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更新日時 2020年11月02日

煉瓦構造物 大久野島 火薬庫跡
 大久野島は瀬戸内海芸予諸島の一つであり、広島県竹原市に属する無人島(定住者なし、居住者あり)。「ウサギの島」「毒ガスの島」として知られる。陸軍の大久野島砲台(芸予要塞)である。明治初期、瀬戸内海から京阪への欧州列強の艦船の侵攻に備えるため、狭隘部である紀淡海峡、鳴門海峡、豊予海峡、下関海峡に沿岸要塞砲台を置くことになった。豊予だけは当時の要塞砲(海岸砲)の最大射程より海峡幅の方が広かったため、別案として立てられたのが芸予要塞である。計画自体は明治6年(1873年)『海岸防禦法案』から始まったもので、最終的に忠海海峡のこの島と来島海峡の小島の2つに決定したのは日清戦争後の明治30年(1897年)、そして芸予要塞の全ての工事が明治35年(1902年)竣工した。昭和初期に国内で2箇所、大日本帝国陸軍では唯一の毒ガス製造工場があった島である。昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)まで、太平洋戦争で使用するための毒性のガスが大日本帝国陸軍によって秘密裏に製造されていた。この時代まで島内には民家七戸・住人数十人がおり農耕を営んでいたが、毒ガス製造が始まった時に強制退去となった。作られていた毒ガスの種類は血液剤、催涙剤、びらん剤、嘔吐剤の4種で、戦争末期には風船爆弾の風船部分も作られていた。毒ガスやそれに関する機器は終戦直後旧日本軍が証拠隠滅を図り海洋投棄し、その後進駐軍が島全体を接収し海洋投棄・埋設・焼夷剤で焼却するなどの無毒化処理が施された。朝鮮戦争が始まると再びアメリカ軍が接収し、島内の建物を弾薬庫として用いた。彼らは昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)まで接収し続け、後にほぼ全島域を大蔵省(現・財務省)、灯台付近のみ運輸省(現・国土交通省)が所管することになる。 島内では、施設放棄から半世紀以上経った現在でも内部が空になった巨大なコンクリート製の毒ガス施設はその姿を残し、いくつかが立入禁止区域に指定されている。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡の煉瓦はイギリス積み。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡。
@大久野島の火薬庫跡に煉瓦の刻印を確認。貝塚煉瓦の刻印。
@大久野島の火薬庫跡に煉瓦の刻印を確認。貝塚煉瓦の刻印。
@大久野島の火薬庫跡に煉瓦の刻印を確認。貝塚煉瓦の刻印。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『竹原市』を掲載」