廃線探索 西大寺鐵道

更新日時 2010年09月01日

 西大寺鐵道(さいだいじてつどう)は、かつて岡山県岡山市と西大寺市(現在は岡山市に合併され岡山市東区)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。914mmという特殊軌間を用いた鉄軌道の中でも最後に残った路線として知られる。「西鉄」(さいてつ)と略称され、地元民には「けえべん」の愛称で親しまれた。並行バス路線がなかったことからその最終期まで一貫して旅客輸送量が多く、軽便鉄道としては良好な営業成績を保っていたが、1962年、国鉄赤穂線伊部 - 東岡山間の開通により、同線との競合を避けるため廃止された。末期は子会社であった両備バスを合併、登記上は西大寺鉄道が存続会社となったが社名を両備バスに変更してバス中心の会社となり、西大寺鉄道は同社の鉄道部門(両備バス西大寺鉄道線)となっていた。この両備バスは岡山県最大手のバス会社両備ホールディングスとして現在でも営業を続けている(両備バスは同社のバス事業の呼称となった)。
駅一覧
西大寺市駅 ‐ 広谷駅 ‐ 大多羅駅 ‐ 長利駅 ‐ 財田駅(東岡山駅) ‐ 大師駅 ‐ 藤原駅 ‐ 原尾島駅 ‐ 森下駅 ‐ 後楽園駅
 @西大寺バスセンター(旧西大寺市駅)西大寺市駅は「観音駅」という駅名で発足し、大正3年に西大寺鐵道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、「西大寺町駅」と改め、昭和28年西大寺が市に昇格したので、「西大寺市駅」となった。バスターミナルのバス誘導ラインは、西大寺鉄道で使われたレールをひっくり返して埋めている。
@西大寺鐵道当時の本社は、バスの営業所として現在も使用されています。
@旧西大寺鐵道財田駅舎はバス乗務員の休憩所として利用しています。(西大寺バスセンターに移築)
 @キハ7号:けえべんの動力源となったのは、とっくり型煙突の蒸気機関車にはじまり、自動車エンジンを積んだガソリンカーやディーゼルカーなどの気動車でした。キハ7号は昭和11年の登場から閉業まで活躍した、現存する唯一の気動車です。同じ時代に活躍した大型車両のキハ6号よりも丸みを帯びた姿で前後についたデッキにたくさんの人々や荷物を載せて走りました。現在西大寺バスセンターに静態保存しているこのキハ7号には2004年産業考古学会から「推薦産業遺産」に認定されています。周りの池垣が邪魔です(笑)
@キハ7号車内。 @キハ7号運転台。
@川崎車両株式会社 神戸 昭和十一年 @旧西大寺鐵道 ポイント切換機。
A西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡はサイクリングロードに転用されている。
B西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡の国道2号線を渡る道は陸橋が設置されている。
B西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡の国道2号線を渡る道は陸橋が設置されている。
C西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の砂川に架かった鉄橋が西大寺鐵道の中で最も長い砂川鉄橋。
 C現在はコンクリート製の砂川歩道橋に架けかえられていますが、川の水が少ない日には、川底に当時の橋脚跡を見ることができますと言われているが・・・それらしき橋脚の陰が(笑)
D西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。
E西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。
F西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。古川橋梁。
F西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。古川橋梁。
G西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。
H西大寺鐵道の西大寺市駅 ‐ 広谷駅間の廃線跡。
 I広谷駅は松崎駅という駅名で発足し、大正3年に西大寺鐵道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、「広谷駅」となりました。現在は西大寺市駅跡地からこのあたりは、廃線跡がそのままサイクリングロードとして整備されています。岡山市水道局松崎加圧ポンプ場の前辺りに広谷駅がありました。
J西大寺鐵道の広谷駅 ‐ 大多羅駅間の廃線跡。
K西大寺鐵道の広谷駅 ‐ 大多羅駅間の廃線跡。サイクリングロードはここで民家に突き当たり終了する。
L西大寺鐵道の広谷駅 ‐ 大多羅駅間の廃線跡。民家を過ぎたところからまた廃線跡が続く。
M西大寺鐵道の広谷駅 ‐ 大多羅駅間の廃線跡。民家裏の辺りを通っていた様だ。
N西大寺鐵道の広谷駅 ‐ 大多羅駅間の廃線跡。水路に沿って廃線跡が続いていた様だ。
O大多羅駅駅舎跡。現在は聖イエス会使徒教会の建物に転用されている。
P西大寺鐵道の大多羅駅 ‐ 長利駅間の廃線跡。目黒橋を渡る所に橋が架かっていたと思われる。
P西大寺鐵道の大多羅駅 ‐ 長利駅間の廃線跡。目黒橋を渡る所に橋が架かっていたと思われる。
Q西大寺鐵道の大多羅駅 ‐ 長利駅間の廃線跡。
 R長利駅は「岩間駅」という駅名で発足し、大正3年に西大寺鉄道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、長利駅となりました。長利駅跡の長利遊園地。歩道部分が廃線跡。
S西大寺鐵道の長利駅 ‐ 財田駅間の廃線跡。ここから道路が狭くなる。
@西大寺鐵道の長利駅 ‐ 財田駅間の廃線跡。市場歯科あたりから右側民家方向が廃線跡。
A西大寺鐵道の長利駅 ‐ 財田駅間の廃線跡。この道路が廃線廃線跡と思われる。
B西大寺鐵道の長利駅 ‐ 財田駅間の廃線跡。
 C財田駅は「長岡駅」という駅名で発足し、大正3年に西大寺鉄道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、財田駅となりました。JR東岡山駅との連絡駅です。財田駅の駅舎は、西大寺バスセンターに移築され、両備バスの乗務員休憩室になっています。かつては東岡山駅南側に西大寺鐵道長岡(後の財田)駅があり、赤穂線開業までは西大寺方面への乗換駅として機能していた。この駅は1962年(昭和37年)の赤穂線開業に伴う西大寺鐵道の廃止後も線路を撤去しただけで長くそのまま放置されていたが、1980年代に整地の上で駐車場と駐輪場が設けられている。
D旧線の廃線跡?
D西大寺鐵道の財田駅(東岡山駅) ‐ 大師駅間の廃線跡。
E西大寺鐵道の財田駅 ‐ 大師駅間の廃線跡。財田駅からここまで廃線跡は辿る事が出来ない。
F西大寺鐵道の財田駅 ‐ 大師駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用され直線道路が続く。
 G大師駅は「関駅」という駅名で発足し、大正3年に西大寺鉄道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、幡多駅となりました。大正5年駅から3キロほど南へ行った鳥坂山の虚無蔵大師が流行り始め、乗降客が増え駅名を「大師駅」に変更した。大師駅跡は道路の脇に側線の跡が見られる以外は面影は無い。
H西大寺鐵道の大師駅 ‐ 藤原駅間の廃線跡。廃線跡は住宅街に突き当たる。
  I藤原駅は「二本松駅」という駅名で発足し、大正3年に西大寺鉄道は旧国鉄と紛らわしい駅名は全て改称し、 藤原駅となりました。現在は、岡山交通旭東営業所になっています。
I藤原駅跡は細長い駐車場になり路線跡を示しています。
J原尾島駅跡周辺?山陽道と県道402号線が合流する場所。
K西大寺鐵道の原尾島駅 ‐ 森下駅間の廃線跡。山陽道沿いの民家が廃線跡?
 L森下駅跡地は、両備バス岡山営業所になっており、敷地西寄りにある屋根付きの車庫のあたりに駅舎があったようです。
M西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。森下駅を出た後、後楽園駅方向へ右カーブして行く。
M西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。横田内科クリニック脇を通り後楽園駅方向へ。
N西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。
O西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。廃線跡の道路は住宅に突き当たる。
P西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。
Q西大寺鐵道の森下駅 ‐ 後楽園駅間の廃線跡。岡山プラザホテルがある場所が廃線跡。
 R明治45年に西大寺−森下間が開通してからほぼ3年目に、森下−後楽園間が開通した。この後楽園駅が新築落成したのは大正4年11月4日。後楽園駅跡地は夢二郷土美術館になっています。
R後楽園駅跡地は東側に細く伸びる駐車場部分がプラットホーム及び路線の痕跡です。
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