更新日時 2014年09月10日

廃線探索 興浜北線
 興浜北線(こうひんほくせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅で天北線から分岐し、オホーツク海沿岸を南下して枝幸郡枝幸町の北見枝幸駅に至っていた。 1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。改正鉄道敷設法別表第145号に規定する予定線の一部で、本来は興浜南線と結んで興部 - 浜頓別間のオホーツク海沿岸を縦貫する鉄道(興浜線)の一部となる計画であった。1936年に北見枝幸までが開業したが、太平洋戦争末期の1944年には不要不急線として全線が休止、全線路が撤去された(樺太の鉄道用に利用される予定であったが輸送前に終戦を迎えた)。終戦の翌9月には枝幸村から政府への復旧陳情が行われるとすぐに許可が下り、全道から工事作業者を募集して2ヶ月で復活させた。
日本国有鉄道 興浜北線(廃線)
浜頓別駅 - 頓別(仮) - 豊牛駅 - 豊浜(仮) - 斜内駅 - 目梨泊駅 - 山臼(仮) - 問牧駅 - 北見枝幸駅
 @浜頓別駅(はまとんべつえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字浜頓別154にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅(廃駅)である。電報略号はハト。鉄道路線の廃線に伴い1989年(平成元年)5月1日に廃駅となった。天北線廃止時まで運行されていた急行「天北」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。かつては島式ホーム2面3線(駅舎側ホームは片面使用)を有しており、1985年(昭和60年)7月1日に興浜北線が廃止されたのち、1番線の線路が撤去された。尚、1983年(昭和58年)時点では駅舎側(東側)から1、2、3番線で、2、3番線ホームと駅舎は南稚内方の跨線橋で、1番線ホームと駅舎は通路で連絡していた。1番線が興浜北線専用、2番線が天北線上り、3番線が天北線の下りとなっていた。そのほか1番線ホームの未利用の片面部分に旧貨物側線を1線有し、3番線の外側(西側)に5線の側線、及びそれらから分岐した側線があり、うち1線には転車台も備えられていた。職員配置駅で、駅舎は構内の東側に位置していた。鉄筋の駅舎は内部もかなり広く取られた、天北線の中心駅、また観光の拠点らしい建物であった。1983年(昭和58年)時点では待合室にズワイガニの剥製が展示されていた。「わたしの旅スタンプ」が設置されていた。興浜北線は当駅所属の車掌が担当していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名の「頓別」は、アイヌ語の「トウ・ウン・ペツ(沼から出る川)」に由来する。これに「浜」を冠する。当初この地は頓別村であり、駅だけが「浜頓別」を称していた。その後、海側の頓別地区から当駅周辺に行政中心が移って市街ができると、まず地区名が浜頓別と名付けられ、さらに1951年(昭和26年)の町制施行時に、町名も駅名に合わせて浜頓別となった。砂川駅などと同様に駅名が町の名前を変更させた例の一つ。
@浜頓別駅(浜頓別バスターミナル)展示品。
@浜頓別駅(浜頓別バスターミナル)展示の写真。
A興浜北線の浜頓別駅 - 頓別仮乗降場間の廃線跡。車輪のオブジェが設置されている。
B興浜北線の浜頓別駅 - 頓別仮乗降場間の廃線跡。
 C頓別仮乗降場(とんべつかりじょうこうじょう)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字頓別にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の仮乗降場(廃駅)である。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「トウ・ウン・ペツ」(沼から出る川)に由来する。
D興浜北線の頓別仮乗降場 - 豊牛駅間の廃線跡。風力発電の管理道路に転用されている。
E興浜北線の頓別仮乗降場 - 豊牛駅間の廃線跡。風力発電の管理道路に転用されている。
 F豊牛駅(とようしえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字豊寒別にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の駅(廃駅)である。電報略号はヨウ。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、斜内駅と同型の断熱効果に優れた屋根を有するマスプロ設計の小型駅舎となっていた。1983年(昭和58年)時点では屋根の配色は青であった。駅舎内にトイレを有していた。駅舎は構内の北東側に位置し、ホームから少し離れていた。駅名の由来は当地は、豊寒別川(とよかんべつがわ。アイヌ語の「トイ・カム・ペツ」(土をかぶる川)に由来する)と、「プイ・タ・ウシ」(エゾノリュウキンカの根をいつも掘るところ)の中間に所在する。そこで豊寒別の「豊」とプイタウシの「ウシ」を合わせ、酪農地で牛が豊かであることを願い、「豊牛」の駅名が成立した。後に駅名に倣い、駅近辺の字名も「豊牛」となった(駅自体は豊寒別に所在する)。
 G豊浜仮乗降場(とよはまかりじょうこうじょう)は、北海道 (宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の仮乗降場(廃駅)である。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名より。
H興浜北線の豊浜仮乗降場 - 斜内駅間の廃線跡。
 I斜内駅(しゃないえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡浜頓別町字斜内にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の駅(廃駅)である。電報略号はヤナ。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛駅と同型の駅舎となっていた。駅舎は構内の東側に位置しホームに接していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ソー・ナイ」(滝の川)に由来する。
J北見神威岬灯台。
J興浜北線の斜内駅 - 目梨泊駅間の廃線跡。
 K目梨泊駅(めなしどまりえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字目梨泊にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の駅(廃駅)である。電報略号はメト。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。無人駅(簡易委託駅)となっており、有人駅時代の木造駅舎が残っていた。駅舎は構内の北東側に位置しホームから少し離れていた。この駅舎は老朽化が激しかった。駅自体は完全無人であるが、駅前の個人宅で乗車券を販売している簡易委託駅となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「メナシ・トマリ」(東風の入り江)に由来する。周辺の海岸部に、強い東風に襲われた際、船が避難するのに適当な場所があったことによる。駅跡は目梨泊コミュニティーセンターになっている。
L興浜北線の目梨泊駅 - 山臼仮乗降場間の廃線跡。
 M山臼仮乗降場(やまうすかりじょうこうじょう)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の仮乗降場(廃駅)である。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名より。
N興浜北線の山臼仮乗降場 - 問牧駅間の廃線跡。
 O問牧駅(といまきえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字問牧にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の駅(廃駅)である。電報略号はマキ。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛駅、斜内駅と同型のプレハブ駅舎となっていた。駅舎は構内の東側に位置しホームに接していた。内部は事務室部分はカーテンが引かれ物置となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「トゥエ・パケ」(崩れた出岬)に由来する。
P興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。道路に転用されている。
Q興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。道路に転用されている。
R興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。道路に転用されている。
S興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。枝幸跨線橋より撮影。
@興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。道路に転用されている。
A興浜北線の問牧駅 - 北見枝幸駅間の廃線跡。道路に転用されている。
 B北見枝幸駅(きたみえさしえき)は、北海道(宗谷支庁)枝幸郡枝幸町字栄町にあった日本国有鉄道(国鉄)興浜北線の駅(廃駅)である。電報略号はエサ。興浜北線の廃線に伴い1985年(昭和60年)7月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅で、興浜北線の終端駅であった。ホームは線路の東側(北見枝幸方面に向かって左手側)に存在した。また貨物用などの側線を2線有し、そのほか駅舎側本線の延長上から浜頓別方の駅舎側に分岐し、駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置しホーム中央部分に接していた。開業から5年目に改築された白壁の[1]駅舎であった。尚、1981年(昭和56年)6月時点では駅舎正面中央辺りに「興浜北線 終着駅 北見枝幸駅」の看板が建っていた。構内には興浜線・美幸線未成区間の路盤が完成しており、レールの敷設が行われればすぐにでも列車が走行可能な状態であった。駅名の由来は当駅の所在する地名に旧国名の「北見」を冠する。地名は、アイヌ語の「エサシ」(コンブ)に由来する。
B北見枝幸駅前の一級食堂。
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