更新日時 2018年10月08日
式根島は、伊豆諸島を構成する島の一つであり、新島の南西に位置する。行政上の所属は東京都新島村。 面積3.9km2、人口約550人。最高地点はしばしば北部の神引山(かんびきやま、98.5m、三角点)と言われるが、実際には島西北部に109mの標高点が存在する。新島は砂浜の多いイメージがあるが、式根島は岩で囲まれたイメージが強い。島全体が流紋岩(コーガ石)の厚い一枚の溶岩流になっていて二次的噴火でできた火口が二つある。基本的に、港周辺以外は絶壁になっている。 新島単成火山群の活動で噴出した単成火山である。 明治時代の1888年(明治21年)に式根島への定住が行われて以降、開発が行われるようになった。行政管轄は、江戸時代には江戸幕府の直轄地であったが、明治時代に入ると、韮山県、足柄県、静岡県と変わったあと、1878年(明治11年)に東京府(現東京都)に編入され、現在に至っている。 | |
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@さるびあ丸。式根島の野伏港。 | |
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@東海汽船の高速船の野伏港の岸壁は港の内側の岸壁なのでより波が少ない。 | |
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@パトカーも島によってランクがあるのか? | @新島と式根島間の渡船。1日3往復。 |
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A東海汽船の野伏船客待合所。エアコンが効いていて涼しいです。トイレは1階。 | |
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B泊浦:神話の中や、出土する遺物で、この入り江は古くから利用されたと推測されます。江戸時代、三宅島や八丈島へ向かう御用船や廻船などは、中の浦やこの泊浦などで風待ちをした。近くにある帆縫原は、当時、帆の修理をしたばしょだと言われています。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦で西軍の敗将、宇喜多秀家は、八丈島へ流罪となりましたがその時この浦で、幾日か風待ちをしました。左側の山は、当時、風向きや海の様子などを日和を見る場所として使われ、今も「物見処」の地名が残っています。 | |
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C吹之江遺跡(ヘリポート)は島の北端、泊港を望む台地上に立地しています。昭和40年代後半、ヘリポート建設工事の際に発見されました。昭和59年度からの調査により、祭祀や信仰に関連する地区と、通常の住居が営まれた地区とに別れていることが判明しました。本遺跡では、上部に「白ママ」と呼ばれる886年生成の新島向山の火山灰と、その下部に「灰トジ」と呼ばれる838年生成の神津島天上山の火山灰の堆積が認められます。遺物包含層は「灰トジ」を挟んで上下に存在し、上部からは平安時代、下部からは奈良時代の遺物が出土しています。さらに下層には縄文時代中期初頭、そして早期後半の包含層が続いています。 | |
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D大浦海水浴場。トイレシャワーも完備。 | |
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D大浦海水浴場。貫通している岩場。 | |
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Dベンガラのような赤い岩。 | D新島村の村章付き仕切弁。 |
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E中浦海水浴場への遊歩道。蚊が多いので虫除けスプレーは必須ですね。蚊に刺されました。 | |
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F中浦海水浴場ドコモの携帯は圏外でした。ソフトバンクはギリで3Gが繋がりました。 | |
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Gカンビキ湾への遊歩道。 | |
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H神引展望台:この辺り一帯は、式根島で最も高いところで伊豆七島や富士山を前面に望み、晴天の日は、八丈島以南を除いた6島を見渡すことが出来、昭和58年3月新東京百景に選定された式根島随一の名勝地である。切り立っている岸壁は80m以上も有り、適当に鼻や崎と言われる岩で区切られている。入り江には「神引」「中の浦」「大浦」と、リアス式の海岸が北に向かって続いている。その中で「中の浦」は江戸時代の流人御用船などの風待港として多く使われたところである。式根島では西南西に高く、東北東に緩く傾斜しているが、ここからはこの溶岩丘の地形が全て観察され、盆景のような景観が展望できる。 | |
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I丸山から見るカンビキ湾。 | |
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I丸山の方角石:この方角石は、文化12年(1815年)4月伊能忠敬の測量隊が、伊豆七島測量の時設置したと言われている。測量隊長永井甚左右衛門以下9名は測量のため江戸を出発し、伊豆下田港から三宅島の新兵衛船で八丈島に向かい測量を開始した。八丈島より島つたいに北上し、神津島から新島に渡ったのは、文化12年9月11日で、式根島の測量が終わったのは同年10月3日である。当時は、星座と磁針、方位盤及び間縄、間棹などで方向や距離を求めたが、式根島では一番高いこの山のコーガ石に方位を刻んで、測量効果を上げたと言われている。しかし、当時の方角石はここより10m東にあったが、戦争中、軍隊の陣地構築の材料に使われ現存しない。尚、式根島は江戸時代、流人御用船等の泊島であったので、この山を船頭等が観天望気の場所に使い「日和山」と呼んだ。 | |
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J御釜湾展望台。 | |
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K鬱蒼とした御釜湾遊歩道。 | |
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L木が枯れて少し開けた御釜湾遊歩道。 | |
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M御釜湾展望台。 | |
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N御釜湾展望台。 | |
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O御釜湾遊歩道はここまで。ここからは自動車の入れる道路になる。 | |
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P地鉈温泉方面入口と湯加減の穴(蒸気が出ている) | |
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P地鉈温泉の温泉を汲み上げている施設と思われる。 | |
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P地鉈温泉:大地を鉈で割ったような渓谷を降りて行くと海岸沿いの岩と岩のあちこちから温泉が湧き出ています。泉質は塩泉で硫化鉄泉、神経痛や胃潰瘍などの内科的疾患し特効があるとされ、温泉は干潮時には80度を超えます。以前は大変険しい危険な道でしたが、明治41年(1908年)に泊浦の築港工事に来島した静岡県江尻の石工3人が自力で道を造り付近を整備しました。この「彰功誌」が西側の壁に刻まれています。潮の干満で湯加減のいい湯壺に身を移しながら、潮騒と風の音を聞き、島の人は「夜潮」といって、月を見ながら治湯を楽しみ疲れを癒やしています。 | |
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Q足付温泉。トイレとシャワー・更衣室を完備。 | |
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Q足を浸けて見たが、以外とぬるかった。入浴時は水着の着用が必要。 | |
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R式根島の村道。 | |
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R神社。 | |
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Rレンタサイクルとレンタルバイクのお店が2件。 | |
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S東京都新島村役場式根島支所。 | S式根島開発総合センター |
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@式根島保育園。 | @式根島小学校。 |
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@式根島小学校。 | A式根島郵便局。 |
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Aレンタサイクル屋さん。 | |
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A南国の雰囲気の廃墟ぽい建物。 | A式根島のレンタカー屋さん。 |
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B式根島唯一?の信号機。 | |
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B野伏港から一番近いレンタサイクル及びお店。 | |
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Cコーガ石アートの交通安全と野伏港。 | |
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