更新日時 2015年06月06日

 北大東島は、沖縄本島の東方約360kmに位置する北大東村は、沖縄でもっとも早く朝日が昇る島。気候は亜熱帯海洋性気候に属し、一年を通して暖かく、降水量は少ないものの、頻発する台風により雨水がもたらされています。北大東島は、珊瑚環礁が隆起してできた島で、中央部は盆地のように窪んでおり、大小20数個の沼や湿地が散在しています。盆地の周りを屏風のように連なる小高い丘が取り囲み、防風林として島を台風などの災害から守ってきました。1885年日本の領土に編入される。1900年 - 玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団が大東諸島に入植し、1903年から北大東島の開拓に着手。戦前は、南大東島と同様、玉置商会〜東洋製糖〜大日本製糖(現在の大日本明治製糖の前身)が島全体を所有する「社有島」であった。但し北大東島では製糖業も営んではいたもののリン鉱業が主であり、農業を目的とした移住の他に本土・沖縄・台湾などから多数の鉱山労働者が出稼ぎに来ていたが、農業移住者とは異なり閉山後は島を離れた。当時の彼らの生活は、公衆浴場跡などにわずかな痕跡を留めるのみである。燐鉱採掘は戦後も、米軍の管理下によって細々と行なわれたが、米国式の機械掘りとなった事から採掘量は増大したが品質の低下を招き(戦前は富鉱部のみを選んで手掘りしていた)、採掘可能な鉱床も尽きた事から1950年代に終了した。
 沖縄の那覇空港です。Q100 (DHC-8-Q100)日本では琉球エアーコミューター、天草エアラインが運航。デ・ハビランド・カナダ DHC-8 (de Havilland Canada DHC-8) とは、1980年代初頭にカナダのデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機である。1992年にデ・ハビランド・カナダ社はボンバルディア・エアロスペース社 (Bombardier Aerospace) に買収されたがDHC-8の生産は続けられた。ただし、DHC-8の名称は“ダッシュ 8”(Dash 8)に変更された。また、1996年以降のものについては騒音・振動抑制装置が装備された低騒音型として、Q シリーズ (Q Series) という名称に再び変更され現在に至っている。総生産機数は800機以上である。
@沖縄の那覇空港から北大東島への直行便です。曜日によって南大東島経由になります。
 @北大東島空港です。北大東空港(きただいとうくうこう Kitadaito Airport)は、沖縄県島尻郡北大東村(北大東島)にある地方管理空港である。南大東空港とを結ぶ航空路は、直線距離にして約12km(7マイル)・所要時間15分で、定期航空路線としては日本一短い。風向きの関係で南北に直線飛行する日は、離陸後車輪を格納せずにそのまま着陸することもある。
 A北大東島のハマユウ荘です。島一番の高台・黄金山に建ち、島の内陸部が一望できる絶好のロケーションにあります。心安らぐ交流広場「水の庭」や長幕をモチーフにデザインされた建物など、空間そのものが楽しめる宿泊施設です。
A観光ホテルなので1人でもツイン部屋です。 Aトイレはウオシュレットがありません。
Aレストランはまゆうの定食メニューです。 Aハマユウ荘の朝食です。
B無名の祠と獣魂碑。
C北大東島灯台。
C歩兵第三十六連隊。第二大隊守備記念碑。
 C大東亜戦争熾烈極まる昭和十九年七月より昭和二十年八月十五日終戦に至る間、北大東島守備の大任に就く。
D旧陸軍指令豪へのアクセスは、北大東中野臨時地震観測点の箱が有る場所から入ります。
D旧陸軍指令豪へは割堀の様な場所を進みます。
D旧陸軍指令豪入口。
D旧陸軍指令豪内部。
D旧陸軍指令豪の別の出口。内部が直接見えないように壁を作っています。光漏れの防止?
D旧陸軍指令豪の別の出口。 D割堀を更に進みます。
D旧陸軍指令豪の反対側の別の入口。ここも入口には壁が有ります。
D旧陸軍指令豪の内部。
D旧陸軍指令豪の内部。 D地震の観測機器。
D旧陸軍指令豪は必ず2ヶ所の出入口が有りますね。
D旧陸軍指令豪からの地震計測機器の配線。
E燐鉱石の貯蔵庫跡。現在は廃材置き場になっている。
E燐鉱石の貯蔵庫跡。
E燐鉱石の貯蔵庫跡。
E燐鉱石の貯蔵庫跡。
 E貯蔵庫の隣には乾燥工場がありました。大型ドライヤーで燐鉱石を乾燥させていたそうですが、現在は煉瓦造りの廃墟が残っているだけです。大型のドライヤー機?の残骸も残る。
E燐鉱石の乾燥工場跡。
E燐鉱石の乾燥工場跡。
E燐鉱石の乾燥工場跡の擁壁。
E船舶の巻き上げ機か?
E北大東港(西港)
E燐鉱石貯蔵庫跡。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。トロッコのレールが残る。
E燐鉱石貯蔵庫跡。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
E燐鉱石貯蔵庫跡。このトンネルの中にトロッコが入って燐鉱石を運んでいた。
 E採掘した燐鉱石は、洗鉱分別し、トロッコにより乾燥工場に運ばれ、大型のドライヤー機で乾燥した後、最後に天日干しをして、貯蔵庫で搬出を待ちました。燐鉱石の運搬は桟橋の先端に象の鼻のように伸びた漏斗から艀に落とし本船に運ぶ方法が取られていました。アルミナ鉄の含有量が多く含まれていた北大東島の燐鉱石は、肥料や火薬の元となる製燐原料の他、戦闘機を作るアルミの原料に適していたことから、採掘事業は活気を帯び、最盛期には台湾などからの出稼ぎで島の人口は約4000人までに膨らみ、年間22,068トンもの燐鉱石を搬出していました。戦後、米軍により大型機械化が導入されましたが、手堀とは異なり土や石が一緒に搬入されてしまい品質の評判が落ちました。昭和25年(1950年)には燐鉱所は閉山されました。こうして事業開始以来80万トンの燐鉱石を積み出した燐鉱石採掘事業の歴史に、幕が降ろされたのです。北大東島の歴史の証として1919年に建てられた「燐鉱石貯蔵庫跡」が当時の面影を今に残しています。
E燐鉱石の運搬は桟橋の先端に象の鼻のように伸びた漏斗から艀に落とし本船に運ぶ。
 E燐鉱石採掘事業の歴史は、南大東島の開拓事業に着手した玉置商会が南大東島で甘蔗作農事業を主に推進したのに対し、北大東島では燐鉱石採掘事業を中心に行ったことが始まりでした。玉置商会は、沖縄本島北部や伊是名、宮古、八重山諸島から労働者を募り、明治43年(1910年)に階段式の露天掘り採掘事業を開始しました。しかし知識と技術の未熟さから事業を軌道に乗せることが出来ず、翌年には廃止に追い込まれました。それから、約8年後の大正7年(1918年)第一次世界大戦により燐鉱石の価格が暴騰し、沖大東島のラサ鉱業(株)は、全盛期を迎えていました。玉置商会から北大東島の経営権を受け継いでいた東洋製糖(株)は、これに刺激を受け沖大東島を視察し、採掘運搬、積み込み方法などを習い、北大東島での設備工事に着手しました。翌年には燐鉱石を含む大規模な設備がほぼ完成し、採掘事業は再開されました。
E燐鉱石の運搬は桟橋の先端に象の鼻のように伸びた漏斗から艀に落とし本船に運ぶ。
E桟橋にレールが残る。
 Eだいとうは、大東海運が所有する貨客船。那覇港から離島である南大東島及び北大東島を結ぶ航路に使われる船舶である。大東諸島に生活物資を運ぶ唯一の船であり、大東諸島の住民の生活には欠かせない船である。運航頻度は月に4〜5往復程度(おおむね前月の下旬に予定がわかる)で、積載される貨物と気象状況で出航の可否が決まる。基本的な那覇港の入出港場所は泊ふ頭で定員は55名であるが、石油類などの危険物を載せる便の場合は出港が新港ふ頭となり定員が12名となる。那覇での乗船券の発券は出港の前日か当日の15時までとなっている。予約は泊港2Fの事務所に直接行くか電話のみであり、インターネットなどによる受付はない。決まった日、決まった時間に必ず出航するわけではない。前甲板に12フィートコンテナを積載しており、大東諸島での上陸の際に人もコンテナ大の檻に入れられて乗降する場合がある。ただし荷役がないなど特別な場合は艀渡しとなることもある(この場合、艀と一緒にクレーンで吊され上陸する)。フェリーではないので、本船でマイカーを運ぶことは出来ない。(事前申請によって、車が貨物扱いで運ばれることはある)大東諸島に向かう旅客はほとんど空路で向かうため、旅客はそれほどでないが、時期によってはほぼ満席になることもある。
E貨客船だいとうを沖のブイに繋ぐため、クレーンで小型船を降ろします。
E貨客船だいとうを沖のブイに繋ぐ作業。
E人を貨客船「だいとう」から運搬する籠です。
E荷下ろしを見学していたらサービスで籠に乗せてもらいました。ユーチューブ動画リンク
E那覇港と北大東島・南大東島を往復する貨客船「だいとう」です。
E船舶の固定用の浮きブイでしょうか?展示はされているが説明文は有りませんでした。
 F金刀比羅宮:宇港の玉置碑の南西麓にあり、四国香川県の金刀比羅宮を勧請したものです。戦前、市場を経営し漁師の元締めでもあった菊池幸四郎氏が自宅に祀っていましたが、第二次大戦中、敗戦の色も濃厚となった昭和19年に北大東島出張所所 長に任命された江越道孝氏が、個人で金刀比羅様を祀るよりこういう絶海の離島であるから島全体で祀るのが良いではないか、と菊池幸四郎氏に相談し、北大東 島守備隊長須永力之介少佐の協力を得て、昭和19年に建立したそうです。毎年10月10日に航海安全と大漁祈願の例祭をおこなっています。 隣には恵比寿宮もあり、例祭の日も金刀比羅宮と一緒です。
F燐鉱石のトロッコ軌道が有ったと思われる道路。
G燐鉱石のトロッコ軌道が有ったと思われる道路。
H燐鉱石のトロッコ軌道が有ったと思われる道路。
I燐鉱石のトロッコ軌道が有ったと思われる道路。
 J昭和5〜6年頃、島の女性オハマが内地(本土)に注文したといわれる地蔵さん。北大東小中学校の西にある松林の岩穴に安置されています。旧暦の7月16日に例祭がおこなわれます。
 K北大東島のうふあがりクリーンセンター。島内初の本格的ごみ処理施設です。1日2tの処理能力を持つ最新式の機械化バッチ式焼却炉を使用し、ダイオキシンを含む煤煙をはじめ、悪臭・汚水等による公害の防止や、資源ゴミのリサイクルについて最新の配慮がなされています。
 K上陸公園。明治36年、北大東島開拓のために初めて上陸したと伝えられる場所です。開拓当初はサトウキビの出荷港でもあり、海に降りていく急な坂道には線路や枕木が設置されていました。
 K北大東島開拓百周年記念碑と東屋。2000年12月に開拓百周年記念事業の一環として北大東島開拓百周年記念碑の除幕式がおこなわれたほか、上陸公園も完成しました。東屋の中には北大東島を形どったテーブルが設置されています。
K上陸公園から海への降りるスロープ。
K上陸公園から海への降りるスロープ。
L北大東島唯一の信号機。 L北大東村立幼稚園。
L北大東村立小中学校。 L北大東村役場。
M北大東村総合運動公園。
Mトロッコの車輪を利用したバーベル。 M小雀は、まだ飛べないみたいだ。
M何故か鐘が設置されている。 M北大東村地域スポーツセンター。
 N大東宮:開拓当初、玉置商会によって建立されたお宮。当初は黄金山の頂上にありましたが、黄金山で燐鉱石が採掘されたため現在の場所に移されました。毎年9月23日には村をあげての盛大な例祭がおこなわれています。
O北大東村製糖工場。 O大池。
 O大池:600万年前、環礁だった島の名残として島の内陸部に大小の池が散在しています。そのほとりには海辺の植物、アダン、アコウの木が生育し、サギ類など多くの渡り鳥が飛来してきます。
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出典: 北大東村役場
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『北大東島』を掲載」
古来の伝説 うふあがり島 北大東島