更新日時 2015年01月02日

 沖永良部島(おきのえらぶじま、おきえらぶじま)は奄美群島の南西部に位置する島、鹿児島県大島郡に属し、九州本島から南へ536km、沖縄本島から北へ約60km、北緯27度東経128度付近に位置する。和泊町と知名町の2町からなり平成24年1月1日現在の和泊町人口(男3495)(女3601)計7096人、知名町人口(男3366)(女3305)、計6671人両町の合計人口13767人(2012年)。島の名前の読みについては、1973年(昭和48年)に当時の和泊町長が町議会で「おきのえらぶじま」が正式であると答弁している。和泊町議会において「おきえらぶじま」と「の」を抜いた形での呼称統一を決議したものの、町側は区長会や観光協会、地女連など町内5団体と意見交換した結果、いずれも「変更の必要なし」との結果になった。これらを踏まえ、同町はどちらも正しいとして「変更の必要はない」と結論付けた。会話の上では単に「えらぶ」と呼ぶ場合が多い。西郷隆盛の流刑地だったため、東京都の上野公園、鹿児島市の鹿児島市立美術館、霧島市西郷公園同様、西郷隆盛像がある。
 マルエーフェリー株式会社(マルエーフェリー、英称:A-Line Ferry Co.,Ltd.)'は、鹿児島県鹿児島市泉町に本部を置く海運会社。本社は鹿児島県奄美市名瀬入舟町にある。旧社名は大島運輸株式会社。鹿児島新港 - 奄美大島(名瀬港・新港地区) - 徳之島(亀徳港) - 沖永良部島(和泊港) - 与論島(与論港) - 本部港 - 那覇港(那覇ふ頭) 特等・1等船室を貸切で利用の場合は、運賃の75%を加算。「フェリーあけぼの」は、1等の相部屋使用が可能。また、「フェリーなみのうえ」は、1等の個室(1人部屋)が1部屋ある。当航路に限り、乗船手続き後1週間以内なら最終目的地までの間、追加料金なしで途中下船が可能。
フェリー波之上の船内の様子。
鹿児島から沖縄までの航路で距離が長いため食堂もあります。
売店の開いている時間は限られています。 自動販売機は24時間対応。
2等和室です。 ロビーに座席があります。
トイレはウオシュレット付でした。 最上階の甲板です。
 マリックスライン (英語: Marix Line Co., Ltd.) は、鹿児島県鹿児島市錦江町に本社を置く海運会社。鹿児島から奄美群島・沖縄へのフェリー航路を運営している。 鹿児島通運グループの一社である。鹿児島新港 - 奄美大島(名瀬新港) - 徳之島(亀徳港) - 沖永良部島(和泊港) - 与論島(与論港) - 本部港 - 那覇港 乗船手続きから一週間以内なら、最終目的地までの間で追加料金なしで途中下船できるサービスがある。全区間にて、マルエーフェリー(鹿児島航路限定)と相互利用可能。鹿児島港 - 奄美大島(名瀬港)の区間のみ、奄美海運と相互利用可能。奄美大島名瀬港以外各離島とも使用港が外海と面していて天候などの影響を受けやすく、欠航しないまでも寄港地の変更や寄港しないこと(抜港)などの条件付き運航もあり荒天が予想されるときには大きな影響が出ることがある。台風や冬場の季節風などによる荒天によって、欠航便が発生した後、運航再開時に臨時便や変則運航が設定されることがある。フェリーとして各離島間の物流の要として機能しているため、農繁期や引っ越し時期など貨物量が増加する時期は各離島経由する運航形態により各寄港地の停泊予定時間を超過し、遅延が寄港する度に加算され最終目的地で大幅に遅延することもある。
クーンコーラルプラスの2等和室。
売店と食堂です。食堂は食事の時間以外はパソコン等が利用できます。
24時間営業の自販機です。 最上部の甲板です。
@和泊港のフェリーターミナルです。
@顔出しパネルです。 @沖永良部の焼酎です。
 A沖永良部空港(おきのえらぶくうこう、英: Okinoerabu Airport)は、鹿児島県大島郡和泊町(沖永良部島)にある地方管理空港である。
A沖永良部空港の待合室の雰囲気です。
 B国頭崎灯台:この灯台は、沖永良部島の北東端にあり、喜界島のトンビ埼灯台と共に、奄美群島では、最も光が明るく遠距離から見ることができます。本土〜奄美の各離島・沖縄等を結ぶ大型の定期旅客船や大型貨物船等が行き交っており、遙か海上からでも島の場所が解ります。船の位置を求めるための大切な目標として、昭和48年2月12日建設されました。国頭(くにがみ)という地名は、九州本土以南の島々での独特の呼ばれかたで、日本本土から見て最も近い場所にあることを意味しています。
B国頭岬の海岸線の雰囲気。
C国頭郵便局。 C蘇鉄の感謝の碑。
 D西郷隆盛上陸の碑と2等水準点。西郷隆盛は先に徳之島謫居中の処、更に島賛の厳命に接し護送されて文久2年(1862年)8月14日伊延港に着岸但し、牢舎の成るのを待つためなお船牢に在って16日上陸。
 D伊延港:和泊港は海に突き出した港なので悪天候時は波が港に打ち上げてしまって使い物にならないこともあり、状況に応じてこの北側の伊延港にフェリーが発着することもあります。周辺には何もないので、こちらに着岸したら市街までの交通手段はタクシーを呼ぶか、宿の送迎を期待するしかありません。
 E湾門浜:沖永良部島の北側屈指のビーチ。防波堤はあるが砂浜は綺麗。リーフまではやや距離があり、やや遠浅。海水浴には最適です。トイレやシャワーなどの施設があります。レンタカーなどの交通手段が無いと不便。
 F和泊歴史民俗資料館:和泊町の文化財等が展示されている資料館です。歴史や文化・民俗等の情報が凝縮されています。沖永良部島の民具や記録写真、島特産のエラブユリ(鉄砲百合)に関する多彩な資料を展示し、島の歴史と生活を紹介している。自然の様子もパネル展示し、島の全てがコンパクトに理解できるよう工夫されている。この施設もレンタカーなどの交通手段が無いと不便。
 G世之主の墓:琉球式墓。岸壁を堀込んだトゥール墓で歴史上貴重な文化財であり、県指定文化財になっています。第一石門にはいると一面芝生の庭で昔はここで宴が催されていました。第二石門に入ると狭い庭で、祭典場でありました。その奥に珊瑚礁の岩を堀とり、穴にした納骨堂があります。中央に右から15世紀、応栄2年ごろ島主として沖永良部島を治めていた世之主加那志、嫡子、奥方の瓶が安置され、四隅に主君を守るかのように四天王の瓶が安置されています。築造年は不明です。トゥール墓は、15世紀半ばから普及したと推定され、石工は沖縄から招かれています。人間は死ぬと元に帰るという琉球の思想に基づいて、墓全体が女性の股間を型どってあると言われています。
 H世之主神社:越山には世之主(よのぬし)城跡と世之主(ゆぬぬし)神社がある。永良部世之主は、琉球北山王の第二王子、真松千代(ままちぢよ)であり、永良部島へ渡り玉城村の金之堂 (ふばどう)に館を造り、後に古城地(現在の世之主神社の越山)に館をつくることにしたとの由来や、北山王国を滅ぼした中山王国の勢力が北上し、1422年(応永29年)、中山王が使わした和睦の船を戦船と思い込んで自害した世之主が縊死したとの悲話が残っている。
 I田皆岬(たみなみさき):沖永良部島の西の岬。北緯27度24分、東経128度40分にある断崖で高さは40〜50mで奄美十景の景観を誇る。突き出した場所にあるので沖永良部島の北側の海を一望できます。矢護仁屋埼灯台は田皆岬にある灯台で、もともとこの岬自体は矢護仁屋埼といいます。
 J昇龍洞は全長2,700m(観光洞の長さ600m)天井の高さ20m、鍾乳石の総数30万本、鍾乳石の種類25種の大規模な鐘乳洞。地下水がサンゴ石灰石を溶解し、一滴、一滴の雫(しずく)がつくり出した大自然の彫刻です。天井から無数に垂れ下がる銀白色の鐘乳石は、東洋一といわれる美しさで、サンゴの海から生まれたその変容は、日本本土の鍾乳洞とは趣が異なります。鍾乳石や石筍(せきじゅん)には、クリスマスツリー・音楽堂・カニの横歩きなど様々な名前がついています。県指定天然記念物です。大人・高校生1,000円、小中学生500円、4〜5歳児200円。
J昇龍洞入口。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。 バナナの花。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
きのこの森。 J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。長寿の門。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。美保の松原。
ロケット岩。 J昇龍洞内部の鳥居。。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。熱愛の柱。
J昇龍洞内部の鍾乳石。竜宮橋。
J昇龍洞内部の鍾乳石。夢の国。
J昇龍洞内部の鍾乳石。ライトアップで赤くなっていますが、やはり鍾乳石は白が良いですね。
J昇龍洞内部の鍾乳石。青もいまいちです。
J横綱の化粧まわし。 J昇龍洞内部の鍾乳石。
J山内地蔵。 Jナイアガラの瀧。
J魔法の達磨岩。 J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。
J昇龍洞内部の鍾乳石。龍神の瀧。
J昇龍洞内部の鍾乳石。 J幸福の門。
J昇龍洞内部の出口。
J昇龍洞内部の出口。 J昇龍洞内部のナメクジ。
J昇龍洞内部の出口は喫茶店になっている。出口から入口まで結構上り坂を戻ります。
 K水連洞は現在、沖永良部島ケービング協会が管理していて、ツアーに申し込まないと入れない。なので、今回は時間もなく諦めました。次回は銀水洞のケービングに申し込んでみたい。
 Lジッキョヌホー:ジッキョヌホーは「瀬利覚の川」という意味。沖永良部島は水確保に苦労の歴史があり、島には水にまつわる伝承が数多く残る。ジッキヨヌホーは、他の暗川より恵まれた位置(集落の中央・地表近く)に湧き出る。かつて、ホーは終日ごった返し、情報の受発信地だった。
 Lジッキョヌホーは水道普及の昭和30年代以前は、集落唯一の水源として人々の生活用水のすべてと流下の水田を潤し、人々の生活を支えてきた。現在では、飲料水としての利用はなく、洗濯・野菜洗い・農業用水、子どもたちの親水広場としての利用が主である。さらに集落の重要な位置づけとして1,000人集落のシンボルとして字民の崇拝、経営の拠り所とされている。
 M沖永良部島下川平の大型有孔虫化石密集産地は、琉球層群の瀬利覚層に属し、層の厚さは最大3mに達する。有孔虫化石は、学名オパキュリナコンプラナータに属することが明らかにされている。その形は、凸レンズ状を呈し、大多数が直径4mm前後であるが、最大直径10mmに達するものもある。このように、大型で、かつ密集している大型有孔虫化石産地は、沖縄を除けば同地点のものと、与論島の某地点のもの以外に無い。
 N南洲神社:西郷南洲翁の遺徳をしのぶ為、南洲翁を祭神として明治35年に建立された。南洲翁は文久2年(1862年)島津久光公の怒りに触れて沖永良部へ流罪となり、1年6ヶ月牢屋生活をされた。翁は常に牢中に正座して読書に耽り囲外に少年達を集めて古今聖賢の道を談し、また、凶年に備えての社倉法を教えて島利民福をはかるなど偉大な余得をとどめた。敬天愛人の思想は、この地で完成されたとその道の人々が伝えている。
N南洲神社
N沖永良部島で泊まったホテル。 N居酒屋郷土料理 草
知名町のマンホール 和泊町のマンホール
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ハナシャヌ島 沖永良部島