は、大阪と和歌山の府県境にあります。修験道の開祖・役行者が大峰山での修行前に加太を訪れたことから加太が修験道発祥の地ともいわれています。大正12年(1923年)建築の焼き過ぎ煉瓦、イギリス積みの蔵で丸治の商標が残る。
深水発電所跡:九州製紙に電力を送るために建設されたのが深水発電所で1921年に竣工。1926年4月に合理化を目的に、樺太工業は九州製紙・中央製紙・中之島製紙所の3社を合併。王子製紙は1933年5月樺太工業と富士製紙を合併。1949年8月1日王子製紙解散、後継会社である苫小牧製紙・本州製紙・十條製紙の3社が発足し十條製紙坂本工場深水発電所になる。1949年十條製紙と山陽国策パルプの合併で社名を日本製紙とした。1966年12月坂本工場閉鎖。1967年西日本製紙株式会社の工場として再稼動、1988年9月再閉鎖。
中川煉瓦製造所ホフマン窯は市街地北部の八幡堀と接する敷地に建つ。燃料商・柴屋を営んできた中川長九郎は明治16年(1883年)4月、東湖組を創立して煉瓦の焼成を開始する。これは滋賀県下の煉瓦製造の嚆矢をなす。東湖組は明治40年(1907年)前後に中川煉瓦製造所と改称し、さらに昭和9年(1934年)に大普煉瓦と社名を変更する。昭和42年(1967年)まで煉瓦を製造し、その後屋根瓦に転換したが、昭和45年以降休業する。長辺55m,短辺14mの南北に長い平面で,南寄りに約30m高の煙突を建てる。
矢納発電所は武蔵水電株式会社が鉄道軌道(川越電氣鉄道)の原動力のほかに、東松山市・小川町・秩父方面への電力の供給を目的として、大正3年に建設した埼玉県初の水力発電所である。昭和41年、水資源公団による下久保ダムの建設に伴い廃止となった。許可出力1,100KW、有効落差70.85m、使用水量2.23m3/S、水車HE-2SR 950KW ホワイト製2台、発電機1,375KW 芝浦2台。
本願寺伝道院:この建物は明治28年(1895年)4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、明治45年に東京帝国大学教授伊東忠太の設計、竹中工務店の施工により建築されたものです。当初は「本館」のほか「付属屋」、「倉庫」2棟、「物置、人力車置き場、便所」、「屋根付伝ひ廊下」が建っていましたが、現在は「本館」のみが残っています。
同志社大学致遠館:京都府京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町601番地に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は同大、同志社。今出川キャンパスは旧薩摩藩邸の跡地で、同志社英学校時代から利用されている。隣接して冷泉家、南に京都御所、北に相国寺がある。今出川キャンパス内では同志社礼拝堂、クラーク記念館など、5棟が国の重要文化財に指定されている。これらの建物は現在でも講義・事務所・礼拝等に使用されている。
同志社大学有終館:1887年(明治20年)竣工。面積352.06u(延704.12u)当初は「書籍館」(初代図書館)として建てられた。資金はアメリカン・ボートからの寄付で、設計者は同志社教員のグリーンである。施工は礼拝堂も請け負った京都の棟梁、三上吉兵衛。建物の平面は十字形である。元々南面が正面であったが、1917年に今出川通の拡幅に伴い今出川通りに面した玄関(階段)を現在のように東側に移した。
同志社大学クラーク記念館:1893年(明治26年)竣工。面積398.87u(延799.39u)新島襄が死去した翌年に亡くなった息子を記念してニューヨーク州ブルックリン市在住のクラーク夫妻が、同志社のために捧げた寄付金を元に建てられた神学館。2階の北側が礼拝堂として使われた。1963年に現在の神学館が竣工するまで「クラーク神学館」と呼ばれ、神学教育の中心施設であった。
同志社大学ハリス理化学館
1890年(明治23年)竣工。面積588.62u(延1,105.87u)同志社教員のラーネッドの知人であるアメリカの実業家、ハリスが「自然科学教育のために」と寄付した基金(10万ドル)の中から建てられ、イギリス人の建築家、ハンセルが設計した。この校舎で開校した「ハリス理化学校」は1896年に廃止されたが、1949年に発足した現在の工学部の前身に当たる。建築当時は屋上に天文台が設置されていた。
岡田煉瓦製造所は愛知県安城市根崎町西根283に本社工場を置く煉瓦の国内製造及び販売会社。明治30年(1897年) 4月1日創業。安城市の田んぼから粘土(三河粘土)を採掘し煉瓦を製造。三河粘土などを3種類配合した粘土を使用。
ノリタケの森は、ノリタケカンパニーリミテドによって同社の本社に隣接する工場跡地に作られ、2001年10月5日に開場した。ノリタケカンパニーリミテドの前身である日本陶器合名会社は1904年に森村市左衛門らによって設立され、名古屋市西区に工場・本社が建設され、食器の生産が行なわれていた。45mの高さを誇り工場のシンボルマークであった6本の大煙突が10メートル弱に切られた状態で並んでいる。赤レンガ建築、6本煙突、森村・大倉記念館 CANVASは経済産業省近代化産業遺産に認定されている。
旧九条山浄水場原水ポンプ室:設計は京都国立博物館を設計した宮廷建築家・片山東熊と山本直三郎が設計。明治45年(1912年)に竣工。琵琶湖第二疎水工事に伴い完成したこの重厚で美しい建物は「御所水道ポンプ室」と呼ばれ、京都御所に防火用水を送る目的で建てられた施設で、京都御所の紫宸殿より高くするためにこの場所に造られた。平成4年(1992年)に取水を停止している。
サッポロビール博物館は、日本国内で唯一となるビールに関する博物館になっている。 サッポロビール博物館の煉瓦造の建物は1888年(明治21年)設立の「札幌製糖」が1890年(明治23年)に建設した製糖工場である。ところが、この製糖会社は原料となるビートの確保に誤算があったほか、不祥事が多発したため衰退の一途を辿って解散してしまう。1903年(明治36年)に煉瓦造の製糖工場を買い取って製麦工場として使用した。建物は改修や補強をしながら1965年(昭和40年)まで工場として稼働していた。
旧札幌麦酒工場:1869年(明治2年)に開拓使が設置されると明治政府によって勧農・殖産興業が推し進められ、開拓使官吏の村橋久成やドイツでビール醸造技術を学んだ中川清兵衛を招聘して官営模範工場となる「開拓使麦酒醸造所」を1876年(明治9年)に創設し、現在のサッポロファクトリーがある場所に工場を建設した。開拓使廃止後は農商務省の所管となり、1884年(明治17年)に「札幌麦酒醸造場」と改称している。
旧沼田家りんご倉庫:沼田家旧りんご倉庫りんご保管用として建てられました。軒下にれんがを蛇腹に組み、ひし形タイルを付けるなど、れんが職人・長浦数雄のこだわりがレンガ積みの随所に見られます。りんご倉庫として使われた後は、農機具の保管などに使われていましたが、現在は珈琲店兼焙煎場として活用され、開業時に増築した部分の外壁にも、れんがを使用しています。れんがの一番広い面を見せて積む小端立積みで、空気層を設けた二重壁が断熱性を高め、年中室温が一定でりんごの保存に最適であつた。
柳田家住宅旧りんご蔵:りんご農家柳田家のりんご蔵は、大正末期に建てられたものとされ、現在残っているレンガ造りのりんご蔵の中でも最も古いものと考えられている。構造はイギリス積みの造りで、切妻屋根の 2 階建てである。軒飾 かざりが施されている屋根は、桟瓦葺 ぶきである。一般公開はされていませんが敷地外から見ることは可能になっています。元々は収穫したりんごを貯蔵するために作られたものですが、時を重ね重厚な歴史を感じられる建物となっています。
北海湯:煉瓦造りの公衆浴場として建設された全国的にも珍しい建物である。本村街道筋を中心として明治初期から開けていたこのあたり一帯は、札幌麦酒会社や帝国製麻会社などの煉瓦造りの工場が並んでいた。三角屋根のシンプルな外観で、正面上部の櫛形アーチや白色タイルの装飾、金文字の看板などが、モダンな印象を与える。
旧肥田製陶(EBRI):この建物は、愛知県常滑市より移住した、肥田房二氏が昭和16年に設立した肥田製陶の工場。排水用、井戸用などのリブ管、集合煙突用素焼管、セラミックブロックなどを生産していました。昭和50年代には、一時生産を止めていた時代もありましたが、その後電気暖房器用の蓄熱れんがの生産も行われていました。残念ながら平成10年に、業績の不振などで廃業しました。
北海道庁旧本庁舎は、かつて北海道庁の本庁舎として建築された煉瓦造りの西洋館である。「旧道庁」や「道庁赤レンガ庁舎」、「赤レンガ」などと呼ばれ、親しまれている。重要文化財。 館内は北海道開拓関係資料を展示・保存する北海道立文書館等として一般に公開されているが、一部は隣接する現道庁の会議室として現在でも使用されている。北海道(道庁)にとっての象徴的存在であり、広報番組などのタイトルにしばしば「赤レンガ」が用いられている。1888年(明治21年) 赤れんが庁舎完成。
札幌市遠藤家住宅:北海道札幌市中央区南6条西5丁目18にある個人の邸宅。建物は遠藤家住宅と会社(遠藤興産株式会社)の建物で6個も「国の登録有形文化財」に登録されている建物です。元々は材木商の居宅で大正8年(1919年)頃に建てられており、その後昭和10年(1935年)、昭和32年(1957年)に増築され平成10年に改修が行われています。
札幌聖ミカエル教会:教会の建物はチェコ出身の著名な建築家アントニン・レーモンドの設計であり、レーモンドの作品では北海道内に残る唯一のものである。木材や煉瓦、砂利などは北海道産のものが用いられ、施工は竹中工務店によって行われた。軒先が低く葺きおろされ、勾配が途中で変化している大きな屋根、室内に光を取り込むためのスリットを入れた煉瓦側壁の配置、格子状の正面ガラスの紋様は和紙を貼り付けて形作ったもので、アントニンの妻ノエミの手による。
天塩川歴史資料館:旧天塩町役場は野幌産のれんがを積むために役場の職員を動員し、わずか11ヶ月で完成させた。建設中に公募され決まった町章を見上げながら中に入ると、かつて天塩川を往来していた、地元舟大工による長門船が迎えてくれます。1896年(昭和29)年建築。煉瓦造2階建 。旧役場庁舎を整備し、平成元年に新たに生まれ変わったのが天塩川歴史資料館。酷寒の歳月に耐え続けてきた堂々たる風格の建物の中で、道北開拓の拠点として発展を続けてきたまちの歩みが甦ります。
旧中井家リンゴ倉庫は、札幌市豊平区平岸にあるレンガ造りの建物です。1935年(昭和10年)に作られた建物で、当時の平岸のりんご栽培の文化を伝える上でも貴重な建物となっています。りんご保管用倉庫も各所に建てられており、今も残されるこの倉庫は、りんご園が広がっていた地域の歴史を伝える貴重な存在です。外壁のれんが積みに用いられたのは、断熱性を高めるために中空を設けてれんがを積む「小端空間積み」と呼ばれる工法。
樺戸監獄石油庫:樺戸監獄時代の建物で、本庁舎以外に現存するのは「石油庫」だけである。明治27年(1894年)の「北海道集治監第三回統計書」に記述が無く、大正8年(1919年)廃監直前の図面に記載されていることから、この間に建てられたと思われる。樺戸集治監及び空知集治監の受刑者による上川道路(現在の国道12号)建設が名高い。
米澤煉瓦株式会社は北海道江別市元野幌227番地に本社工場を置く煉瓦の国内製造及び販売会社。昭和14年4月創業。毎年更新されるJIS(日本工業規格)の基準をクリアした製品を取り扱っている。現在では北海道の窯業と言えば野幌と言われるほど道内の生産の80%を占めています。江別の窯業は明治23年頃に石狩川右岸で煉瓦石と呼ばれる製造工場設けられたのが始まり。戦後を通じ良質な野幌粘土を産する野幌では大小多くの煉瓦工場が設立され煉瓦の町野幌をつくって行きた。
屯田兵第三大隊本部火薬庫:明治11年初めて江別に屯田兵が入地し、大隊本部の建物は、屯田兵の解散移築され、他の施設に利用されていましたが、昭和9年1月失火により消失し、現在は火薬庫だけが残されています。この火薬庫は、大隊本部の附属施設として明治19年頃建てられたと推定され、建築面積約15平方メートルの煉瓦造り平屋建ての建物です。使用されている煉瓦は「S」の刻印から白石の鈴木煉瓦製と思われます。
京都大学は京都府京都市左京区吉田本町36番地1に本部を置く日本の国立大学。1897年に設置された。京都大学は日本で2番目に創設された、帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、入試においては日本におけるトップクラスの難関大学。精神的な基盤として京都大学では「自由の学風」を謳っている。京都大学 吉田キャンパスは、京都府京都市左京区吉田に所在する京都大学のキャンパスの一つで京都大学の本部が設置されており同大学の最大規模のキャンパス。
韮山反射炉は、静岡県伊豆の国市にある反射炉跡である。日本で唯一現存する実用反射炉であり、国の史跡に指定されている。 韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡。日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされる。1922年(大正11年)3月8日に敷地も含めて国の史跡に指定された。2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。
旧醸造試験所第一工場:現在の東京都北区滝野川にあり、日本酒の研究を行う施設として、ドイツのビール醸造施設をヒントに得たもので、1902年に竣工。設計者は大蔵技師妻木頼黄。2014年12月10日に国の重要文化財に指定された。日清戦争後の軍備拡張と官営企業への財政支出増に対応するため増税を実施したが、殖産興業として鉱工業などと並んで醸造業の発展も積極的に支援し、微生物学に基づいて日本酒の品質の安定と向上を図るべく、大蔵省の管轄下に1904年に醸造試験所を設立した。
煉瓦散歩谷根千編
2018年11月24日(土)
たくあんさん。AYAさん。ジョージさん主催の煉瓦散歩。
博物館網走監獄:1973年(昭和48年)に網走刑務所の改築計画が公表され、貴重な建築物が失われることを憂慮した網走新聞社(現在は廃刊)社主の佐藤久が、刑務所建築物の移築保存を提唱した。明治から網走と深い関わりを持っている網走刑務所の旧建造物を保存公開している野外博物館。国の名勝に指定されている天都山の中腹に位置し、網走国定公園のエリア内にある。
小清水町の煉瓦サイロ:1970年代の航空写真にはこの場所に家が建っていたのが確認出来る。日本最古のレンガサイロは岩手県の小岩井農場1号サイロで1907年(明治40年)建設、北海道内最古は八雲町の三澤牧場のサイロで1921年(大正10年)建設。1919年(大正8年)4月1日斜里村(現斜里町)から止別村、蒼瑁村の2大字が分村、小清水村となる。上記より昭和初期頃に建設された煉瓦サイロと思われる。
正福寺:創立年代は定かではないが、常陸国(茨城県)那珂西部中田村に創立、開基は親鸞聖人の直弟子教念という。その後信濃国(長野県)高井郡和田村や、袋津村(江南区)、曽川村(江南区)と移った後、慶長年中(1596年〜1615年)第十三世明覚の時、新潟町へ移った。
旧秋田木材工場発電所:明治42(1909)年、秋田木材は幕別川流域の国有林払い下げを受け、伐採林を声問川口に集材して原木を本州各地に送り始める。大正元(1912)年:秋田木材が声問に木工場を新築する。大正2(1913)年:秋皿木材が火力発電所を設置する。大正3(1914)年:同発電所から稚内市街へも電気が供給され始める。大正14(1925)(昭和2(1927)年の記述もある):秋田木材が閉鎖される。外観は煉瓦造の2枚の分厚い壁が特徴的であり、上部に行くに従って迫り出している。
静岡市三矢澤煉瓦蔵:漆器店の倉庫として建築され、静岡大火、戦災を乗り越えてきました。赤レンガの外観が七間町のまち並みにアクセントを加え、特徴ある景観にしています。現在は衣料品店(GALVO GALLERY)になっています。
富士製茶煉瓦倉庫:この赤煉瓦倉庫は明治33年(1900年)に建てられた製茶工場の一部です。東海道線の開通後に富士再製会社がここに広い工場を作りました。製品のお茶を鉄道で清水港へ運び、海外へ輸出して繁栄し数多くの建物が出来ました。大正時代には静岡市内へ移転し、跡地は商店街になりました。現存するのはこの建物のみです。
聖アグネス教会聖堂:聖アグネス教会は、日本の京都府京都市上京区にある、日本聖公会の教会。平安女学院京都キャンパスの敷地内に所在する聖堂は、日本聖公会京都教区の中心となる主教座聖堂であるとともに、地域の教会、平安女学院の礼拝堂という3つの役割を兼ね備える。1898年(明治31年)に竣工したレンガ造り・ゴシック様式の建物は、ジェームズ・ガーディナーによる設計で、京都市指定有形文化財。第二次世界大戦中には軍需資材の置場として使用されたこともあるが、礼拝は続けられた。
龍谷大学旧守衛所:1879年(明治12年)守衛所落成。龍谷大学は、京都府京都市伏見区深草塚本町67に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。1639年(寛永16年)西本願寺が設立した学寮を起源とする大学である。建学の精神は真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする。
同志社大学礼拝堂:1986年(明治19年)竣工。面積327.23u(延379.85u)プロテスタント教会の煉瓦造りの礼拝堂としえてゃ、現存する中では最古の物で有る。同志社の礼拝堂としては二代目(初代は木造)資金は彰栄館や有終館と同様にアメリカン・ボードからの寄付で、設計も同志社教員のグリーンである。施工者は有終館を請け負った京都の棟梁、三上吉兵衛。同志社創立者の新島襄が、「礼拝堂は同志社の精神」と言うように、「良心教育」を目指す同志社のシンボルでもある。
同志社大学彰栄館は1884年(明治17年)竣工。面積275.68u(延567.86u)同志社に残る最も古い建物であり、現存する煉瓦造りの建物としても京都市内で最古の物。礼拝堂や有終館と同様に同志社を支援するアメリカン・ボードから7,500ドルの寄付を得て、同志社教員のグリーンが設計した。彰栄館。施行は日本人棟梁の小瀧菊太郎。外観はアメリカン・ゴシック調であるが、屋根は瓦葺き、内部の小屋組なども純和風の寄棟造りである。
敦賀港赤煉瓦倉庫:敦賀赤レンガ倉庫は外国人技師の設計によって1905年にアメリカの石油会社「紐育スタンダードカンパニー」によって建設された石油貯蔵用の倉庫で、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用された。煉瓦はオランダから取り寄せて積み上げられたといわれており、柱の内側に壁を設け、内壁に柱のない空間になっているのが大きな特徴。昭和26年(1951年)現ヤマトタカハシ株式会社が営業倉庫として赤レンガ倉庫を購入。日本原子力発電株式会社がヤマトタカハシ株式会社より購入し敦賀市へ寄附。
奈良少年刑務所は、法務省矯正局の大阪矯正管区に属していた刑務所。所在地は奈良県奈良市で、全国7カ所の少年刑務所の一つ。前身は奈良監獄で、当時明治41年(1908年)に竣工した山下啓次郎設計による「明治の五大監獄」の一つで、建築物が現存する。建物は美しい煉瓦建築として知られていたため、保存・活用する事業者が募集され、3グループが応募。法務省は2017年5月、ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツなど8社によるコンソーシアムを優先交渉権者に選んだ。
奈良市水道計量器室:奈良市水道計量器室は奈良県奈良市の水道施設。1922年(大正11年)に作られた煉瓦建築である。市の水道が創設された際に建てられました。奈良阪浄水場からの水量を計量していた施設。旧奈良市水道計量器室の正面には、「室器量計道水市良奈」と右から左に読む門標が掲げられています。奈良市の上水道は明治422年に、初めて水道布設が正式に提議され、大正3年12月、水道布設案が市議会で可決され、大正4年10月事業認可を得て建設を開始しました。
上信鉱山焼成炉:群馬県吾妻郡嬬恋村干俣に上信鉱山がありました。四阿火山から噴出した更新世後期の浦倉溶岩の安山岩が熱水変質を受けて生成したハロイサイト鉱床。 昭和15年炭窯造成中にロウ石の鉱脈を発見し、試験的に小規模な採掘が行われた。昭和18年に軍需産業の指定を受け、日窒鉱業が上信鉱山として採掘。 太平洋戦争末期に飛行機の増産に伴い、アルミニウム原鉱を、嬬恋村大字干俣の上信鉱山からアルミニウム製造工場へ輸送するため、鉱石運搬鉄道を敷設しようという計画が立てられた。
土浦市民家の煉瓦蔵:水陸交通の要地であった土浦の商業は発展し、町の中には本陣・旅篭・問屋がおかれ、多くの商家が軒を連ね、江戸と取引を行う裕福な商人も出現しました。この時代の土浦は、野田や銚子とともに醤油の産地として有名でした。明治維新期、廃藩置県後の明治4年(1871年)に新治県が設置され、土浦はその県庁所在地となった。1875年(明治8年)に新治県は分割され、土浦を含む利根川以北は茨城県に編入された。
旧野村さとう店煉瓦蔵:江戸時代から続く老舗の商 家であった「野村さとう店」は、 明治時代以降、砂糖や水飴の 卸問屋として栄えました。本格的な町家建築である主 屋や、レトロな雰囲気を醸し だす煉瓦蔵などが連なってお り、江戸から明治、大正と受 け継がれた建物の歴史を感じ ることができます。 「野村」では、店舗兼主屋(母 屋)、袖蔵、文庫蔵、煉瓦蔵の4棟が文化財として登録さ れた。
土浦市民家の煉瓦倉庫:水陸交通の要地であった土浦の商業は発展し、町の中には本陣・旅篭・問屋がおかれ、多くの商家が軒を連ね、江戸と取引を行う裕福な商人も出現しました。この時代の土浦は、野田や銚子とともに醤油の産地として有名でした。明治維新期、廃藩置県後の明治4年(1871年)に新治県が設置され、土浦はその県庁所在地となった。1875年(明治8年)に新治県は分割され、土浦を含む利根川以北は茨城県に編入された。
旧大政商店本庄支店:本庄駅近くに建つ重厚な煉瓦の建物は、大正9年(1920 年)竣工。大政商店は、戦前まで米や肥料を扱っていた卸問屋で、深谷の穀物商「大政」の本庄支店として開業した。日本煉瓦製造(上敷免製)のレンガで建てたもの。グアノ肥料を商い、最盛期には本庄駅 から貨車に積んで東北地方まで販売していた。 その後、戦争で品物が入らなくなり廃業した。
旧本庄商業銀行煉瓦倉庫:明治27(1894)年12月、株式会社本庄商 業銀行は、本庄町最初の銀行として設立さ れた。資本金は5万円。 明治29(1896)年、銀行の担保倉庫として、 本庄煉瓦倉庫を2月着工、同年8月に竣工 する。 大正8(1919)年、株式会社武州銀行が設 立されたのに伴い、本庄商業銀行は大正 10年(1921)年12月に合併。武州銀行本庄支 店となった。昭和18 (1943) 年、武州銀行は他四行の合 併により、埼玉銀行となる。
本庄市民家の煉瓦倉庫:本庄市は、埼玉県の北西部に位置する市である。中山道の宿場・本庄宿が置かれた。本庄宿は中山道の中で最大の宿場町として栄え、明治時代には本庄への遷都が推薦されていた事がある。中世に武家の領地(城下町)として始まり、近世では幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、戸谷半兵衛と言った豪商も輩出している。18世紀には中山道で最大の宿場町となり、各地から人や物流が集中した。
旧釜浅肥料店煉瓦倉庫:吉田家(旧釜浅肥料店)は江戸期から昭和期まで続いた肥料店の老舗で、これらの建物等は大正の末期から昭和の初期に建てられたものです。店舗、主屋、煉瓦蔵、門、そして庭が良い状態で残る吉田家は当時の商家の佇まいをよく残しています。所在地:高崎市高砂町16。
高崎市民家煉瓦倉庫:高崎市は1621年(元和7年)の大火から1945年(昭和20年)の高崎空襲被害まで24回の大火に有っている。その為か煉瓦倉庫が多く残っている。九蔵町は享保10年の大火で諸記録を焼失したため、詳細は定かではないが、慶長6年北爪九蔵が居を定め、のちに人家が増えていき、領主から名主を命じられたことに由来すると考えられている。江戸時代には高崎藩の城下町として、中山道69次中4番目に規模が大きい宿場町として、また物資の集散地・商業のまちとして大いににぎわった。
熊谷聖パウロ教会:焼過煉瓦を効果的に用いた煉瓦造教会。桁行約16m、梁行約7m規模の単廊式会堂で、東面北端に鐘塔を建ち上げ下部を玄関ポーチとし、外壁要所に尖頭アーチ窓とバットレスを配す。内部は煉瓦壁を顕わにし、木造シザーストラスを架ける。設計はW.ウィルソン。1882年ころ、家庭集会から始まった信仰の輪が実を結び1885年日本人最初の聖職者田井正一師父らによって説教会が開かれた。
新町紡績所煉瓦倉庫:『新町紡績所』(旧内務省勧業寮屑糸紡績所)は、明治10(1877)年10月20日、群馬県内に富岡製糸工場に次ぐ大規模な官営模範工場として開業しました。新町紡績所』は、工場建設に当たり、企画から設計・建築まで日本人により建築された最初の本格的近代工場です。明治30年代のレンガ倉庫、などの歴史的建物が数多く残っています。赤れんが倉庫の通気口を覆う唐草模様などの装飾なども特徴的です。
泉布観:泉布観は、大阪市北区にある歴史的建造物。大川沿いに位置する、大阪府に現存する最古の洋風建築である。国の重要文化財に指定されている。1871年(明治4年)に造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設された。設計者はトーマス・ウォートルス。完成の翌年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名。明治天皇自身も3回も訪れ、皇族や外国の要人を数多く迎えた。
陸軍第四師団司令部:第四師団司令部は、大坂城本丸に置かれていた。1931年(昭和6年)に大坂城天守の再建と同時進行で本丸南東角に新庁舎が建設され移転した。司令部庁舎は1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)まで大阪市警視庁、1960年(昭和35年)から2001年(平成13年)まで大阪市立博物館として使用された。その後長らく使用されていなかったが、2017年(平成29年)にレストラン等が入居するミライザ大阪城に改修され、同年10月19日にオープンした。
大阪陸軍造兵廠科学分析場:1937年(昭和12年) 8月造兵廠大阪研究所設置(現在残存している化学試験場の建物)大阪砲兵工廠は、大阪府大阪市にあった大日本帝国陸軍の兵器工廠(造兵廠)。太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦まで、大口径の火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場であった。また、戦前中の日本では重工業分野においてトップクラスの技術や設備を持っていたため、官公庁や民間の要望に応えて兵器以外のさまざまな金属製品も製造していた。最終時の名称は大阪陸軍造兵廠。
中西金属工業:設立:昭和16年6月19日。資本金:25億1250万円。従業員数:3,139名(2017年3月時点)ベアリング・リテーナー・コンベア及び自動制御装置・サッシ用戸車・住宅関連製品・ゴムシール・精密金型・無人搬送車(AGV)・各種金属プレス加工品・各種樹脂射出成形品・冷間圧延鋼板等の製造販売・旅行口コミサイトの運営。1924年(大正13年)中西製作所の社名で創業。1941年(昭和16年)中西軸承金属工業(株)に組織・社名変更。煉瓦倉庫は1924年(大正13年)中西製作所時代?
千代ヶ崎砲台跡は1892年(明治25年)に着工し、1895年(明治28年)に竣工。東京湾要塞に属する沿岸砲台で、28cm榴弾砲3砲座6門が備砲された榴弾砲砲台と15cm臼砲4門、機関砲4門などが備砲された近接防御砲台から構成。千代ヶ崎砲台跡にみられる煉瓦組積法は、イギリス積みで、煉瓦製造元は小菅集治監が主要で有るが、御幸煉瓦製造所の刻印・他も確認されている。
観音崎煉瓦構造群:観音崎は、神奈川県横須賀市鴨居4丁目に位置する岬。三浦半島東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する。対岸の房総半島富津岬までは約7kmである。付近は「県立観音崎公園」として整備され、観音埼灯台が立地するほか旧日本陸軍が明治10年代から20年代にかけて建設した砲台と弾薬庫跡が多く残る。園内にはこのほか1953年創立の観音崎自然博物館があり、横須賀美術館が2007年(平成19年)4月に開館した。
JR貨物広島車両所は、広島県広島市東区にある日本貨物鉄道(JR貨物)の車両基地および工場である。敷地面積77,803m2。山陽本線の瀬野 - 八本松間に存在する瀬野八で有名な急勾配を走行する上り貨物列車の補助機関車(補機)などが所属している。また、工場では関西支社に所属する電気機関車・ディーゼル機関車や貨車の検修を行っている。また、広島貨物ターミナル駅東端の天神川駅に挟まれた場所に広島車両所蟹屋派出があり、仕業検査を行っている。
宇品陸軍糧秣支廠は、かつて広島県安芸郡宇品(現広島市南区)に設置されていた大日本帝国陸軍の糧秣の保管・補給・製造施設。糧秣とは、「糧」が兵士の食糧、「秣」が軍馬の餌のことを意味し、つまりレーションと飼料にあたる。ここで行われていた業務はそれらの調達・配給・貯蓄である。それに加えて牛肉缶詰や搗精(精米)作業つまり製造も行われ、更に精米や缶詰の試験・検査の技術的な研究も行われていた。当初は宇品海岸に糧秣支廠が置かれ、倉庫が建てられた。
旧広島電気軌道火力発電所:1912年(大正元年)に竣工した煉瓦造の2棟。赤い手前の建物がボイラー室で、奥の白い建物が発電所。1934年には発電所としての機能が廃止され変電所となった。現在も広電本社の施設として使用されている。戦後も復旧は進み、吉田営業所に避難させていた整流器と300kWの電動発電機1機を使い千田町変電所は1945年8月18日から電気の供給を再開したが、爆心地に非常に近かった櫓下変電所は壊滅的な被害を受けたため、代わりに1947年11月に本川町電停前に中央変電所が開設された。
広島電燈亀山発電所は広島県安佐郡亀山村大字今井田字長尾(現広島市安佐北区)にある、明治末から昭和にかけて稼働していた水力発電所である。広島太田川電力株式会社が設立され、明治40年(1907年)12月 太田川電力が河川使用許可を広島電燈へ譲渡。明治43年(1910年)10月に着工、明治45年(1912年)6月に竣工し、7月より送電を開始した。発電開始から60年間、度重なる洪水による被害や渇水による出力低下などを乗り越え稼働してきたが、昭和47年(1972)の大水害を契機に操業は停止した。
善通寺駐屯地煉瓦倉庫:3棟の赤煉瓦建物は戦前は旧陸軍第11師団兵器庫として、1909年(明治42年)、1911年(明治44年)、1921年(大正10年)に相次いで完成。2階建ての煉瓦造りでドイツ人技師の設計。戦後は四国地区の防衛警備等を担任する第14旅団の司令部及びその主力部隊、主に新隊員の教育を担任する第110教育大隊、業務隊などが置かれており、旧軍時代から四国地方における最大・最重要駐屯地である。特に戦前は、同駐屯地を中心に善通寺は軍都として栄えた。
岸煉瓦工場の工場煙突:板野郡瀬戸村堂浦にあった煉瓦工場。大正7年12月に阿波煉瓦株式会社設立。昭和3年頃、阿波煉瓦三共商会、昭和21年頃岸煉瓦工場に変更。江戸期から明治22年にかけては板東郡および板野郡の村であった。寛文4年より板野郡に属す。明治22年に同郡瀬戸村、昭和3年に瀬戸町の大字となった。昭和22年3月には鳴南市、同年5月より現在の鳴門市の字名となる。鳴門市の北東部に位置する。字阿波井は島田島内になる。
日之出煉瓦製造所:板野郡瀬戸町撫佐口ノ谷6にあった煉瓦の製造所。煉瓦を焼く窯跡が現在も残っている。大正12年3月操業。昭和10年代頃迄赤煉瓦を製造していた。江戸期から明治22年にかけては板東郡および板野郡の村であった。寛文4年より板野郡に属した。明治22年に同郡瀬戸村、昭和3年に瀬戸町の大字となった。昭和22年3月には鳴南市、同年5月より現在の鳴門市の字名となる。鳴門市の北東部・島田島の南東部に位置し、ウチノ海に南面する小集落。北方の瀬戸町室とは、島田山を縦断する山路で通じる。
犬島精錬所は、岡山県邑久郡朝日村犬島(当時、現在の岡山市東区)にかつて存在した銅の精錬所。最盛期は2000人を超える従業員がいた。しかし、銅価格の暴落などにより1919年(大正8年)には操業を停止、1925年(大正14年)に廃止になった。1909年(明治42年)、都窪郡中庄村(現在の倉敷市中庄)に所在する帯江鉱山の精錬所として岡山県宝伝沖2.5qにある犬島に開設される。
旧尾崎興業煉瓦倉庫:尾崎峰三郎が創設者で、明治後期〜昭和初期まで存在した染色・製織・紡績会社「株式会社尾崎興業の工場跡。尾崎峰三郎は明治38年(1905年)合資会社尾崎商会(後の尾崎織物に改組)を設立、「韓人紐」の製造輸出を始めた。尾崎峰三郎は「腿帯子」輸出先細りを見越して広巾織機を導入、染色も手がけ、糸染め、織布、縫製加工に転換、社名も尾崎興業に変更した。明治末期、児島田の口に造った工場は煉瓦外壁が珍しがられたが、今は廃業して工場の一部は倉庫として利用されている。
岡山大学工学部15号館:広島陸軍兵器補給廠岡山支廠 北倉庫炊事場跡。津島キャンパスは戦後進駐軍が撤収したあとの旧大日本帝国陸軍第17師団跡地を使用している。建築年は1911年(明治44年)煉瓦の表面に ピアノ線による擦痕がないことから、 「機械成形煉瓦」ではなく、 全て「手抜き成形煉瓦」であると考えられる。1945年(昭和20年)太平洋戦争は日本の敗戦により終結し、岡山駐屯地にも進駐軍が入った。1947年(昭和22年)3月には進駐軍が引き上げ、その後第6高等学校が一部を譲り受けて仮校舎とした。
岡山大学工学部16号館:広島陸軍兵器補給廠岡山支廠衛兵所跡。津島キャンパスは戦後進駐軍が撤収したあとの旧大日本帝国陸軍第17師団跡地を使用している。建築年は1911年(明治44年)煉瓦の表面に ピアノ線による擦痕がないことから、 「機械成形煉瓦」ではなく、 全て「手抜き成形煉瓦」であると考えられる。1945年(昭和20年)太平洋戦争は日本の敗戦により終結し、岡山駐屯地にも進駐軍が入った。1947年(昭和22年)3月には進駐軍が引き上げ、その後第6高等学校が一部を譲り受けて仮校舎とした。
岡山大学考古学資料館:工兵第十聯隊食堂並浴場跡。岡山大学考古学資料館が2001年まで使っていた古い展示施設です。現在はもっぱら発掘調査の基地となっています。通称「赤レンガ」の風格ある建物で、1945年までは陸軍第17師団司令部の施設として用いられた、近代史の「証人」でもあります。煉瓦の表面に ピアノ線による擦痕がないことから、 「機械成形煉瓦」ではなく、 全て「手抜き成形煉瓦」であると考えられる。1945年(昭和20年)太平洋戦争は日本の敗戦により終結し、岡山駐屯地にも進駐軍が入った。
旧倉敷紡績本社工場:この建物は倉敷紡績の発祥工場で、明治22年(1889年)に建設されました。設計は、日本の最初の紡績工場(鹿児島紡績所)を建設した石河正龍らによるもので、今日我が国に現存する最も古い紡績工場の代表的な一つとなっている。倉敷アイビースクエアは旧倉敷工場の跡地を活用して建設された施設であり、江戸時代は倉敷代官所の一部であった。
倉敷煉瓦造倉庫:倉敷市中央一丁の民家に煉瓦倉庫が存在する。民家の煉瓦倉庫なので詳細は不明。屋根は瓦葺きで、2階建てと思われる(煉瓦倉庫の高さ外観から推測)煉瓦の積み方はイギリス積みで積まれている。井桁の様な煉瓦の刻印が確認出来た。煉瓦の表面はきれいな状態で保存されている。
半田赤レンガ建物は、愛知県半田市にある赤レンガ建物(赤レンガ倉庫)である。1898年(明治31年)、基礎設計をドイツのゲルマニア機械製作所、実施設計を妻木頼黄が手がけた丸三麦酒のビール工場であった。1996年(平成8年)3月に半田市へ土地と建物(赤レンガ倉庫)を譲渡した。
旧函館郵便局:北海道に郵便制度が発足したのは、明治5年(1872年)であり、北海道で最初の函館郵便役所が現大町の海関所(出入りの船舶、旅人、積荷の検査などを行った役所)内に開設されました。その後、大町に庁舎が建設され、同8年(1875年)函館郵便局と改称後、幾度か移転し、現代の建物は明治44年(1911年)に完成したもので、約50年にわたりこの庁舎で業務が行われました。昭和37年(1962年)には民間に払い下げられましたが、明治の洋風建築として函館に残る代表的な建物の一つです。
函館山要塞煉瓦構造物:函館要塞は千畳敷砲台、御殿山第一砲台、御殿山第二砲台、薬師山砲台及び立侍保塁で構成される。1898年(明治31年)6月には薬師山砲台が起工し、同年9月28日の陸軍省告示第11号により函館要塞周辺区域が示された。同年6月御殿山第一砲台の起工、同年9月に御殿山第二砲台の起工となる。同年11月25日、函館要塞砲兵大隊は北海道亀田郡亀田村に移転した。1900年(明治33年)5月23日、函館要塞司令部が函館要塞砲兵大隊構内に開庁した。
函館弁天町煉瓦の民家:函館は江戸時代から栄えた港町であったが、しばしば大火に襲われ、市内の至る場所が火災の被害に遭っており、数度の大火の影響により街路や建築物が変容している。つまり、二十間坂より函館西部地区の町並み以西の地区は、1878年(明治11年)、1879年(明治12年)の大火後の街区改正によってできた都市形態で、この地区の建物は1907年(明治40年)の大火で被災しているため、ほとんどの建物はそれ以降の時期に建設されたものである。
函館ベイ煉瓦構造物:常備倉(ラビスタ函館ベイ)開拓使が非常救済用の備米の倉庫として明治8年完工。当時開拓使が経営していた茂辺地(現北斗市)製造の煉瓦が使われた。同23年払下げ以降は安田倉庫として長く使用された。平成19年倉庫を解体し、高層ホテル・ラビスタ函館ベイが竣工、営業を開始した。1階の一角には安田倉庫当時の記録を展示するギャラリーがある。三菱倉庫(BAYはこだて)三菱汽船が明治15年に煉瓦積みの倉庫と事務所建屋、堀割を建設。同40年大火後に改築、その後長く日本郵船の倉庫だった。
赤森煉瓦倉庫群:イギリス積みの煉瓦の壁体の美しい建物で,港町らしさを感じさせる建物である。切妻の屋根,開口部はアーチ型の防火扉となっており,地区の歴史性を最も良く表している。平成7年に、テナントショップとして倉庫から生まれ変わる。 金森赤レンガ倉庫の歴史は、初代渡邊熊四郎が最初の事業、金森洋物店を開業したところから始まります。明治2年(1869年)榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、開拓使出張所が函館に置かれた年、まさに新しい時代の幕開けでした。
公海食品幸町倉庫:公海食品幸町倉庫は住友倉庫として築造し、現在、公海食品が倉庫として使用している。明治32年(1899年)に住友銀行から倉庫部門が分離され、住友家の個人営業で住友倉庫の商号により倉庫業を開始。公海食品は函館市、道南一円のホテル、レストラン等への食材及び自社ブランド品の供給を行っている。又、冷蔵庫(4000t)、超低温冷蔵庫(200t)及び営業普通倉庫(一般貨物、米穀類)を営んでいる。
函館ドック煉瓦倉庫:資材倉庫として使われている。函館どつくは、北海道函館市にある企業(造船メーカー)。東北以北で最大の造船メーカーであり、函館と室蘭に造船所がある。函館では幕末の開港から函館港を中心に発展を遂げ、造船は北洋漁業とともに函館の経済を支えてきた。多目的で乾ドックを使用しているのは日本国内で唯一とされている。
函館市HOMIE redbrick warehouse:函館市に煉瓦倉庫を利用したスポーツジム。築90年の雰囲気のある建物は、もともと漁具の倉庫として使われていたそう。2015年7月にオープンしたボルダリングジム。この天井の高い造りをいかして、二つの部屋に高さ4mほどのボルダリング用壁面が設えられています。古い倉庫を格好よくリノベーションした建物が印象的。子どもや初心者の体験から、上級者の本格的なトレーニングまで対応できる。HOMIEとは家族のような気の知れた仲間のことをいいます。
函館弥生町民家の煉瓦倉庫:函館市弥生町3の民家の庭先に焼き過ぎ煉瓦で造られた2階建ての煉瓦倉庫が築造されている。竣工年月日等は不明。住所:函館市弥生3
函館元町配水場管理事務所:創設当時のものを改修して現在も使われている管理事務所は、函館市の景観形成指定建築物に指定されています。元町配水場には、1889年(明治22年)完成の中区配水池と1896年(明治29年)完成の高区配水池があり、敷地面積は約6.4haあります。中区配水池は函館水道の創設時に建設されたもので、100年以上を経過した現在もその役割を果たしており、日本人が設計したものとしては日本最古の配水池です。
函館中華会館は、北海道函館市大町にある歴史的建造物。1906年12月8日に洋館風の建物として建設されたが、翌年の大火で焼失し、1910年に現在の関帝廟形式の建物が完成した。日本国内で唯一現存する清朝末期の建築物。中国人の集会場として建設された。現存する建物は函館市在住の華僑たちが中心となって資材はもとより設計者や技師も中国から集めて建設され、1910年に完成した。
国華山高龍寺宝蔵:国華山高龍寺は、北海道函館市にある曹洞宗の寺院。函館市内にある最古の寺院である。寺宝を収蔵(1916年建立)宝蔵は、レンガ造りの入り口、白い漆喰壁、腰周りにはめ込み下見板をまわした蔵造りという外観がユニーク。旧函館区公会堂建築時の寄付など函館の発展に尽くした豪商、大檀家の相馬哲平氏の寄付により作られました。北海道有形文化財指定の蠣崎波響筆「釈迦涅槃図」などが収蔵されています。
はこだてビールはレンガ造りが印象的な建物です。特に目立つのは大階段。日中は噴水、夜にはライトアップがされ、観光スポットとしてもお立ち寄り頂けます。夜のライトアップは賞を頂いたこともあり、記念撮影の場としても親しまれます。 はこだてビールとは、北海道函館市大手町の株式会社マルカツ興産が製造・販売している地ビール(ビール)のブランド名である。100万ドルの夜景で有名な函館山の地下水を麓から組み上げて醸造水として使用し、副原料を使用せず造ったこだわりのビール。
旧開拓使函館支庁書籍庫:1907年(明治40年)の大火で類焼を免れたもので、鉄の防火扉と小さな窓をそなえた一見土蔵風の建物。開拓使茂辺地煉瓦石製造所で「明治七・八・九年」に製造された煉瓦を使用した煉瓦造建築物です。開拓使が明治5年に創設た茂辺地煉瓦石製造所の製品を使用していることがわかります。書籍庫の建築は明治13年と推定されています。各窓に防火の鉄扉と鉄柵を設け、煉瓦の積み方にフランス積みを取り入れるなど意匠や技法に特徴があります。
上毛倉庫煉瓦倉庫:日清戦争(1894-95)に日本が勝利し、国内産業が著しい発展を遂げ始めた頃、群馬県の地場産業である養蚕・製糸はめざましく発展し、前橋市は製糸・生糸の町として、また繭の一大集散地として、全国有数の市場を形成しました。そのような時代の流れの中、繭糸の保管倉庫の必要性について有識者らの意見が一致し、明治28年(1895年)12月、田中町(現・表町。JR前橋駅前)にてレンガ倉庫3棟にて業務を開始したのが上毛倉庫の始まりです。
旧大竹酒造煉瓦倉庫:前橋の中心市街地に残る唯一の酒造蔵。昭和八年に大竹酒造が建物を取得し、四七年まで醸造を行っていた。煉瓦造を主体とするが壁厚は一枚分で内部に柱を二列八本立て、和小屋を組む。外壁は軒蛇腹、破風や柱型の一部に焼過煉瓦を配し、立体感を強調している。
旧安田銀行担保倉庫:この建物は、1910年(明治43年)前橋で開催された1府14県連合共進会に合わせて建築されたものである。当初は安田銀行が所有し、繭を担保とした金融を行うための倉庫である。当初は2棟建っていたが、1945年(昭和20年)の前橋空襲で1棟が消失した。建物の構造は、煉瓦造り2階建て瓦葺きで、建坪は180坪あり、建築当時のままの状態で建っている。設計は、フランス人技師と伝えられている。前橋の糸のまちとしての歴史を語る上で大変貴重な建物である。
美峰酒類煉瓦倉庫:昭和16年(1941年)創業で旧社名は美峰酒類株式会社。昭和60年(1985年)には聖徳銘醸(甘楽郡)を買収。平成19年(2007年)に会社分割(新設分割)し、新たに美峰酒類株式会社を設立。美峰酒類の焼酎は、原料の持ち味を生かしながら、ひとつひとつそれぞれの適した仕込み、蒸留、精製を開発して、丹念に造り上げています。
高崎市 岡醤油醸造:岡醤油は、天明7年(1787年)に現みどり市大間々に創業した岡直三郎商店の支店として、明治30年(1897年)開業しました。平成に入り、醤油の製造は岡直三郎商店に依頼していますが、事務所は創業当時の店舗がそのまま使用されています。中山道に面した店舗らしく、屋根の下部分には京風造りを代表とする虫籠窓が残っています。裏手に見える煉瓦造りの煙突は昭和初期に修復された記録がありますが、現在も町のシンボルとして地元で愛されています。
米庄商店 旧・米貯蔵倉庫:1890年(明治23年)建てられたお米を貯蔵する倉庫。
安中市 有田屋:有田屋は、天保三年(1832年)、上州安中の地に創業いたしました。以来180余年もの間、昔ながらの天然醸造の製法にこだわった醤油を作り続けています。語り継がれる味、そして語り継がれてゆく味。伝統の味を守りつつ新しい試みを繰り返しながら、「ありのまま」の醤油の味わいを今に伝えています。中山道沿いの有田屋の湯浅一族は、本業の醸造業だけでなく、明治、大正、昭和の三代に亘って、日本の教育、社会、文化に貢献した多数の人物を輩出したことでも知られる。
横川機関区給水タンク沈砂池:横川駅は1885年(明治18年)10月15日官設鉄道により高崎駅 - 当駅間開業に伴い開業。その時に横川機関区給水タンク沈砂池も竣工。横川駅は群馬県安中市松井田町横川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線の駅である。北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間が部分開業した1997年10月1日以降、信越本線の終着駅となっている。
阪神電鉄旧尼崎発電所:阪神電気鉄道尼崎工場は兵庫県尼崎市にある阪神電気鉄道の車両工場である。阪神電車の全般検査や改造工事を行っている。尼崎車庫が併設されている。車庫西側には明治34年(1904年)竣工の煉瓦造りの尼崎火力発電所がある。阪神電気鉄道が開業した当時、この尼崎発電所と御影発電所で発電された電気を電車の走行に使用していたほか、沿線で一般にも配電していた。現在は資材倉庫として利用されている。
尼崎信用金庫記念館:大正10年6月6日、有限責任尼崎信用組合(現尼崎信用金庫)創業時の本店事務所。初代組合長 小森純一翁所有の建物であったが、戦後当金庫所有となり、創業時を偲ぶ記念館とした。当初、現在の約50m南に建っていたが、新本店(当時・現本店別館)建設に伴い昭和47年、現在地に移し再建した。建設時期は明らかではないが、地元の古老の記憶などによれば、明治30年代には既に小森家の建物の一部として建てられていたようで、尼崎に現存する数少ない明治時代の煉瓦造りの建物として、貴重な歴史の証人である。
高岡市第三源井上屋:旧第3源井上屋は、地下水をくみ上げていた源井(深さ7.5メートル、内径3.0メートル)の上に建てられた建造物です。旧第3号源井上屋は構造は、筒形鉄筋コンクリート造で内面に止水「モルタル」及び「アスファルト」の防水加工を施してあり、鉄筋コンクリート造ではあるが、煉瓦の外壁を持ち、八角形に積んだレンガ造の外壁、銅板葺きの緑青色の外観で、1、2号から送水される源水の着水井も兼ねていました。配水塔とともに当時の科学技術の粋を集めた施設のシンボル。
高岡工芸高校造形実習室:工芸都市として歴史を持つ高岡市に設置された富山県立高岡工芸高校に、旧窯業科の実習施設として、大正中期に建てられた赤煉瓦造りの建物である。当初は応用化学科の薬品庫として建てられ、その後、窯業科の窯場として使用された。シンプルながら外観の細部に工夫した意匠が見られる。富山県立高岡工芸高等学校は、富山県高岡市中川にある工業系、工芸系の県立高等学校。
南部鋳造所キュポラ及び煙突:南部鋳造所は1914年(大正13年)に建てられたもので、2000年(平成12年)まで実際に稼働していました。煙突は高さ14.5m、幅1.78m角、イギリス積で、キュポラは高さ3.3m、径0.7m。鋳造方法はキュポラに鉄や銅などの鉱物と燃料のコークスを入れて火を付けます。次ぎに煙突基部の送風口から電動風車で風を送ります。煙突に設置された直径30cmの鉄管を通ってキュポラに入り、煙はキュポラの上部から排出されます。
ユニチカ記念館(旧尼崎紡績本社事務所)は明治33年(1900年)に尼崎で最初の大工場である尼崎紡績会社(現在のユニチカ)の本社事務所として建設された建物で、市内に現存する最も古い洋風建築です。煉瓦造り2階建て、設計は日本人によるものと思われますが、外壁を覆う赤煉瓦はイギリスからの輸入品と伝えられています。現在は、2階を展示室として公開し、創業当初からの貴重な資料が展示されています。
別子銅山東平煉瓦構造群:標高750m付近にあり、それまで旧別子の東延にあった別子銅山の採鉱本部が大正5年に移って来てから、銅山設備の周りに社宅・小学校・娯楽場・接待館が建てられ、昭和5年に採鉱本部が端出場に移された後も、昭和43年に閉山するまで賑わった。 その生活の様子を模型や映像を使い紹介したり、銅にまつわる品々を展示する「東平歴史資料館」、レンガ造りの旧保安本部を活用して銅板レリーフなどを体験できる「マイン工房」、その他数々の産業遺跡が整備されている。
旧大浜灯台吏員退息所は明治35年4月に完成した大浜灯台吏員退息所を昭和56年7月移築し、現在は唐子浜海の子の家として再利用している。唐子浜赤燈台。唐子浜の沖にある灯台は、元、来島海峡の西水道入口にあった鴻の瀬灯標(赤灯台)でした。これは明治35年4月、わが国で5番目の様式灯台として建設されたものですが、「大型船の通行」という時代の要請で灯台を支えていた岩礁を爆破することになりました。
玉生八幡神社煉瓦燈台:海に囲まれた日本では、江戸時代以前から夜間の船の航行安全を図る目的で、篝火など様々な形式の明かりが沿岸部に設置されてきた。江戸幕府の成立後、樽廻船、菱垣廻船などの発達により海運が飛躍的に発展する中、夜間航行の安全性を高めるために、各地の沿岸部に和式灯台である燈明台や篝火を焚く篝屋が設置されるようになった。当時建設された多くの燈明台は神社仏閣の常夜灯がその役割を果たしているものが多く、宗教色が全く無い施設であったことが特徴の一つとして挙げられる。
重松倉庫株式会社。倉庫・運送業・産業廃棄物収集運搬業・派遣事業。大正13年(1924年)6月創業の「中央染工」という捺染工場を再利用し現在、重松倉庫が使用している。昭和8年(1933年)12月15日中央染工・松山染色(松山市)、捺染工業組合の申合せにより操業短縮実施(1カ月間)
松山聖アンデレ教会は、アングリカンコミュニオン (英国国教会系列) に属する、日本聖公会 神戸教区のパリッシュチャーチです。松山の地に在って、聖公会の教会として、神様の栄光を現すために、開き・集い・招く教会であることを目指します。1933年に現在地に移り、1956年、現存の煉瓦造りの礼拝堂が建てられました。 この礼拝堂は松山市に現存する唯一の煉瓦造りの建物です。
呉市昭和町の煉瓦倉庫群。明治30年代に建設された「れんが倉庫」は、製品置場や大砲庫などに使われていました。呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代に建てられたもので最高機密エリアでした。空襲により一部の建物が損壊しましが、戦後、国から購入した呉貿倉庫運輸株式会社が修理し、現在は倉庫として使用しています。
岡山市水道記念館は、明治38年に建造された、煉瓦造桟瓦葺平屋、トラス小屋組の洋風建築。屋根の四周にパラペットをのせ、正面に切り妻、天然スレート葺きのポーチを設ける。三野浄水場として岡山市で最初に建設された浄水場で、明治38年(1905年)7月23日に通水を開始た。当時、動力室・送水ポンプ室として使用されていた建物を再利用し、岡山の水道について学べる施設になっています。建物は平成17年に国の登録有形文化財に登録されています。
佐賀県の煉瓦構造物写真集
佐賀県は唐津焼や伊万里焼などの焼き物のが多く製造されていた為、煉瓦製造も多く行われ、農家の倉庫や塀などに多くの煉瓦が使われている。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。反射炉の炉体は1500℃程度の高温に曝されるため、耐火煉瓦を如何に製造するかが重要であった。佐賀藩の反射炉では、煉瓦の焼成に有田焼の職人が持つ伝統技術が活用されたと考えられている。
唐津鐵工所唐津工場旧発電所:唐津鐵工所から平成28年8月10日に株式会社唐津プレシジョンに商号を変更した。最新の製品開発は、5軸制御大型複合加工機、リニアモータ駆動のクランクシャフトグラインダ、大型ホブ盤、高性能大型歯車形削り盤など。竹内明太郎は炭坑経営の傍ら、明治39年から機械製造事業の準備を始める。要員、設備が整い、生産を開始したのは1909年(明治42年)4月15日。唐津鐵工所創業日とする。
三菱製紙中川工場煉瓦倉庫:三菱製紙株式会社は、三菱グループの製紙会社。日本の製紙業界では5位。塗工紙(高級光沢紙)などの印刷用紙を中心に、情報用紙、ティッシュペーパー、製紙用パルプ、写真、フィルター、感光剤などを製造し、近年は、不織布・ガラス繊維ペーパー、リチウムイオン電池セパレーターなどに注力している。1917年(大正6年)2月中川工場操業開始。2003年(平成15年)3月中川工場(東京都葛飾区)閉鎖。金町駅では2003年までは専用線発着の車扱貨物を取り扱っていた。
高松市水道資料館は、1980年(昭和55年)に設置された高松市文化振興会議において、水の文化の啓蒙を図るための「水の博物館建設」が提言されたことを受け、1987年(昭和62年)6月6日、高松市の近代水道発祥の地である御殿浄水場内に開館しました。建物は、高松市の近代水道創設のために建設された旧御殿水源地のポンプ室、事務室、倉庫を改装したものです。
山地かまぼこ音楽堂。香川県観音寺市にある赤煉瓦倉庫(山地蒲鉾敷地内)山地蒲鉾は、1907年(明治40年)に初代、山地勇吉が、えびせんや天ぷらの行商として商いを始める。1977年(昭和52年)山地蒲鉾株式会社設立。上質のすり身を昔ながらの石臼で丁寧に練り上げる山地のこだわりを創業以来続けている。手練りとは、職人が手のひらにすり身の玉を取り、こねて形を整えます。
北区清水質店煉瓦蔵
株式会社由清
住所:東京都北区滝野川2-3-1
代表者:清水直之
2016年12月18日探索。
理化学研究所板橋分所
1917年(大正6年)に渋沢栄一を設立者総代として皇室・政府からの補助金、民間からの寄付金を基に「財団法人理化学研究所」を東京都文京区駒込に設立。物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う国内唯一の自然科学系総合研究所である。国際的に高い知名度と研究業績を持つ研究所であり、海外では"RIKEN"の名称で知られている。
板橋火薬製造所跡:東京砲兵工廠は、日本陸軍の兵器工廠である。1871年(明治4年)から1935年(昭和10年)にその機能を小倉工廠に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。明治4年7月(旧暦)、造兵司本局は東京に移転し、大阪は大阪造兵司と名称を変更。陸軍省の発足とともに1872年4月15日(明治5年3月8日 (旧暦))大砲製造所と改称した。
板五米店(旧田中米店)は大正6年建造。店舗の裏にはレンガ蔵もある。
住所:板橋区仲宿40。
2016年12月18日探索。
築港住友倉庫は、大阪府大阪市港区海岸通2丁目にある赤レンガ倉庫のことである。大阪港の第1号岸壁に沿って、1923年(大正12年)10月に住友倉庫によって建設された。倉庫は2棟あり、北側の旧200倉庫は2階建・高さ13m・延床面積4,500平方メートルで、南側の旧300倉庫は1階建(当初2階建て)・高さ13m・延床面積2,800平方メートルである。昭和3年(1928年)に開通した臨港鉄道の側線が通り国内各地からの貨物列車が走りました。
藤本商店(旧丹治煉瓦製造所):明治期に入り間もなく設立された丹治煉瓦製造所は大阪府下最古の民間煉瓦製造所であるという。そのレンガ造り平屋建て倉庫と、レンガ造り2階建ての事務所が斜向いにあり、その面影を地域に残す。国道26号線の高架脇にある倉庫は、過度に目立つことなく、しっかりと、その重圧な趣を現在に引き継ぎ、商店の事務所として活用され今も現役である。
広島市牛田浄水場上屋:軍用水道の整備に合わせて軍用鉄管に市水道を接続して配水するという、全国でも珍しい整備方法がとられ、1898年(明治31年)に、牛田浄水場が創設されました。3連棟の汽関室や、高さ約16メートルのポンプ室などが整備されました。1924年には鉄筋コンクリート造の送水ポンプや濾過池調整機にレンガ造の上屋が、1935年には鉄筋コンクリート造の量水室が完成しました。爆心地から2.77キロメートルで被爆。木造建物の崩壊など大きな被害を出しました。
日本麻紡績給水塔:この給水塔は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐えその姿を今日に残しています。1919年(大正8年)創業の日本麻紡績は、当時、己斐の山陽本線沿線の広大な敷地を持ち、多くの平屋建ての工場や倉庫が立ち並んでいました。工場内には4面にアーチをあしらった、レンガ造3階建の給水塔があり、近代的な工場の象徴となっていました。爆心地から2.83キロメートルで被爆。木造建物は半壊しましたが、給水塔と煙突、井戸は幸いにも残りました。
旧広島陸軍糧秣支廠:現在宇品御幸の広島市郷土資料館は、1911年(明治44年)竣工した旧缶詰製造工場の一部にあたる。郷土資料館利用および市の指定重要文化財登録にあたり、1984年(昭和59年)に改修が行われている。缶詰製造工場建造時には南側に逆コの字形の南棟、北側にやや離れて桁行が南棟と同じ長さで平面が矩形の北棟、南棟の内側壁面と北棟の南壁面を内壁として鉄骨小屋組みの鋸屋根を架けた中央棟が造られた。現在は北棟・中央棟ならびに南棟の一部が解体され、跡地は宇品西公園になっている。
玖村民家の煉瓦倉庫
住所:広島県広島市安佐北区落合2-25-18
外周部の煉瓦塀は新しい煉瓦で出来ている。
住人にお願いして煉瓦蔵を見せて頂いた。
2016年12月02日探索。
広島陸軍兵器補給廠は、現在の広島市南区霞町に存在していた日本陸軍の施設(1940年以前の名称は「広島陸軍兵器支廠」)。戦後、広島県庁、ついで広島大学の医療系学部や広島大学病院が跡地に移転し、かつての補給廠の建物は医学部の食堂などに転用されていたが、1970年代以降次々と解体が行われ、最後まで「医学資料館」として使用し保存されていた11号館(第11兵器庫)も1999年(平成11年)に解体された。
東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)1903年(明治36年)6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。建物は1997年(平成9年)12月登録有形文化財に指定された。煉瓦造2階建,鉄板葺,建築面積26u。設計:三橋四郎(逓信省)東京商船大学旧天体観測所(第二観測台)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え教育研究に使用された。
広島陸軍被服支廠:出汐倉庫は、広島県広島市南区出汐にある大日本帝国陸軍の被服廠の施設。被服廠が取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなく、マント・下着類・帽子・手袋・靴下等の外、背嚢・飯盒・水筒・ふとん・毛布・石鹸・鋏・小刀・軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和時代に入り戦線が拡大すると、武器や戦備の多様化に対応して防寒服・防暑服・航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった。
ベーカリーカフェレンガ:大正時代に建てられ、国の登録有形文化財として残された、イギリス積みのレンガ造りののこぎり屋根工場の建物は、焼き立ての香ばしいパンの香りのする、ベーカリーカフェとして生まれ変わりました。 100年の時を経た建物の中で、ゆっくりとティータイムをお楽しみいただけます。 この地域は、平成24年度、桐生市桐生新町伝統的建造物群保存地区の重伝建地区選定されました。
2016年11月20日探索。
桐生市煉瓦倉庫:この煉瓦倉庫は民間の駐車場の脇にある煉瓦倉庫で、この場所には元工場が有ったようでその内の倉庫だけが残って現在でも転用され使われている様だ。
2016年11月20日探索。
桐生市有鄰館は、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区内である本町2丁目の南端に存在しています。かつては酒・味噌・醤油を醸造し、保管するために使用されていた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が、舞台や展示、演劇、コンサートなど様々な用途に使用されています。多くの人が訪れ、プロアマを問わず、それぞれの目的によって自ら会場を作り上げて行く独特の活用方法で「文化を発信する場」として、また、周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと一体となったまちなみ保存の拠点にもなっています。
日本織物発電所跡:日本織物株式会社の工場建設には、そのために設立された「桐生煉瓦製造会社」製の「桐に生」の刻印を有する煉瓦が用いられここにある門柱状の煉瓦遺構は桐生産の煉瓦であり、水路を潜り発電所と工場を繋ぐトンネルの支えとして造られたものである。明治20年代における民間企業としての日本織物株式会社は、工場の規模、構造等の全てにおいて他に例をもないものであり、ここに遺された発電所跡や煉瓦遺構は、桐生の近代化を象徴するものである。2016年11月20日探索。
トチセン煉瓦構造郡:トチセンは、足利が織物産業で隆盛していた大正2年(1913年)に足利織物株式会社として創業。大正8年(1919年)に明治紡織株式会社となり「明紡」として知られました。6連の鋸屋根が特徴の赤煉瓦捺染工場は、イギリス積みの煉瓦平屋建てで、鋸屋根破風部分の軒蛇腹や外壁側へ突出した付柱、出入口や窓等の開口部マグサ上に走る横材などに外観上の特長が有ります。
2016年11月20日探索。
千葉刑務所は、東京矯正管区所管の刑事施設である。刑期8年以上の初犯者(重罪初犯者)を収容する男子刑務所。正門及び本館は、司法省の山下啓次郎の設計で1907年に竣工。現存する。山下が中心になって設計した千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の監獄は五大監獄といわれる。
2016年11月13日探索。
鉄道連隊材料廠機関車修理工場:この煉瓦建築は、明治41年鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築された物で、その後昭和20年日本国有鉄道が大蔵省から借り受けてレール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となってものです。千葉県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築一つで有り特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも比類がなく、この建物の主な特色となっている。
第3回煉瓦散歩市川市の説明パンフレットの表紙に描かれた煉瓦くんです。普通煉瓦と焼きすぎ煉瓦で平面に「ホ」の刻印があります。今回の主催者のAYAさんが描きました。胡録神社煉瓦倉庫。ザチャペルオブアドレーションの煉瓦構造物。民家の敷地内に煉瓦造りの倉庫。駐車場の敷地隅の煉瓦倉庫。千葉県血清研究所跡の敷地内の煉瓦倉庫。野戦重砲兵連隊の煉瓦塀。柳原水閘。
埼玉県川口市の個人住宅。川口市の鋳物産業に多大な貢献をされた方の旧邸宅。「永瀬家は市内本町一丁目の由緒ある旧家で、江戸後期には由緒ある宇田川家と交替で名主役を、また通称『本陣』といわれるように、日光御成道川口宿問屋を勤めた家である。」とあるのみ。
2016年09月19日探索。
旧田中家住宅は大正時代に建設された県下有数の本格的洋風住宅です。四代目田中コ兵衞は大正10年(1921年)から大正12年(1923年)にかけて、当時としては非常にモダンで立派な洋館を建設しました。自ら材木商を営んでいたことから建築資材にはこだわりがあり、当時入手できる最高級の木材を用い、煉瓦も建築現場の近くで専門の職人に焼かせたと伝えられています。建築費用の総額は18万円といわれています。
江の島サムエル・コッキング苑は、明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来した和洋折衷で、南国ムード溢れる植物園で四季折々様々な花や植物をお楽しみ頂けます。2016年09月17日探索。
田中藤左衛門商店:「七ツ梅」は株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄であったが、平成16年(2004年)に田中藤左衛門商店が廃業した後は、深谷市の中山道沿いにある酒造跡の通称として使われている。「七ツ梅酒造跡」ともいわれる。
2016年06月19日探索。
深谷れんがホール」は、1933年(昭和8年)にリサイクル材を利用して建てられた、1階がレンガ造、2・3階が木造の倉庫でした。2003年から掃除・改修等を実施し(旧柳瀬商店レンガ倉庫再生プロジェクト)、2005年春から「深谷れんがホール」として新たな歩みを始めました。約100u(7m×14.5m)の広い板の間、6本の太い柱とレンガの壁が織り成す空間は、このれんがホールならではの独特の味わいのある雰囲気を醸し出しています。
深谷市 小林商店
住所:深谷市西島町4-3-50
煉瓦蔵は大正元年竣工。奥の3階建の洋風の店舗は、昭和2年竣工の石造。砂糖問屋の事務所として使用されていました。材質の異なる2つの建物の対比が目を引きます。
2016年06月19日探索。
藤橋藤三郎商店は、中山道沿いにある老舗酒屋で、深谷の地酒として「東白菊」がよく知られている。創業者は、江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に越後の柿崎(現在の新潟県上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた。店舗裏側の敷地には歴史的に価値のある深谷産のれんが煙突、蔵、井戸などが残っている。
2016年06月19日探索。
深谷市 塚本商店
住所:埼玉県深谷市本住町1塚本商店(武州近江屋つかもと燃料)は、伝統的和風の町屋建築にレンガの「うだつ」をあしらった珍しい建築物で、大正元年(1912年)に建造された。レンガはイギリス積みレンガ様式といわれる積み方で、防火壁の役目を担っている。店の入り口にある大きな梁は秩父の山から切り出したものである。塚本商店は日本煉瓦製造株式会社に燃料の石炭を納めていた。
深谷市 常盤園茶舗
住所:埼玉県深谷市仲町1
ときわ園は中山道とともに325年以上の歴史を持ちます。貞享2年(西暦1685年)の記録によりますと、既に中山道沿いに家を構え、現在の当家の菩提寺も建立しております。
2016年06月19日探索。
煉瓦構造物 長崎 西泊町建物:長崎は煉瓦建物が多く存在しますが、長崎市西泊町にも個人の住宅と蔵に煉瓦が使われている。蔵の下部は石造りだが、上部の合掌部に煉瓦が使われている。
2016年07月17日探索。
小菅修船場跡:幕末期、我が国には船体廻りの補修施設がなかったため、薩摩藩と英国商人トーマス・グラバーらが、明治元年12月(1869年1月)に小菅修船場を竣工した。小菅修船場は、我が国で初めて蒸気機関を動力としたスリップドック(船を陸上に曳き揚げて修理するドック)であり、曳揚げ機械やレールなどの一切の設備はグラバーが英国から輸入した。
宇都宮市水道 第六号接合井
住所:栃木県宇都宮市上金井町635-3
宇都宮市北部に位置し,日光街道にほぼ平行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調節するための施設。深さ2.3mのコンクリート造構造物の上に,西洋城郭風意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋を建てる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。
2016年07月03日探索。
神崎煉瓦ホフマン窯:京都府舞鶴市西神崎に位置する由良川河口右岸に設置された釜です。明治30年(1897年)9月、京都深草在住の山田宗三郎氏によって、京都竹村丹後製窯所として興業しました。当初は登り窯であったものを、煉瓦需要拡大に対応するため、大正の末頃に、窯の一部を再利用し、ホフマン式輪窯に改良しました。それにより、従来は、登り窯で煙突が1本で、一度焼く毎に火を消さなければならなかった仕組みから、現存する煙突11本を作り、それぞれに区割りして別々に作業が進められる仕組みに変わり、格段に効率がよく運用が出来るようになったものです。
琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。
日本煉瓦製造は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、清算された。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯は、、栃木県下都賀郡野木町野木にある近代化遺産であり、赤煉瓦の製造に用いられた設備である。国の重要文化財に指定されている。明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。ホフマン式の東窯が現存している。西窯は1923年の関東大震災で倒壊した。大正期・昭和期にわたり、工場や鉄道建設のために赤煉瓦を供給した。昭和46年(1971年)、社名を「株式会社シモレン」に改め、昭和47年(1972年)に需要の衰退により、赤煉瓦製造販売が中止された。
猿島(正式名称は「えんとう」だが、広く一般的に「さるしま」と呼ばれる)は、神奈川県横須賀市、東京湾に浮かぶ無人島。湾内唯一の自然島である。島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮上人にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末には江戸幕府の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。
赤れんが博物館は京都府舞鶴市にある、レンガについて様々な視点からの収集・展示を行っている博物館。1993年11月に開館した。舞鶴市が運営している。建物は1903年(明治36年)に竣工した旧日本海軍の兵器廠魚形水雷庫のを改装したもので、鉄骨構造であることや煉瓦の積み方がフランス積みであることなど、舞鶴の煉瓦建築物のなかでもユニークな存在である。
岡山臨港鉄道は、かつて岡山県岡山市の大元駅と岡山港駅を結んでいた鉄道路線。1951年(昭和26年)8月1日に鉄道運輸事業を開始し、1984年(昭和59年)12月30日に廃止された。貨物ヤード方式を廃止し、全国の貨物取扱駅を半減した1984年(昭和59年)2月1日の国鉄ダイヤ改正の影響で鉄道の存続が困難になり、同年12月29日を最後に列車運行を休止。翌12月30日付で廃止された。
宮浦石炭記念公園は1887年(明治20年)開坑の三池炭鉱の主力坑の一つで、約80年にわたり石炭を産出した宮浦坑跡に整備された歴史公園。現存する煙突は、1888年(明治21年)建造、高さ31.2m、上部直径2.9m、基部直径4.3mで、平成10年1月16日に国登録指定文化財(建造物)として登録された。この公園のシンボルである煙突は「炭坑節」に歌われたモデルとも言われている。また大牟田の各竪坑にそびえ立っていた煙突が残されるのもここだけになっています。
サッポロビール博物館サッポロビール博物館(サッポロビールはくぶつかん)は、北海道札幌市、サッポロガーデンパーク内に位置する博物館。日本で唯一のビール博物館であり、北海道遺産の一つにも指定されている。1987年7月開館、もともとは1890年に札幌製糖会社の工場として建設された赤レンガの建造物を利用したもの。建物にはサッポロビール園が併設されている。所在地は北海道札幌市東区北7条東9丁目1番1号。
小樽市総合博物館 小樽市総合博物館は、北海道小樽市にある北海道の歴史や自然、交通(鉄道など)・科学などに関する展示を行う博物館である。2007年7月14日、色内にあった小樽市博物館(おたるしはくぶつかん)と緑にあった小樽市青少年科学技術館(2006年12月閉館)の機能を統合し、手宮にあった第三セクター運営の小樽交通記念館(おたるこうつうきねんかん。2006年3月閉館)の施設を活用する形で発足したもので、旧小樽交通記念館の施設に事務機能を集約し、
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煉瓦構造物写真集