更新日時 2014年07月11日

 喜界島(きかいじま、きかいがしま)は奄美群島の北東部に位置するの島。鹿児島県大島郡に属し、全島が喜界町に属している。奄美大島にほど近い、東経130度線上に位置している。隆起性サンゴ礁の島で全島ほとんどがサンゴを起源とする石灰岩で出来ている。現在も年間約2mm隆起を続けている。古代では大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上、記録されている。『日本紀略』長徳4年(998年)の記述として、大宰府が喜界島に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている。ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと考えられ、『小右記』長徳3年(997年)の記述から判断されている。また、長徳5年(999年)に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告していることからも、喜界島には、それだけの機関や勢力が存在していたと考えられている。これらのことから、奄美大島人と喜界島人が区別されていたことがわかる(城久遺跡群からも、島外の遺物が多く、南西諸島の中でも独自性が強いとされる)。中世以来、琉球王国や薩摩藩など、周辺の大勢力の支配を受けてきた。戦跡も多く残る。
 @喜界空港(きかいくうこう、Kikai Airport)は、鹿児島県大島郡喜界町(喜界島)にある地方管理空港である。島の西海岸沿いに設置されており、太平洋戦争中は旧海軍の前線基地として利用された。中型機以上への対応を目的とする滑走路延長および空港施設(奄美航空所有)の老朽化に伴う建て替えなどが計画されるも、実現には至っていない。奄美空港との距離は約26km(16マイル)であり、飛行時間は僅か5分程度と非常に短い。保安検査後の待合室はなく、保安検査後はそのまま飛行機に搭乗する。
@空港のカウンターです。 @売店内に軽食が出来る場所があります。
@店内の雰囲気です。 @生ビール500円。飲んだのは帰りです。
@たこ焼き5ヶ200円。 @豚あぶり丼550円。
@喜界空港前の喜界レンタカーサービスでレンタカーを借ります。
 @戦闘指揮所跡:大東亜戦争(第2次世界大戦)遂行のために形成され、建造物として残されたものである。喜界島の飛行場は海軍航空基地で、昭和20年米軍が沖縄上陸後、戦争遂行上の最重要基地として連日連夜にわたり米軍機の猛攻撃を受けた。薄暮本土から飛来し、翌日払暁沖縄へ飛び立つ特攻機の整備をした飛行場で、この建物の中で戦闘の指揮をしたと言われている。戦跡です。
@戦後70年以上立ちますが階段や壕内も確りしています。
@この穴は煙突ですかね?
 @掩体壕:掩体壕とは戦闘機を敵の攻撃から守るための格納庫である。太平洋戦争末期、現在の喜界飛行場は沖縄方面の敵艦隊へと向かう襲撃機・特攻機が整備・給油を行うための中継飛行場となっていた。当時、戦闘機を米軍の爆撃から守るため、島内の50数カ所に掩体壕が建設されたが有蓋コンクリート製はこの一箇所だけで、残りは三方土盛りをして木の枝などでカモフラージュしただけの簡易なものであった。コンクリート製の「掩体壕」は主に戦闘機の整備場として使用されていた。戦跡です。
 @俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院ワ子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。俊寛が流された鬼界ヶ島の場所については、鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、長崎県長崎市の伊王島など諸説ありはっきりしていない。また、ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。
A喜界空港近くの海岸の風景。
 B海軍航空基地戦没者慰霊碑。喜界島の「特攻花」和名はテンニンギク。戦場へ旅立つ若い戦士に贈った別れの花。戦争の悲惨さを語り継ぐ。
 C中里海水浴場(スギラビーチ)潮の干満に関係なく泳ぐことができる。長さは、250メートルで真白な砂とすきとおった海には熱帯魚も泳いでおり、まさに南国そのもの。夕日が、きれいに見える景勝地でもある。
D喜界島の海岸線の雰囲気。岩場が多い場所です。
 E荒木中里遊歩道。島人に、「夕日の遊歩道」とも言い夕方大島本当に沈み行く夕日は金色で染めた景観は感動的です。この案内板より300m程行きますと、数万の陸ヤドカリが大集合する場所があります。又、釣りでは島内随一と大物が釣れる場所としても有名です。
 E荒木中里遊歩道の戦跡。厳部隊二番機殉難供養塔。昭和17年5月16日九六式陸上攻撃機に搭乗、喜界上空夜間戦闘にて戦死。
F荒木漁港の風景。
 G保食神社。集落ごとに複数の神社が見られるが、仏教寺院は極少ない。ただし神社のほとんどは、江戸時代(薩摩藩政時代)頃に土着の信仰から移行し設立された比較的新しいものである。
H農業集落排水荒木地区処理施設。
 I手久津久公園。手久津久集落の海側にある公園。綺麗に整備されている公園で広々しています。住人も観光客も誰も居ません(笑)
J手久津久港。
K大和製糖喜界島工場跡の残された煙突。大和製糖は生和糖業と合併し、現在は三井製糖の子会社。
K大和製糖喜界島工場跡の煙突内部。煉瓦が崩れています。
L上嘉鉄港。
M浦原港。
 N七島鼻(ポイント211)は、約700haの広大な台地「百之台」の南端に位置し、年間2.0mmという世界トップクラスの隆起スピードを誇る喜界島の最高地点(211.96m)である。戦時中は、米軍機の攻撃に備え旧日本軍の電波探知(レーダー)基地が設置され、磨田兵曹長率いる40名の兵士は敵機来襲をいち早く捉え、厳部隊喜界島分遺隊本部(海軍南西諸島航空隊)へ報告する任務を担っていた。また、基地建設の際には、多くの女子挺身隊も動員された。現在は、パラグライダーの離陸場としても利用され、東に太平洋、西には東シナ海を一望できる絶景の地である。
 N近くに自衛隊の喜界島通信所が有りますが、喜界島最高地点でアンテナを立てる島根ナンバーの怪しい車がいます。何かの情報を収集しているのでしょうか?
N旧日本軍の電波探知(レーダー)基地跡。外に出ているのは排煙口ですかね?
N旧日本軍の電波探知(レーダー)基地跡。内部は泥だらけです。
N喜界島最高地点標識。海抜211.96m。
O喜界島の直線の長い道路。
P花良港。
Q喜界島町阿伝の珊瑚の石垣。
R保食神社。
S喜界島町指定天然記念物 巨大ソテツ 樹齢およそ300年。
@早町港。
 @早町港の涙石。早町港は上納する砂糖(サトウキビ)積出し港であった。喜界島民はサトウキビ運搬道路を通称クチャバンタ通りと呼んでいた。クチャバンタは坂道で、粘土質でありサトウキビを運ぶ人馬が苦労する事が多くクチャバンタの道路改修工事が許された。涙石はその時の道路の敷石だそうです。
A九州電力 新喜界発電所。
B平家上陸之地。
C喜界島のトンビ崎付近。
D八幡神社。
E小野津漁港。
F 鹿児島県喜界島、子午線東経130度線。
G生和糖業(旧大和製糖)喜界工場。
H喜界島酒造株式会社。
I港湾フェリーターミナル。
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出典: 喜界町
隆起珊瑚礁の島 喜界島