更新日時 2008年10月25日
@JR中央線三鷹駅 | A八丁踏切跡 太宰が三鷹に住んでいた昭和初期には、この付近に通りの名にちなんだ「八丁踏切」という踏切がありました。南北に行き来することが出来ましたが、昭和40年代に三鷹駅が高架化され、現在、踏切はなくなり、歩行者用の地下道に変わっています。 |
A旧三鷹橋 | A三鷹橋にある井戸 |
A旧三鷹橋 昭和32年6月竣工 三鷹橋は昭和32年(1957年)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道のレールを活用していましたが、駅前広場の整備に伴い、平成17年(2005年)3月に旧三鷹橋の親柱、高欄のデザインを活かして架け替えられたものです。 |
A玉川上水は承応2年(1653年)に当時の江戸市中に飲料水を送るために43Kmにわたって開削された水路です。明治初期には物資を輸送するための通船があり、この地区区にも船着き場が有ったとも伝えられていますが、衛生上の理由などから2年間で廃止されたと言われています。 |
B四月なかば、ひるごろの事である。頭を挙げてみると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。・・・ 太宰治「乞食学生」より 1948年(昭和23年)6月太宰治は近くの玉川上水で自らその39年の生涯を終えた。 | |
C玉鹿石 青森県北津軽郡金木町産 | |
D玉川上水脇の道路 | D山本有三記念館 |
D玉川上水のほとりに建つ、旧山本有三邸である「山本有三記念館」は、大正末期の本格的な欧風建築で、晩餐客がくつろぐドローイングルーム(応接間)や、個性的にデザインされた3つのマントルピース(暖炉)があり、壁やドアにも装飾的な細部を持ち、三鷹市の文化財にも指定されています。
記念館の南側には有三記念公園が隣接しており、文学散歩や庭園鑑賞の場としても愛されています。 |
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足跡 | Eジブリ美術館まで300m |
F玉川上水脇の遊歩道 | F玉川上水 ほたる橋から |
G都立井の頭恩賜公園 小鳥の森 | |
Hジブリ美術館は予約制のため入れませんでした。 | |
I太宰治 文学サロン:太宰の青春時代の流行である昭和モダンをデザインの基調とし、太宰作品をイメージして「やすらぎと再生の色」である緑を基本色とした、落ち着いた雰囲気の施設です。 室内には、展示ケースによる作品資料展示のほか、太宰が住んでいた頃の三鷹の写真や銀座のバー「ルパン」でくつろぐ太宰の写真他三鷹太宰マップ等が展示され、また関連の書籍を手にとって読んだり座ってゆっくり皆さんと交流していただくためのカウンターも設置されています。 土・日・祝日には市民ボランティアグループである「みたか観光ガイド協会」会員の皆さんが常駐し、解説とゆかりの場所のご案内をします。 住所:三鷹市下連雀3−16−14 グランジャルダン三鷹1階 電話:0422−26−9150 開館時間:午前10時〜午後5時30分 入場料:無料 休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、翌日と翌々日を休館) 問合せ先 コミュニティ文化室 内線2517 |
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J実篤の記念碑。地球をY字型の台座がささえている。「人間萬歳」と実篤の字がレリーフになっている。その下には「人間萬歳」の戯曲の一節が記されている。右側には実篤の略歴が紹介されているが、汚れてよく読めない。平成5年3月建立。 | K亀井勝一朗の碑・・・ 書かれている文書が長いので省略 |
Lこの世に生きているものは、なんらかの意味において、大陽に向かって手をのばしていないものはないと思います。 有三 生きとし 生けるもの 作者のことば | M禅林寺 太宰治・森鴎外墓所 |
N八幡大神社 | N御神輿が飾られている |
N神殿 | N各町会の御神輿が納められている |
O太宰治は、「いい所がある」と言っては、弟子を連れてここに来ていました。 | O太宰治風・・・ |
OJR東日本三鷹車両センター | O跨線橋 全長90mの鉄骨橋で鉄骨は鉄道レールが使用されています。(今でも鉄骨にレールを作成した年の刻印があります)当時日本最大の直径1mの電気大時計も設置されて話題になりました。 |
P堀合児童公園 廃線跡 | R境界杭 |
R三鷹〜武蔵野競技場前、通称武蔵野競技場線。 1951年(昭和26年)年4月14日に開通。現在の東京都武蔵野市緑町、武蔵野中央公園付近にあった武蔵野競技場の球場への観客輸送を目的に開設された。全区間単線電化で、途中駅は無く、武蔵野競技場線とも呼ばれた。武蔵野競技場は、終戦までの中島飛行機工場の跡地に建設された新球場で、国鉄スワローズの試合などプロ野球の試合が行なわれた。武蔵野競技場線は中島飛行機工場への引込線路盤を転用し開通、野球試合などの競技開催日のみ電車が運転された。しかし、武蔵野競技場での野球試合も、都心から遠いなどの理由で、1951年の1シーズンだけしか行なわれず、それに伴って武蔵野競技場線も休止状態が続き、開通からわずか8年後の1959年(昭和34年)年11月1日付けで正式に廃止になった。 現在、武蔵野競技場や武蔵野競技場前駅があった跡地は武蔵野中央公園として整備され、当時の面影は全く残ってなく中央線から分岐し武蔵野競技場に至る区間は、ほぼ全区間の線路跡が遊歩道として整備されている。 |
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R井戸?でも水道の蛇口が・・・ | R堀合遊歩道 廃線跡 |
S玉川上水を武蔵野競技場線(廃線)の橋が架かっていた跡 | |
玉川上水脇の遊歩道 | 竹藪もある |
欅橋:現在の欅橋は昭和52年7月に建設されたものであります。元々は安政年間(1854年〜1859年)の架橋といわれ、当時はけやきの丸太を架けた橋であったので、その名がつけられたといわれています。 | |
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