廃線探索 東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅−長浜駅

更新日時 2011年06月26日

 東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅−長浜駅:東海道本線の延伸の歴史は、最初は新橋駅 - 横浜駅間と、神戸駅 - 京都駅間という都市文化の象徴であったが、その後、関東と関西を結ぶ幹線として計画されるようになった。なおその際、すでに長浜駅 - 関ヶ原駅間に、建設資材の輸送などを目的として鉄道が開業しており、既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、東海道本線の名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設となった。1883年(明治16年)5月1日:関ヶ原駅 - 長浜駅間が開業。この区間は伊吹山が途中にあり現在のルートとは異なる。関ヶ原駅・春照駅が開業。長浜駅で官設鉄道金ヶ崎駅方面に接続。1889年(明治22年)7月1日関ヶ原駅 - 深谷駅 - 馬場駅(現・膳所駅)間の開通時に、長岡駅(現・近江長岡駅)開業。1891年(明治24年) 1月12日:深谷駅 - 長浜駅間が貨物支線として運行再開。本線との分岐点に(貨)深谷駅が開業。1899年(明治32年)10月15日関ヶ原駅との間に、現在の柏原駅廻りのルートである勾配緩和線が開業。深谷駅廻りの旧線は休止(同年12月28日廃止)。
1899年廃止:関ヶ原駅 (0.00km) - (貨)深谷駅 (7.34km) - 春照駅 (10.60km) - 上阪駅 - 長浜駅 (23.03km)
(貨)深谷駅 (0.00km) - 近江長岡駅 (2.88km)
東海道線(官設鉄道)深谷駅−長岡駅(現・近江長岡)リンク
 @関ヶ原駅(せきがはらえき)は、岐阜県不破郡関ケ原町関ヶ原にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。通称「垂井線」が分岐する。滋賀県境に位置する。1883年(明治16年)5月1日 - 官設鉄道の関ヶ原 - 長浜間開業時に設置。一般駅当時は、春照駅経由で長浜駅と連絡していた。1889年(明治22年)7月1日 - 分岐点(後の深谷) - 長岡 - 米原 - 馬場間延長線開業。分岐点 - 長浜間休止。1891年(明治24年)1月12日 - 長岡・長浜への分岐点に深谷駅(貨物駅)開業。深谷 - 長浜間が貨物線として運行再開。1899年(明治32年)10月15日 - 関ヶ原 - (柏原) - 長岡間の勾配緩和新線(現在線)が開業。1899年(明治32年)12月28日 - 関ヶ原 - 深谷 - 長岡および深谷 - 長浜間廃線。
 @関ヶ原駅構造は2面4線の島式ホームを有する地上駅である。駅舎は構内南側にあり、2つのホームとは跨線橋で連絡している。東海交通事業の職員が業務を担当する業務委託駅で、大垣駅が当駅を管理している。みどりの窓口、自動改札機が設置されている。改札機は静岡地区の小規模駅で導入されている簡易型のもの。当駅から岐阜方面の利用に限り、TOICAおよび相互利用先ICカードの利用ができる。東海道本線の南荒尾信号場 - 垂井 - 関ヶ原間は、一見普通の複線に見えるが、上り本線と「垂井線」と呼ばれる別線であり、下り本線は新垂井駅(廃止)経由の迂回線である。「垂井線」南荒尾信号場 - 垂井間は下り専用で、垂井 - 関ヶ原間は上下双方向に運転可能な単線となっており、下り普通列車(快速含む)はその垂井線を走行する。垂井線を走行するのは、通常は普通列車だけであることから、垂井線の軌道は本線に比べて簡易な造りとなっており、最高運転速度も低い(85km/h)。また、当駅で折り返す列車は上り本線に入線できないため、いったん垂井線を東方面に向かい垂井駅から上り本線に入る。そのため垂井 - 関ヶ原間は複線を逆走しているように見える。これ以西、国道21号と併走する区間(関ケ原町今須)に県境があり、ここまで岐阜県であるが(夏場以外は車窓からもカントリーサインが見える)、ここと当駅との間にトンネルを含めた峠越えがある。ここから米原駅までは東海道本線(美濃赤坂線を除く)で最も本数が少ない区間であり、当駅を含む大垣 - 米原間の日中における普通列車は毎時2本程度しか走っていない。
 A東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。この辺は関ヶ原駅から割り堀に成っていたと思われる。
 A東首塚(松平忠吉、井伊直政陣跡)慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島、藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の四男、松平忠吉後の彦根城主、井伊直政が約六千の兵で陣を構えた。午前8時頃、軍監、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると各められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。
 A東首塚:この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実検された将士の首が、ここに眠っています。文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和17年には、徳風会によって、名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。首洗いの古井戸:合戦で討ち取られた西軍の将士の首は、家康によって首実検され、その後塚を作って懇ろに葬られました。首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだったのです。
B東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。この辺からこの道路が廃線跡と思われる。
 C田中吉政陣跡:田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が二・三百メートルほど引き下がる。そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後6日目のことでした。
C東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。
 C徳川家康最後の陣:戦がたけなわになると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1qのこの地点に進出させました。ここで家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦いが終わると、部下の取ってきた首を実検しています。周囲の土塁や中央の高台は天保12年(1841年)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。
D東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。国道365号線へ合流。
E東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。旧工部省 鉄道局の境界杭が残る。
 F関ヶ原古戦場決戦地:西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
G東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。
H東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。旧内務省 鉄道庁の境界杭
I東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。
J東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。
K東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。
K東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。当時のまんぽ(カルバート)が残る。
L東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅 - (貨)深谷駅間の廃線跡。藤古川橋。
 M東海道線(官設鉄道)深谷駅跡。1883年(明治16年)の開業当初、東海道線は関ヶ原から長浜に向かっていたが、その線上にあった駅である。1889年(明治22年)、同線の途中(当駅のあった位置)から分岐して、長岡(現在の近江長岡)から米原を経由して馬場(現在の膳所)に至る延長線が開業した。その際、分岐点〜長浜間は休止となったが、1891年(明治24年)に同区間が貨物線として営業を再開した際に、長岡へ向かう本線との分岐点に新設された貨物駅である。しかし、関ヶ原駅〜深谷駅間は25‰の急勾配が連続するうえ、冬季の積雪も多い難所であったため、1899年(明治32年)に現在の柏原経由の勾配緩和新線が建設されて、本線はそちらに変更された。それにともなって、関ヶ原〜深谷〜長岡間、深谷〜長浜間の旧線は廃止されることとなり、当駅もそれと運命をともにしたのである。
M東海道線(官設鉄道)深谷駅跡の下に当時のまんぽ(カルバート)が残る。
 N東海道線(官設鉄道)(貨)深谷駅 - 春照駅間の廃線跡。住友大阪セメント伊吹山工場専用線をクロスオーバーする。
 O春照駅(すいじょうえき)は、かつて滋賀県(現在の米原市)の東海道本線旧線に設けられていた日本の国有鉄道(鉄道作業局)の駅(廃駅)である。東海道線は当初、関ヶ原駅から深谷地区を通過し、長浜駅に至って琵琶湖海運に接続する形で敷設された。その際、関ヶ原 - 長浜間に設けられた唯一の駅が、当駅であった。開業時は村民が繰り出し、旗を揚げて祝ったという。その後、湖の南を通る鉄道が敷設されると、東海道線は米原駅を経由するように切り替えられたため、当駅は廃止になった。1883年(明治16年)5月1日 : 関ヶ原 - 長浜間開業と同時に新設。1889年(明治22年)7月1日 : 当駅廃止。分岐点(後の深谷駅) - 長岡 - 米原 - 馬場間延長線開業にともない分岐点 - 長浜間休止。1891年(明治24年)1月12日 : 深谷 - 長浜間貨物線として運行再開。関ヶ原 - 当駅跡間に深谷駅開業。1899年(明治32年)12月28日 : 関ヶ原 - 深谷 - 長岡、深谷 - 長浜間廃線。
P東海道線(官設鉄道)春照駅 - 上阪駅間の廃線跡。
Q米原市と長浜市の境にい有る分水工?
 Q東海道線(官設鉄道)春照駅 - 上阪駅間の廃線跡。当時はここは隧道だった。この石積みは隧道のポータルの石積みを転用した物。
 R東海道線(官設鉄道)春照駅 - 上阪駅間の廃線跡下に当時のまんぽ(カルバート)が残る。
S東海道線(官設鉄道)春照駅 - 上阪駅間の廃線跡。国道365号線から県道37号線へ。
@東海道線(官設鉄道)春照駅 - 上阪駅間の廃線跡。県道37号線から旧道へ。
 A上阪駅(こうざかえき)は、かつて滋賀県(現在の米原市)の東海道本線旧線に設けられていた駅(廃駅)である。長浜駅から大垣駅・武豊駅に至る現在の東海道線が建設されたとき、1885年の9ヶ月間だけ設けられていた鉄道駅である。営業期間が極端に短いことから、「幻の駅」としてよく取り上げられる。 廃線後は一時、馬車路線として機能していた。そのなごりで沿線には馬車をあしらった銘菓・馬車せんべい、饅頭などを販売する店も現存している。 駅跡はすでに道路の一部となっており、現存しない。1883年(明治16年)5月1日 - 関ヶ原〜長浜間開業。1885年(明治18年)3月16日 - 春照駅〜長浜駅間に当駅開業。1885年12月10日 - 当駅廃止。1889年(明治22年)7月1日 - 分岐点(後の深谷駅)〜長岡〜米原〜馬場間延長線開業にともない分岐点〜長浜間休止。1891年(明治24年)1月12日 - 深谷〜長浜間が貨物線として運行再開。関ヶ原〜長浜間に深谷駅開業。当駅は復活せず。1899年(明治32年)12月28日 - 関ヶ原〜深谷〜長岡、深谷〜長浜間廃線。
B東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。再び県道37号線へ。
C東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。長浜署辺りから県道37号線から旧道方面へ。
D東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。
D石碑がよく読めないが、八幡道(この辺の地域が八幡中山町)長浜農学校と書かれている様だ。
E東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。
F東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。廃線跡は民家に突き当たる。
G東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。このお墓は迂回していたようだ。
 H東海道線(官設鉄道)上阪駅 - 長浜駅間の廃線跡。列見踏み切り付近で現役線と合流していたと思われる。
 I長浜駅(ながはまえき)は、滋賀県長浜市北船町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線の駅である。長浜市の代表駅である。JR西日本京都支社に所属する。北陸本線に属するが、1991年9月の田村駅 - 当駅間の直流化、さらには2006年10月21日の敦賀駅までの直流化により停車する電車の多くが琵琶湖線電車として京都・大阪方面に直通している。現在の駅舎は2006年の敦賀駅までの直流化に合わせて完成した橋上駅舎である。初代駅舎は1903年まで使用され、現在は長浜鉄道スクエアの施設として保存されている。直営駅(米原駅の被管理駅)で、ICOCA及び相互利用対象ICカードが利用できる。長浜駅構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、島式ホームの北側・琵琶湖側を切り欠いた切欠きホーム1線、合計2面4線のホームを有する地上駅で、橋上駅舎を備える。市街地側の単式ホームが1番線、島式ホームが2・4番線、前述の切欠ホーム(4番北側)が3番線となっており、1番線が上り本線・2番線が下り本線となっている。特急・急行は全て1・2番のりばを通る。
 I明治初頭、日本の新旧首都である東京と京都を結ぶ鉄道路線を敷設するにあたり、新旧首都を結ぶ路線および、この区間内で太平洋と日本海が最も接近する名古屋と敦賀を結ぶルートが優先的に計画された。なお、ルートの詳細については京都と名古屋の間は山間を縫う中山道ルートに決められたが、そのさいに滋賀県内では琵琶湖の水運を代替として、当面の建設資金を圧縮する指針が立てられた。そのため、湖に面した港町に水運と鉄道の接続駅を設けることになり、京都・大阪方面で1880年(明治13年)に大津駅(初代)が開業した後、岐阜・名古屋方面と敦賀方面の分岐点として、開設が決められたのが長浜駅であった。そして、長浜を始点として、まずは岐阜へ向かう路線が着工された。一方、それと並行して険しい山脈を控えて物流の支障となっていた若狭地方と京都を短絡する鉄道も計画された。それは東西幹線と同じように、この琵琶湖水運を活用する形で当地を暫定的な始点として、敦賀を目指す形で着工された。そしてまず後者の路線が先に開業し、これが当駅の創始となった。京都側へは連絡船(太湖汽船)が運行されていた。当時の駅舎は現存しており、日本最古の鉄道駅舎として1958年に鉄道記念物に指定され「旧長浜駅舎鉄道資料館」として公開されている。後に、岐阜方面へ向かう路線も開業して当駅は鉄道の結束点となり、1889年(明治22年)4月16日からのおよそ3ヶ月間は、岐阜以東を東海道経由にルートを変更して新橋駅 - 長浜駅間・大津駅 - 神戸駅間が完成した東西幹線(後の東海道本線)の中継を担う存在となった。しかし同年7月1日、岐阜側と敦賀側の鉄道分岐点として米原駅が建設されたほか、関ヶ原駅から米原駅を経て馬場(後の膳所駅)に至る湖東線が開業したことから、当駅は陸運と水運の接続点としての役目を終え、若狭や北陸へ向かう路線(後の北陸本線)の中間駅となった。
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