更新日時 2016年05月26日

廃線探索 深名線
 深名線は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅で函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅で宗谷本線に接続していた。営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから、1995年(平成7年)9月4日に廃止された。
北海道旅客鉄道 深名線(廃線)
深川駅 - 円山駅 - 上多度志駅 - 多度志駅 - 宇摩駅 - 幌成駅 - 下幌成駅 - 鷹泊駅 - 沼牛駅 - 新成生駅 - 幌加内駅 - 上幌加内駅 - 雨煙別駅(臨) - 政和温泉駅(臨) - 政和駅 - 新富駅 - 添牛内駅 - 大曲駅(仮) - 共栄駅 - 朱鞠内駅 - 湖畔駅 - 宇津内駅(仮) - 蕗ノ台駅(臨) - 白樺駅(臨) - 北母子里駅 - 天塩弥生駅 - 西名寄駅 - 名寄駅
 @深川駅(ふかがわえき)は、北海道深川市一条九番にある北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅。函館本線を所属線としており、当駅を起点とする留萌本線を加えた2路線が乗り入れる。臨時特急「旭山動物園号」を除くすべての列車が停車する。駅番号はA24。電報略号はフカ。
 @深川駅構造は単式ホーム1面1線、島式ホーム2面3線で、合計3面4線のホームを持つ。のりばは駅舎側から順に1・3・4・6番線。2番線と5番線はホームをもたない中線で、2番線は主に貨物列車の待避(上下線共用)、5番線は主に留萌本線運用車両の留置で使用される。ホーム間の移動は跨線橋で行なう。通常、当駅で折り返す特急列車は存在しないが、旭川駅方向が不通の場合等に滝川駅方向へ折り返す事が出来るように、1番線から6番線までの各線はそれぞれ滝川方向と旭川方向に設置されているポイント操作で行き来出来る構造になっている。
 @深川駅はかつては6番線の奥にも多数の側線を持ち、深名線の一部発着やイベント列車が使用する7番線まで存在し深名線運用車両の車庫や転車台(ターンテーブル)なども備えた鉄道の要衝であった。深名線の廃止後は規模を縮小し多くの側線や施設などが撤去され、一部は自由通路やジェイ・アール北海道バス深川営業所に転用されている。
A深名線の深川駅 - 円山駅間の廃線跡。築堤の若干の痕跡が残る。
B深名線の深川駅 - 円山駅間の廃線跡。この先廃線跡の痕跡が若干残る。
C深名線の深川駅 - 円山駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 D円山駅(まるやまえき)は、北海道(空知支庁)深川市一已町開進にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はマル。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎は無いがホーム中央部分に待合所を有していた。駅名の由来は当駅の所在地近辺に同名の山が存在する。
E深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
F深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
G深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
H深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。多度志隧道の坑口が残る。
I深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
J深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
K深名線の円山駅 - 上多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 L上多度志駅(かみたどしえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町字上多度志にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はカタ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。かつてはこのホームは島式ホームであり、1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。1983年(昭和58年)時点では使われなくなった駅舎側の1線は交換設備運用廃止後も分岐器が深川方、名寄方の両方向とも維持された形で側線として残っていたが、その後1993年(平成5年)までには撤去された。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が改築されて残っていた。駅舎は構内の南西側に位置しホームから少し離れていた。無人化後に縮小され間口が狭くなっていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。
M深名線の上多度志駅 - 多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
N深名線の上多度志駅 - 多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
O深名線の上多度志駅 - 多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
P深名線の上多度志駅 - 多度志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 Q多度志駅(たどしえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町中央にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はタト。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。そのほか本線の名寄方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の旧貨物ホームへの側線を1線有していた。かつては単式ホーム・島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム南側と対向ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側(西側)が下り線、対向側(東側)が上り線となっていた。また島式ホームの外側1線が側線として残っていた。交換設備運用廃止後は線路は側線を含め1993年(平成5年)までには撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホーム中央部分に接していた。無人化される以前から駅舎内の待合室の一部を仕切って除雪機が格納されていた。有人駅時代には駅員たちにより、駅舎内に漫画本が置かれたり、磨かれた置石が飾られていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「タット・ウシ・ナイ」(シラカバが茂る川)に由来する。ホーム跡が残る。
R深名線の多度志駅 - 宇摩駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
S深名線の多度志駅 - 宇摩駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
@深名線の多度志駅 - 宇摩駅間の廃線跡。小型の橋台が残る。
A深名線の多度志駅 - 宇摩駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 B宇摩駅(うまえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町上宇摩にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はウマ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎は無いが待合所を有していた。ホームは板張りで有効長も短かった。名寄方(東側)にスロープを有し駅施設外に連絡していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、四国・伊予国(愛媛県)宇摩地域(宇摩圏、旧・宇摩郡を中心とした地域。現・四国中央市および新居浜市の一部)からの入植者による宇摩団体(現在の深川市宇摩)という地名に由来する。
C深名線の宇摩駅 - 幌成駅間の廃線跡。この先廃線の痕跡が無くなる。
D深名線の宇摩駅 - 幌成駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 E幌成駅(ほろなりえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町幌成にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はホナ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。幌成駅名の由来は駅開業当初、当地はアイヌ語の「ポロ、ナイ」(大きな沢)という地名であったため、幌内駅とするところであったが、既に幌内線幌内駅が存在したため、「成」の字を当てて「幌成」駅とした。現在の集落名である「幌成」は、駅名に合わせて変更されたものである(駅名から地名が変更された代表例としては砂川市がある)。
 E幌成駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。そのほか本線の深川方から分岐し駅舎南側のホーム切欠き部分の旧貨物ホームへの側線を1線有していた。かつては列車交換可能な交換駅であった。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、車掌車改造の貨車駅舎となっていた。駅舎は構内の東側に位置しホームに接していた。深名線唯一の貨車駅舎であった。塗色は宗谷本線の同型駅と同様であった。改築前の木造駅舎の開口部は木枠の1枚ガラス戸であった。
F深名線の幌成駅 - 下幌成駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 G下幌成駅(しもほろなりえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町下幌成にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はホリ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎は無いがホーム中央部分に待合所を有していた。ホームは板張りで有効長も短かった。名寄方(北側)にスロープを有し駅施設外に連絡していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。
H深名線の下幌成駅 - 鷹泊駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
I深名線の下幌成駅 - 鷹泊駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
J深名線の下幌成駅 - 鷹泊駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
K深名線の下幌成駅 - 鷹泊駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 L鷹泊駅(たかどまりえき)は、北海道(空知支庁)深川市多度志町字鷹泊にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はタマ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。鷹泊駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、昔この近辺で鷹の姿がよく見られたことに由来する。
 L鷹泊駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。そのほか本線の名寄方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の旧貨物ホームへの側線を1線有していた。かつては単式ホーム・島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する列車交換可能な交換駅であり、ここを終着とする深川からの区間列車も運転されていた。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と対向ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側(西側)が下りの1番線、対向側(東側)が上りの2番線となっていた。また島式ホームの外側1線が側線として残っていた。この側線からは名寄方に伸びる行き止まりの短い側線を1線有した。交換設備運用廃止後は線路は側線を含め1993年(平成5年)までには撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホーム中央部分に接していた。昔ながらの古びた木造で、入口の上には「たかどまり」と記載された大きな駅銘板が設置されていた。有人駅時代には待合室に水仙とバラの造花が飾られていた。駅前広場には30m近い大椴松が数本そびえていた。
M深名線の鷹泊駅 - 沼牛駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
N深名線の鷹泊駅 - 沼牛駅間の廃線跡。幌加内隧道の坑口が残る。
O深名線の鷹泊駅 - 沼牛駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
P深名線の鷹泊駅 - 沼牛駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 Q沼牛駅(ぬまうしえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字下幌加内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はヌウ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。沼牛駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名より。地名は、アイヌ語の「ヌマ・ウシ・ホロカ・ナイ」(毛がある幌加内川の支流)に由来する。「毛」とは、この場合水中の水草を指したものらしい。
 Q沼牛駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。そのほか本線の深川方から分岐し駅舎南側への側線を1線有していた。かつては列車交換可能な交換駅であった。1983年(昭和58年)時点では使われなくなった対向ホーム側の1線は交換設備運用廃止後も分岐器が深川方、名寄方の両方向とも維持された形で側線として残っていたが(但しホームは撤去されていた)、その後1993年(平成5年)までには撤去された。ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホーム北側に接していた。古ぼけた木造で、痛みが激しかった。
R深名線の沼牛駅 - 新成生駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 R新成生駅(しんなりうえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字新成生にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はシウ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎はないがホーム南側に待合所を有していた。ホームは木造で有効長も短かった。深川方(南側)にホームに対し90度の角度で設置されていたスロープを有し、駅施設外に連絡していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。1912年(明治45年)に山形県成生村から集団でこの地に入植して集落を形成、その際に故郷の名を採って地区名を新成生と名付けた。道路の直進化工事によりすべての施設が撤去され、全く遺構は残っていない。
@深名線の新成生駅 - 幌加内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡(割堀)が残る。
A深名線の新成生駅 - 幌加内駅間の廃線跡。この先廃線跡の痕跡(築堤)が残る。
 B幌加内駅(ほろかないえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字幌加内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はロカ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム南側と対向側ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。線路西側の駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、対向側ホーム(東側)が上りの2番線となっていた。そのほか1番線の名寄方から駅舎側に分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1本有していた。かつては対向側ホームは島式ホームで、1983年(昭和58年)時点では外側の1線は側線として残っていた。この側線からは深川方に伸びる行き止まりの短い側線を1線有した。その後1993年(平成5年)までには撤去された。職員配置駅で、駅舎は木造平屋建てで構内の西側に位置し1番線ホーム中央部分に接していた。開業時は北母子里駅舎より若干大きい程度であったが、1956年(昭和31年)までに増改築されている。その後も改修されており、外壁は防水ベニヤ張りであった。1983年(昭和58年)時点では駅舎内に売店を有したが、1991年(平成3年)に撤退した。駅前広場には大きな庭石を配した築山と、「歓迎 幌加内町」と記載された塔が設置されていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ホロカ・ナイ」(後に戻る川)に由来する。付近を流れる幌加内川の流路はUの字型をしており、遡って山中に行こうとすればかえって遠回りになることから付けられた。士幌線幌加駅と同じ語源である。
C深名線の幌加内駅 - 上幌加内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 D上幌加内駅(かみほろかないえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字上幌加内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はミロ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎はないがホーム中央部分に小さい待合所を有していた。ホームは板張りであった。簡易委託駅として乗車券の販売が行われていた時期もあった(発行年月日不明だが軟券の常備券が確認されている)。駅名の由来は当駅の所在する地名より。
E深名線の上幌加内駅 - 雨煙別駅(臨)間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
F深名線の上幌加内駅 - 雨煙別駅(臨)間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 G雨煙別駅(うえんべつえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字雨煙別にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はウエ。利用者減少により1990年(平成2年)3月10日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。かつては列車交換可能な交換駅であった。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は積雪による倒壊が原因で解体されていた。1983年(昭和58年)時点では残存しており、構内の東側に位置しホームから少し離れていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ウェンペッ」(wen pet 悪い川)に由来する。何が「悪い」のかは不明とされる。
H深名線の雨煙別駅(臨) - 政和温泉駅(臨)間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
I深名線の雨煙別駅(臨) - 政和温泉駅(臨)間の廃線跡。第3雨竜川橋梁
 I深名線の雨煙別駅(臨) - 政和温泉駅(臨)間の廃線跡。第3雨竜川橋梁:この橋梁は1931年(昭和6年)竣工以来1995年(平成7年)廃線までの64年間、幌加内町の政治・経済・文化の動脈として役割を担った深名線の最難関工事の橋梁です。延長100.97m、中央部には、1930年(昭和5年)に製作された長さ45mのトラス橋が架かり、その前後には1899年(明治32年)にイギリスから輸入された12.9mの桁橋が4組架かっています。橋台・橋脚はコンクリート製で、橋梁の架設工事に際しては谷や急流に阻まれて足場の構築が困難なため、北海道内としては初めてのケーブルエレクション(吊り足場式架設)工法が採用されました。また、この橋梁は工学的にも歴史的にも極めて高い価値を有しているだけでなく、ポンコタン渓谷に静かに佇むその絶景美は、道行く人の心に安らぎを与え、往時を偲ばせてくれます。
I深名線の雨煙別駅(臨) - 政和温泉駅(臨)間の廃線跡。第3雨竜川橋梁
 J政和温泉駅(せいわおんせんえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字政和第一にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。利用者減少により1990年(平成2年)3月10日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎はないがホーム中央部分に待合所を有していた。政和温泉の泉源がいちど枯渇したために、温泉旅館は1981年(昭和56年)5月に休止した後、1986年(昭和61年)に建物を解体して廃業した。駅はその後もしばらく営業した後廃止となった。なお、温泉は場所を変えて町有の観光施設「せいわ温泉ルオント」として1992年(平成4年)に復活している。駅名の由来は当駅の所在地近辺の温泉名より。この地の入植者が鉱泉を発見し、1918年(大正7年)に温泉免許を取得して温泉宿を開いたが、経営が振るわず、冷泉だったため燃料代に窮した事や主人が亡くなったため一旦廃業となった。1960年(昭和35年)になって町が温泉の成分を分析をしたところ有効成分が認められ、また交通面でも下政和仮乗降場が近くにあることから、町内有志が旧温泉宿の後継者と共に1961年(昭和36年)10月に叶ュ和温泉を立ち上げ、町議会にも働きかけて翌1962年(昭和37年)6月に温泉旅館を新築し開業した。またこれに合わせて仮乗降場を温泉旅館の近くへ移転させ、駅名も改めた。
K深名線の政和温泉駅(臨) - 政和駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
L深名線の政和温泉駅(臨) - 政和駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
M深名線の政和温泉駅(臨) - 政和駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 N政和駅(せいわえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字政和第二にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はセワ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。元々当地は添牛内五線と呼ばれていたが、呼称不便なため1927年(昭和2年)に正和(しょうわ)という地名が付けられた。このため駅名も「正和」となるところであったが、近隣線の留萠鉄道に「昭和駅」があり、紛らわしいため政和(せいわ)とした。
 N政和駅構造は駅舎は構内の西側に位置し、開業当初は駅舎前から深川方に設けられた単式ホーム1面1線と副本線1本を有した地上駅であった。その後1947年までに、本線が上下2本に増やされて対向ホーム側が名寄側にずれた相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅となり、駅舎横には切り欠きホーム状の貨物ホームが作られて名寄方から貨物線用側線が分岐して引き込まれ、対向ホーム裏には留置線1本が敷かれた。また、留置線の深川方から駅裏土場前へ営林署専用線が分岐して敷かれた。営林署の専用線は1957年から1964年の間に廃止されている。貨物取扱と交換設備運用の廃止後となった1983年(昭和58年)時点では、乗降設備は単式ホーム1面1線に戻り、使われなくなった対向ホーム側の旧上り本線は副本線に戻っていた(ホームは残存していた)。またその副本線の深川方から対向ホーム外側に、かつての留置線が名寄方向の分岐を切られて行き止まりの短い側線となって残っていた。廃止時点で、副本線と旧対向ホーム、駅裏側側線は撤去され、単式ホーム1面1線と旧貨物ホームへの側線1線だけとなっていた。ホーム前後の線路は分岐の名残で湾曲していた。 無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。事務室部分だけがアルミサッシに変わった小さな木造駅舎で、有人駅時代には待合室に近所の主婦が作ったシャクナゲの造花が飾られていた。
O深名線の政和駅 - 新富駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
P深名線の政和駅 - 新富駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 Q新富駅(しんとみえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字新富にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はシミ。利用者減少により1990年(平成2年)9月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅で、分岐器を持たない棒線駅となっていた。ホームは石組み土盛りの造りで、線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に設置されていた。また、無人駅であったが、ホーム中央部分の出入口附近に待合所機能のみの木造駅舎を有した。駅名の由来は当駅の開設時、この地区の名前は豊富であった。ところが既に宗谷本線に豊富駅があったため、こちらは新をつけた上でさらに短縮して「新富」とした。その後住民から地区名も新富に変更するよう要望があり、1960年(昭和35年)1月1日から地区名も新富となった。
R深名線の新富駅 - 添牛内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
S深名線の新富駅 - 添牛内駅間の深名線の添牛内跨線橋。深名線の跨線橋銘板が残る。
昭和53年11月完成にしては銘板が綺麗だ。
S深名線の新富駅 - 添牛内駅間の廃線跡。添牛内跨線橋より撮影。
 @添牛内駅(そえうしないえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字添牛内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はソエ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ソー・ウシ・ナイ」(滝のある川)に由来する。
 @添牛内駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(名寄方面に向かって右手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。かつては列車交換可能な交換駅であった。1983年(昭和58年)時点では使われなくなった対向ホーム側の1線は交換設備運用廃止後も分岐器が深川方、名寄方の両方向とも維持された形で側線として残っていた(但しホームは撤去されていた)。またその側線の名寄方から外側の深川方に伸びる行き止まりの短い側線を1線有した。そのほか本線の深川方から分岐し駅舎南側への側線を1線有していた。その後線路は側線を含め1993年(平成5年)までには撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の東側に位置しホーム北側に接していた。貨物列車が運行されていた時代は、木材、澱粉、雑穀の搬出が主体であった。名残であった広い構内には夏場はルピナスの花で覆われていたとのことである。
A深名線の添牛内駅 - 大曲駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
B深名線の添牛内駅 - 大曲駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 C大曲仮乗降場(おおまがりかりじょうこうじょう)は、北海道雨竜郡幌加内町字大曲にあった日本国有鉄道(国鉄)深名線の仮乗降場(廃駅)である。利用者の減少により1976年(昭和51年)2月1日に廃止となった。大曲仮乗降場構造は朱鞠内方面に向かって右側に簡易型の単式ホームを持つ1面1線と、ホーム中央横に待合室があった。ホームへの昇降は朱鞠内側にあり、国道整備前は旧国道から畑の畦道を通って利用する形であった。
D深名線の大曲駅(仮) - 共栄駅間の廃線跡。初瀬尾跨線橋より撮影。
E深名線の大曲駅(仮) - 共栄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 F共栄駅(きょうえいえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字共栄にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はキヨ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎はないがホーム中央部分に待合所を有していた。ホームは木造であった。名寄方(北側)にスロープを有し駅施設外に連絡していた。冬季は駅近辺の4戸の住人が交替で除雪を行っていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。
G旧道の朱鞠内隧道。
G旧道の朱鞠内隧道内。
H深名線の共栄駅 - 朱鞠内駅間の廃線跡。第1雨竜隧道。
H深名線の共栄駅 - 朱鞠内駅間の廃線跡。第1雨竜隧道。
I深名線の共栄駅 - 朱鞠内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
J深名線の共栄駅 - 朱鞠内駅間の廃線跡。この先痕跡が残っていない。
 K朱鞠内駅(しゅまりないえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字朱鞠内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はマリ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「シュマリ・ナイ」(狐の川)、或いは「シュマ・リ・ナイ」(石が高い川)など、由来には諸説ある。
 K朱鞠内駅構造は廃止時点で、相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と対向側ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(西側)、対向側ホーム(東側)共に上下線共用となっていた。対向側ホームの外側1線が側線となっており、そのほか駅舎側本線の名寄方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。1983年(昭和58年)時点では構内外側にさらに3線の側線を有し、最も外側の側線からは名寄方に分岐して転車台を有し、その先で更に3線に分岐し車庫に至る行き止まりの側線を有した。その後1993年(平成5年)までには撤去された。職員配置駅で、駅舎は構内の西側に位置しホーム中央部分に接していた。駅舎は1964年(昭和39年)の大火の後に建て替えられた耐火ブロック造の平屋の建物であった。1983年(昭和58年)時点では駅舎内にキクの造花や木の根の大株が飾られていた。また、「わたしの旅スタンプ」が設置されていた。ちなみに焼失した旧駅舎は一部二階建ての木造で、面積は旧駅舎の方が1.5倍程広かった。 また、旧駅舎も開設当初は北母子里駅より若干大きい程度の平屋であったが、1956年(昭和31年)まで(時期不詳)に増改築されている。 名羽線が開業すれば、当駅は名羽線と深名線とをスイッチバックで接続する乗換駅になる予定だった。
L深名線の朱鞠内駅 - 湖畔駅間の廃線跡。
 M湖畔駅(こはんえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字朱鞠内にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はコハ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。仮乗降場に出自を持つ無人駅となっており、駅舎はないがホーム南側の出入口附近に待合所を有していた。待合所の壁には朱鞠内湖のイラスト入りの「歓迎 道立自然公園朱鞠内湖」と記載された看板が掲示されていた。ホームは深川方(南側)にスロープを有し駅施設外に連絡していた。駅名の由来は当駅が朱鞠内湖の最寄駅であることより。但し当駅から湖畔までは約2km(徒歩で約30分)ほど離れていた。
N深名線の湖畔駅 - 宇津内駅間の廃線跡。
@深名線の白樺駅(臨) - 北母子里駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 A北母子里駅(きたもしりえき)は、北海道(空知支庁)雨竜郡幌加内町字母子里にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はキモ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側、旧上り線)に存在した。そのほか深川方から駅舎側に分岐し駅舎東側の旧貨物ホームへの行き止まりの側線を1線有していた。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅で、駅舎側(北側)が下り線、外側(南側)が上り線となっていた。使われなくなった駅舎側の1線(下り線)は、交換設備運用廃止後は撤去されたが、ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置し構内踏切で側線及び旧下り線跡を渡りホーム西側とを結ぶ通路で連絡した。当駅所在地は1978年(昭和53年)2月に氷点下41.2度という戦後の公式日本最低気温を記録したことで有名であり、真冬は氷点下30度以下になることも多かったが、当駅設置の温度計は氷点下30度までしか計測出来ない物であった。その後同年3月に国鉄総裁の高木文雄が当駅を訪れた際にその話を聞き、後日氷点下60度まで計れる寒暖計を特注して当駅と朱鞠内駅に贈呈している。当駅待合室に駅ノートがあり、耐寒体験に訪れた人々の思い出が記されていたとのことである。駅名の由来は当駅の所在する地名に「北」を冠する。地名は、アイヌ語の「モシリ・ウン・ナイ」(島のある川)の前半部分に由来する。当地は北海道大学農学部雨竜演習林のモシリウンナイ(後に母子里)事業区に属し、1928年(昭和3年)に演習林が植民地区画を行って「茂知」植民地と名付けた。その後最初の植民が行われ、その中の若い家族に子供が生まれたことから、当地の看守所[注 1]職員がこれを記念して植民地名を「母子里」と改名し、1930年(昭和5年)の村議会で正式な地区名となった。尚、「北」の付かない「母子里駅」は存在しない。「北」が冠されたのは当駅開業時、根室本線に、読みが同じとなる茂尻駅(もしりえき)が既に存在したため、混同を防ぐためとされている。
B深名線の北母子里駅 - 天塩弥生駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 C天塩弥生駅(てしおやよいえき)は、北海道(上川支庁)名寄市弥生にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はテヤ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。駅名の由来は当駅の所在する地名に旧国名の「天塩」を冠する。旧駅名の初茶志内(はっちゃしない)は、アイヌ語の「ハツクシ・ウシ・ナイ」(葡萄、子桑の多い川)に由来する。
 C天塩弥生駅構造は廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であり、ここを始発・終着とする名寄からの区間列車も運転されていた。そのほか駅舎側の線から駅舎側に分岐し駅舎東側の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後は撤去された。貨物側線は1983年(昭和58年)4月時点では、分岐器が深川方、名寄方の両方向とも維持されていた形で残存していたが、1993年(平成5年)までに撤去された。ホーム前後の線路は分岐器の名残で湾曲していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が改築されて残っていた。駅舎は構内の北側に位置しホーム西側とを結ぶ通路で連絡した。駅舎は無人化後縮小され、待合室部分のみの間口の狭い建物となっていた。
D深名線の天塩弥生駅 - 西名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
E深名線の天塩弥生駅 - 西名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 F西名寄駅(にしなよろえき)は、北海道(上川支庁)名寄市曙にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)深名線の駅(廃駅)である。電報略号はニナ。深名線の廃線に伴い1995年(平成7年)9月4日に廃駅となった。廃止直前は停車する列車が下り(名寄方面)2本、上り(朱鞠内方面)1本と極めて少なかった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(名寄方面に向かって左手側)に存在した。分岐器を持たない棒線駅となっていた。かつては列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は、交換設備運用廃止後は撤去された。そのほか本線から構内南側に分岐する貨物側線を3線有していた。この貨物側線は木材運搬に使用され、1983年(昭和58年)4月時点では、分岐器が深川方、名寄方の両方向とも維持されていた形で2線が残存していたが、1993年(平成5年)までに撤去された。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が改築されて残っていた。駅舎は構内の北側に位置しホーム西側とを結ぶ通路で連絡した。駅舎は無人化後縮小され、待合室部分のみの間口の狭い建物となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地(名寄市)の「西」に位置することから付けられた。
G深名線の西名寄駅 - 名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡は残っていない。
H深名線の西名寄駅 - 名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
I深名線の西名寄駅 - 名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
J深名線の西名寄駅 - 名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
K深名線の西名寄駅 - 名寄駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 L名寄駅(なよろえき)は、北海道名寄市東1条南6丁目にある北海道旅客鉄道(JR北海道)・日本貨物鉄道(JR貨物)宗谷本線の駅。駅番号はW48。名寄市の中心駅であり、普通列車に加え特急「スーパー宗谷」・「サロベツ」や快速「なよろ」が停車する宗谷本線の主要駅である。また、運転士の乗務はこの駅を境に稚内方面が宗谷北線運輸営業所、旭川方面が旭川運転所と担当区域が分かれている。普通列車の運転系統も当駅で同じように分かれるが、1日2往復列車番号を変えて相互に直通する列車もある(うち1往復は旭川〜稚内間全線走破する)。当駅は、1903年(明治36年)9月に開業した。当時は旭川方面から伸びる天塩線(宗谷本線の前身)の終着駅だった。その8年後の1911年(明治44年)11月に路線が恩根内駅まで延伸し、名寄駅は途中駅となった。1919年(大正8年)10月には下川町方面へ向かう名寄線(後の名寄本線)が開業し、同線と宗谷本線の乗換駅となった。また1937年(昭和12年)11月には名雨線が開業した。名雨線は部分開業であったが、5年後の1941年(昭和16年)に深川 - 名寄間が開業し、深名線となった。1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化により、名寄駅はJR北海道・JR貨物に継承された。名寄本線・深名線もJR北海道が継承したが、名寄本線は1989年(平成元年)5月に、深名線は1995年(平成7年)9月に廃止され、名寄駅は開業時と同様に宗谷本線のみの駅となった。
 L名寄駅構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅。駅舎(改札口)は西側1箇所にあり、日本最北のLED発車標導入駅である。(かつては、駅自動放送も最北端であったが、2012年2月より稚内駅に駅自動放送が導入されたため現在は最北端ではない)ホーム間の移動は跨線橋を使う。留置線が敷設され、夜間滞泊の運用もあり、うち1本は音威子府駅発着で、当駅まで回送して滞泊している。終日社員配置駅。駅構内にはみどりの窓口(営業時間:7時40分-20時50分)、名寄駅旅行センター(営業時間:9時30分-17時30分、日祝休み)、自動券売機、キヨスクがある。1990年代まで構内にきょくてつストア(物資部)という名称の小型のスーパーマーケットがあった。現在は駐輪場となっている。
 L以前は駅舎脇直結の島式ホームがあり2面4線であったが、0番のりばが廃止された後、単式ホームになった(0番のりば廃止後は、深名線廃止まで宗谷本線と共用で3番のりばを使用していた)。1 - 3番のりばともに折り返しが可能。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『深川市・幌加内町・名寄市』を掲載」