更新日時 2016年01月10日

廃線探索 北陸本線旧線(敦賀−今庄)
 北陸本線旧線:敦賀と今庄の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜628m)は、古くから北陸道の隘路であった。北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀〜今庄間(1896年開通)は、木ノ芽峠を避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅(すいづえき)を経由する山中峠ルートを採っていた。だがこの区間は、海岸の山麓を縫いながら4カ所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。眺望こそ優れた区間であったが、速度や輸送力、列車本数(急勾配の単線区間であるゆえ、列車本数に限りがあった)の面で、重要幹線である北陸本線にとってのネックとなっていた。 勾配の厳しさのみならず、地盤の脆弱さによる崖崩れ、冬期には雪国特有の深刻な雪害にも悩まされていた。1962年には全長13,870mの北陸トンネルが開通し、敦賀 - 今庄間が新線に切り替えられ、杉津経由の旧線は無事故を記録したまま廃止された。
廃止区間 敦賀 - 今庄間(1962年廃止、俗称:杉津線もしくは山中線)
敦賀駅 (0.0km) - 深山信号場 (2.3km) - 新保駅 (5.9km) - 葉原信号場 (9.3km) - 杉津駅 (12.9km) - 山中信号場 (17.8km) - 大桐駅 (21.1km) - 今庄駅 (26.4km)
@北陸本線の旧線はこの辺から分岐していた。
@北陸本線旧線分岐部に石碑がある。 A蓮如の道。北陸道。北国街道。
A北陸本線と旧線が分岐後、旧線は県道207号線方向へ。
B北陸本線旧線の跡は県道207号線に転用されている。
C北陸本線と北陸本線旧線はこの辺は平行していた。
 D南今庄駅(みなみいまじょうえき)は、福井県南条郡南越前町南今庄にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線の駅である。駅構造は2面2線の相対式ホームを持つ山の斜面を利して造られた高架駅。無人駅で、駅舎はなくホームと待合所がある。自動券売機は設置されていない。出入口は下りホーム敦賀寄りにあり、互いのホームは構内踏切で結ばれている。
 D北陸本線近代化案により敦賀 - 今庄間を北陸トンネル掘削により短絡することになったが路線変更のためかつての杉津経由路線の沿線住民との折衝は慎重に行われた。新保駅、杉津駅は代替駅を造ることが地形的に不可能であったが大桐駅の代替駅としては旧駅より2km今庄寄りになるものの北陸トンネルの出口に設定することになり新線開通に合わせ開業した。ただし、代替バスは今庄 - 大桐間である。
北陸本線旧線1947年11月4日撮影。今庄駅−南今庄駅間。(南今庄駅は新線時の駅)
E北陸本線と旧線はここで別れて行く。 E鹿蒜川に架かる三郎橋。
F下新道。 F上新道。
 F北陸道の追分け上新道集落:奈良時代都からの越の国に入る旅人は必ずこの上新道集落を通った。松原駅(敦賀)から陸路や海路で五幡や杉津を通り、山中峠(389m)を越え、この地を通り鹿蒜駅(新道から南今庄付近)に至った。平安時代の天長7年(830年)越前国百姓上毛野陸奥公?山によって木の芽峠越えの道が切開かれ、その後はこの道が北陸道の主道となった。「新道」の地名はこれに由来している。また、この集落は二つの峠越えの追分口(分岐点)でもある。この前の道路は明治29年(1896年)開通した北陸本線の跡地を県道として整備したもので、古代からの北陸道は集落内を通っている。
G北陸自動車道の下を潜る。
 H大桐駅跡:明治41年3月1日北陸線の難所といわれ、中山トンネルを頂点とした25‰の勾配を有し、列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号場が開設された。その後地元の要望に応え同年6月1日停車場に昇格し、旅客、貨物の取扱営業を開始した。当時、旅客7本、貨物6本、計13往復の列車が運行された。昭和37年6月9日北陸本線複線電化の近代化により新線開業と共に廃止となる。その間54年の長きに渡り、生活物資の輸送等、住民のシンボルとして大きい役割を果たした。
H大桐駅跡。
I北陸本線旧線跡。大桐 万葉の道べ。
J北陸本線旧線跡。大桐。廃線跡のカーブが良いですね。
K北陸本線旧線跡のスノーシェルド。
L山中信号場。待避線跡地。
 L当時の北陸本線であった敦賀−今庄間は海抜8mの敦賀から南条山地の山中峠の下をくぐり、海抜265mの山中信号所まで前後14qにわたって25‰の上り勾配が連続し、しかも曲折が激しかった。山中信号所からは、これまた25‰の急勾配で大桐駅まで一気に駆け下りるという、現在の鉄道設計では考えられない過酷な線路であった。また、列車の停車や通過列車の待避は、急勾配の線路上では不可能で水平な折り返し線や待避路線を使わないと停車や発車はできなかった。このため、敦賀−今庄間には敦賀市の新保、葉原ならびに南越前町の山中に、列車の折り返し線と待避線を併せ持った施設としてスイッチバックが設けられた。この方式は単線列車往来の一つの待避方法として初期の鉄道敷設時代に考えられたシステムである。図は山中信号場のスイッチバックの状況図。
M山中トンネルの左側のトンネルはスイッチバックの有効長延伸の為に掘られたトンネル。
今度は、雪が無いときに探索してみたい。
M山中トンネル(今庄側)
M山中トンネル内。待避口。
N山中トンネル敦賀側。
N伊良谷隧道(今庄側)トンネル内がカーブしているため、信号付き。
O伊良谷隧道(敦賀側)待ち時間は3分。隧道には金文字の隧道名が掲げられている。
O芦屋隧道(今庄側)
P芦屋隧道(敦賀側)
P芦屋隧道と曲谷隧道間の砂防ダム及び敦賀湾の景色(見えません 笑)
P曲谷隧道(今庄側)
Q曲谷隧道(敦賀側)
Q第二観音寺隧道(今庄側)
R第二観音寺隧道(敦賀側)
R第一観音寺隧道(今庄側)
S第一観音寺隧道(敦賀側)トンネル内から敦賀側の景色を撮るのを忘れた。
S北陸本線旧線の廃線跡。 @北陸本線旧線の廃線跡は高速道路の反対側へ。
@北陸本線旧線の廃線跡は高速道路の反対側へ渡り、再び高速道路沿いに進み隧道へ。
A曽路地谷隧道(今庄側)
B曽路地谷隧道(敦賀側)
B鮒ヶ谷隧道(今庄側)
C鮒ヶ谷隧道(敦賀側)
D北陸本線旧線の廃線跡。
E葉原隧道(今庄側)
F葉原隧道(敦賀側)雪が凄くてピントが合わない(笑)
G北陸本線旧線の廃線跡。
H北陸本線旧線の廃線跡。
Iここから国道476号線へ。 I廃線跡は国道476号線に転用されている。
J北陸本線旧線の廃線跡は国道476号線に転用されている。
K北陸自動車道を潜り反対側へ。
L北陸トンネルの樫曲斜坑が残っている。 M廃線跡は左の旧道?
N国道476号線から右へ真っ直ぐ行ったところに北陸本線旧線の隧道が残っている。
N隧道の銘板が無いため、隧道名は不明(今庄側)
O敦賀側の隧道出口。照明が付いているが観光用?(笑)
O北陸本線旧線は国道476号線に転用され北陸道と交差している。
P北陸本線旧線は国道476号線に転用され北陸道と交差している。
Q北陸本線旧線は国道476号線に転用され北陸道と交差している。
R北陸本線旧線は国道476号線に転用され北陸道と交差している。
R北陸本線旧線は国道476号線に転用され北陸道と交差している。
S北陸隧道(北陸トンネル)碑。
S北陸本線旧線はここで北陸トンネルを抜けてきた北陸本線と合流する。
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