更新日時 2016年01月06日

廃線探索 山梨交通電車線
 山梨交通電車線(やまなしこうつうでんしゃせん)は、山梨県甲府市の甲府駅前駅から同県南巨摩郡増穂町の甲斐青柳駅までを結んでいた山梨交通の鉄道路線である。地元では親しみを込めて「ボロ電」とも呼ばれていた。甲府駅前-荒川橋間は併用軌道となっていた。1953年以前は市内のルートが一部異なっていたため、路線距離は20.3km、駅数は30駅であった。また路線名は当初の路線計画の名残で、甲府駅前-警察署前間が「市内線」、警察署前-相生町間が「錦町線」、相生町より先が「西部線」と呼ばれていたが、運行系統は1本の路線で書類上だけの区別であった。国鉄甲府駅の駅前広場にあった甲府駅前駅から併用軌道で市内中心部を抜けた後、市街地南西端の荒川橋で荒川を越えて専用軌道に入り、そこから峡西地域の平坦部を逆L字形に走り抜けて増穂町の中心部にある甲斐青柳駅に至っていた郊外型路面電車であった。全線20.2kmを所要時間55分程で走り、30分間隔で運行した。
駅一覧
甲府駅前 - 警察署前 - 相生町 - 泉町 - 第二高校前 - 寿町 - 荒川橋 - 上石田 - 貢川 - 徳行 - 榎 - 玉幡 - 農林高校前 - 今諏訪 - 西野 - 在家塚 - 甲斐飯野 - 倉庫町 - 桃園 - 巨摩高校前 - 小笠原 - 小笠原下町 - 甲斐大井 - 古市場 - 荊沢 - 長沢新町 - 長沢 - 甲斐青柳
 @甲斐青柳駅跡。現在はローソンの駐車場になっている。専用軌道の跡地である「廃軌道」が増穂町の町役場へ通じる道にぶつかり、唐突に行き止まりになった先が駅跡である。かつては駅舎が残り、山梨交通の乗合自動車の転回場が設けられていたが、現在では駅舎・転回場ともに撤去され、手前側がコンビニ、奥が町民会館となって街並みの一部と化し、駅のにおいはまったくない。
@甲斐青柳駅跡。
A長沢駅 - 甲斐青柳駅間の廃線跡。
 B旧長沢駅跡。左側の広い部分が駅跡。地元のおばさんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上にあったが、附近には駅跡に酷似したくぼみがいくつもあり、分かりづらいものとなっている。また長沢の市街も西側に広がり、郊外との境目であった当駅周辺の景観も一変している。
C長沢駅 - 甲斐青柳駅間の廃線跡。
D長沢駅 - 甲斐青柳駅間の廃線跡。
E昔は利根川は天井川で有ったため、川の下を潜るトンネルが有った。現在は埋め戻されている。
E利根川は昔は天井川で有ったが、整備が進み現在はこの様な状況である。
 Eモハ7形:利根川公園に保存されている旧モハ7形の江ノ島電鉄8011948年(昭和23年)に汽車製造会社東京支店で製造された全長13.8mの半鋼製2軸ボギー車。7・8の2両が製造された。側面両端に乗務員用扉を設け、その隣に片開き扉があり、扉間には12枚の上段固定下段上昇窓を配していた。その他の構造はモハ1形に準じる。
 E廃止後は上田丸子電鉄(現・上田交通)に譲渡されモハ2340形となったのち、同社の丸子線が廃止された1971年(昭和46年)に江ノ島鎌倉観光(現・江ノ島電鉄)に譲渡され、同社の800形となった。「チョコ電」として江ノ島・鎌倉の人々に親しまれながらも老朽化に伴い1986年4月に廃車された。801は同年6月故郷に里帰り、3扉化された江ノ電での晩年の姿のまま2006年現在も南巨摩郡増穂町の利根川公園で保存されている。
Eモハ7形の車内。 Eモハ7形の運転台。
F昔は利根川は天井川で有ったため、川の下を潜るトンネルが有った。現在は埋め戻されている。
 F旧長沢新町駅跡。草原の部分の電柱から手前側に駅があった。駅隣に住んでいるおばさんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、上行寺の附近にあった。駅跡にはくぼみもなく、駅の痕跡は何もない。駅の南にあった利根川をくぐる隧道は、後に利根川が改修されて天井川から通常の川となったため取り壊され、現在は見ることが出来ない。なお、利根川改修の際に北側の河川敷に「利根川公園」が開設され、江ノ島電鉄で廃車された後に里帰りした当線のモハ8が静態保存されている。
F薬王山。上行寺。 G荊沢駅 - 長沢新町駅間の廃線跡。
G荊沢駅 - 長沢新町駅間の廃線跡。
G荊沢駅 - 長沢新町駅間の廃線跡。長沢川。長沢橋。
H荊沢駅 - 長沢新町駅間の廃線跡。坪川を渡る。
I荊沢駅 - 長沢新町駅間の廃線跡。
 J旧荊沢駅跡周辺。地元のお婆さんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、街道の「荊沢」交差点から東西に走る道路との交差部、高原病院のある附近にあった。附近には駅の跡を示すくぼみもなく、駅の痕跡を見出すことは難しい。
K古市場駅 - 荊沢駅間廃線跡。
 L駐車場部分が旧古市場駅跡。地元のおじさんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、月星商事山梨営業所の前周辺が駅のあった場所である。駅のあった附近はくぼみとなっているが、駐車場になっていて分かりづらい。
M甲斐大井駅 - 古市場駅間の廃線跡。
 Nこの辺が旧甲斐大井駅跡の様な気がするが確証が無い。小笠原集落を離れ南に下っていったところ、櫛形町と甲西町(双方ともに現在南アルプス市)の境目附近にあった駅で、1面1線の棒線駅であった。1930年の開業時、貢川駅からここまでが開業区間であった。
 O旧小笠原下町駅跡周辺。右写真の正面部分が駅跡らしい。地元のおじさんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、小笠原駅から続いて来た歩道が突然途切れる場所が駅の跡地である。小笠原駅と同じく、峡西病院の南東部に当たる場所という目標物があるため、場所の特定はさほど難しくない。
 O山寺八幡神社。山寺八幡神社のシラカシ林:昭和54年2月15日指定:神社南西部を中心にして、シラカシの群生がみられる。目通り幹囲3.4m、樹高23mを筆頭に35本が群生している。暖地性植物カシ林は、盆地周辺が北限で植物分類地理学上貴重である。
 P旧小笠原駅跡周辺。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、役場のすぐそばにあったため、場所の特定はさほど難しくない。現在櫛形町の町役場が合併によって変更された南アルプス市の市役所の南側が駅のあった場所である。
Q巨摩高校前駅 - 小笠原駅間の廃線跡。道路のアンダーパスは昔から有ったのか?
 Q巨摩高校前駅 - 小笠原駅間の廃線跡。滝沢川を渡る桜橋。滝沢川橋梁はそのまま再利用されることはなく、新たに道路橋として架け替えられ、現在は「桜橋」という名になっている。
 R専用軌道の跡地である「廃軌道」上、県立巨摩高校の南側を通る東西の道と交わる南側、明穂変電所の近くにあった。桃園駅と同じように道がやや変形しているほか、駅の北西に建っていた鉄塔が現在も使用されているなど、細かいところで当時の面影が残っている。
S桃園駅 - 巨摩高校前駅間の廃線跡。
 @旧桃園駅跡。桃園神社。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、桃園神社へ至る東西の道と交わる手前に駅が存在した。ここは現在も道がやや変形しており、今諏訪駅以降の駅では比較的分かりやすい方である。
 A旧倉庫町駅跡周辺か?巨摩共立病院東交差点。東へ行くと国道52号線倉庫町交差点。専用軌道の跡地である「廃軌道」上、「櫛形町桃園」交差点周辺に駅が存在した。しかしやはり明確な痕跡はなく分かりづらい。周辺は住宅地化し、かつての町はずれじみた雰囲気はなくなっている。
B甲斐飯野駅 - 倉庫町駅間の廃線跡。
C甲斐飯野駅 - 倉庫町駅間の廃線跡。
 D旧甲斐飯野駅跡周辺。駐車場の部分が駅跡らしい。地元のおじさんの証言。専用軌道の跡地である「廃軌道」上に跡が存在する。駅の直前、「在家塚」交差点で4車線の道路が終わり、また前のように2車線の道に戻ってすぐのところ、駐在所がある辺りが駅であった。
E在家塚駅 - 甲斐飯野駅間の廃線跡。
 F旧在家塚駅跡。駅は専用軌道の跡地である「廃軌道」上、中部横断自動車道を越えた少し先にあった。しかし西野駅同様、「廃軌道」自体が4車線の大通りになってしまったため、痕跡は一切残されていない。
 G西野駅(にしのえき)は、山梨県南アルプス市西野(当時は中巨摩郡白根町西野)に存在した山梨交通電車線の駅。今諏訪駅から西に進んだ西野集落の中央部に位置していた。今諏訪駅に続いて相対式2面2線の駅で交換可能駅であったが、廃止直前には交換設備は使用停止となっていた。駅のすぐ近くには農協があった。
 G西野駅は専用軌道の跡地である「廃軌道」上、西野交差点の手前の農協の倉庫がある前にあった。この農協自体は上述の通り当時からあるもののため、比較的場所そのものは分かりやすい。ただし「廃軌道」自体が完全に整備されて4車線の大通りになってしまったため、甲府市・甲斐市側と違って駅の部分だけがくぼんでいるなどの痕跡は一切残されていない。
H旧今諏訪駅 - 旧西野駅間の廃線跡。
Iおつき穴古墳:おつき穴古墳は、甲斐国にもっとも多い、後期も遅い時期の横穴式古墳である。
 I今諏訪駅(いますわえき)は、山梨県南アルプス市上今諏訪(当時は中巨摩郡白根町上今諏訪)に存在した山梨交通電車線の駅。開国橋で釜無川を渡り、白根町(現在の南アルプス市)に入った最初の駅で、橋の西詰で県道の南から県道上に併用軌道で乗り上げ(実際には踏切扱い)、北側に出て弓なりに曲がった先にあった。相対式2面2線の駅で交換可能駅であった。当線には交換可能駅がいくつかあったが、日中使用されていたのは当駅であった。この周辺は「原七郷」と呼ばれ、一面桑畑が続く養蚕地帯として栄えた。しかし一方で井戸を掘ってもなかなか水が出ず川もないなど水利が悪い一帯であり、盆地気候のせいもあって旱魃が起こりやすく「月夜にも地が焼ける」とまで言われた地域でもあった。なお当駅には甲斐青柳駅方に側線があり、貨物用のホームがあった。ここに長くデワ1が留置されていたが、末期には使用されることが全くなくなり、最終的には電装品が故障して動くことすら出来なくなって1961年3月に現地解体された。
 I今諏訪駅は他の専用軌道の駅と同様に跡地である道路「廃軌道」上に跡地がある。駅跡は「開国橋西」交差点と「上今諏訪」交差点の中間点、交番と「上今諏訪」バス停のある場所に道路のくぼみとして残されている。ただし近年行われた拡幅工事の影響で、ここの部分の「廃軌道」は大拡張されてしまい、これまでの駅跡地と雰囲気を異にしている。ここから「廃軌道」は4車線の大通りとなって西に進んで行き、この状況が甲斐飯野駅まで続く。
J釜無川の開国橋。旧農林高校前駅 - 旧今諏訪駅間の廃線跡。
 K農林高校前駅(のうりんこうこうまええき)は、山梨県甲斐市西八幡(当時は中巨摩郡竜王町西八幡)に存在した山梨交通電車線の駅。玉幡駅から南西に走り、釜無川へ向けて向きを変える手前にあった駅で、1面1線の駅であった。駅名の「農林高校」は駅の南にある県立農林高校による。開業時には存在しなかった駅であるが、実は「仮駅」としては存在した。現在県立農林高校となっている場所には昭和初期に「玉幡競馬場」(「甲府競馬場」とも称する)という競馬場があり、山梨県競馬会の主催で年2回競馬が行われていた。会社側では会期のたびに「玉幡仮停留場」の名前で数日間のみ仮駅を開設していた。その仮駅を格上げし1937年に常設化したのが当駅で、最初の駅名はずばり「競馬場前」であった。しかし玉幡競馬場はこの時期には既に閉鎖となっており、跡地は「玉幡飛行場」という陸軍の飛行場となっていた。このため駅も「飛行場前」と改称したが、今度は軍施設が明らかになる駅名が引っかかって「釜無川」と改称。最終的に「農林高校前」に落ち着いたのは、県立農林高校が甲府空襲によって校舎を焼失、1946年に現在地にあった旧飛行学校に移転した後、1951年のことであった。なお「飛行場前」への改称年月日は不明。竜王町(現在の甲斐市)最後の駅で、次の今諏訪駅からは白根町(現在の南アルプス市)となる。この先で、釜無川を北側を並行して来た県道の「開国橋」の横に専用橋梁をかける形で渡っていた。この釜無川橋梁は延長459.6メートルにもなり、沿線随一の絶景地であるとともに撮影地でもあった。なお県道の橋にちなみ当線の橋梁をも「開国橋」と呼ぶことがある。
 K農林高校前駅は専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。道が県立農林高校の敷地に突き当たる直前に位置するが、周囲に目標物はなく、自動車整備工場やラーメン屋がある程度で分かりづらい。ここから先、「廃軌道」はバイパス道の「アルプス通り」に合流して釜無川を渡る。釜無川橋梁は転用されることなく撤去されており、実質開国橋に併合された形となっている。
L旧玉幡駅 - 旧農林高校前駅間の廃線跡。
 M玉幡駅(たまはたえき)は、山梨県甲斐市西八幡(当時は中巨摩郡竜王町西八幡)に存在した山梨交通電車線の駅。榎駅からそのまま直進し、やや南西寄りに進路を変えた先にあった駅で、1面1線の棒線駅であった。なお駅手前の県道を北に上がっていくと中央本線の竜王駅に達する。1959年8月14日に台風7号が県内を通過した際に周囲と同様大きな被害を受け、上石田駅から当駅まで架線柱が倒れて不通となった。専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。山梨信用金庫玉幡支店の斜向かいの道が大きくくぼんでいるのが駅跡で、道路端には写真店が建っている。周囲は玉幡集落の中心で、引き続き商店混じりの住宅地となっている。
 N榎駅(えのきえき)は、山梨県甲斐市篠原(当時は中巨摩郡竜王町田中)に存在した山梨交通電車線の駅。徳行駅からほぼ西に直進し、そのまま竜王町に突入して最初にあった駅で、富竹新田・万才集落を通り越して南西へ進路を変えた直後にあった。相対式2面2線の交換駅であったが、廃止時には交換設備は使用停止となっていた。専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。小僧寿しの斜向かいにある巨大なテナントビル(最近までブックオフなどが入っていたが撤退した)の前が駅跡で、やはり道路から一段凹んでいるが駐車場として流用されているため分かりづらい。周囲は商店混じりの住宅地となっている。
O旧徳行駅 - 旧榎駅間の廃線跡。
 P徳行駅(とくぎょうえき)は、山梨県甲府市徳行4丁目(当時は徳行)に存在した山梨交通電車線の駅。貢川駅から南西に直進し西へと進路を変える手前にあった駅で、1面1線のいわゆる「棒線駅」であった。甲府市最後の駅で、次の榎駅からは竜王町(現・甲斐市)となっていた。細かく駅が連続するのもここまでで、ここからは駅間距離も伸びていた。専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。現在駅の周辺には取り立てて目標物はないが、駅自体が道路端のくぼみというよりも1車線以上ある広い空き地として残されており、判別は容易である。
 Q貢川駅(くがわえき)は、山梨県甲府市富竹1丁目(当時は富竹)に存在した山梨交通電車線の駅。上石田駅から緩やかに再び南にカーブした先にあった駅で、相対式2面2線の構造で交換可能駅であった。周囲に人家はまばらで、桑畑や田畑が広がっていた。なお、当初の路線はここから甲斐大井駅までで、それ以降2年かけて甲府駅前駅側と甲斐青柳駅側にじりじりと伸ばして行った。駅には当線の車庫が西側に併設され「貢川車庫」と呼ばれていた。このため検査線2線、留置線1線が存在し、構内は広かった。1959年8月14日には台風7号によって車庫が倒壊し、建物ほか中に留置されていた車両も被害を受けた。
 Q貢川駅は、専用軌道の跡地である道路「廃軌道」上に跡が存在する。現在駅は貢川タクシーの営業所となり、斜向かいの車庫の跡地は1995年頃まで山梨交通バスの貢川営業所として使用されていた。その後営業所が敷島営業所に統合されたのに伴って敷地は商業地に転用され、当初はダイエー、現在では電器量販店のコジマとなっている。跡地は現在も山梨交通の所有地で、建物の定礎のそばに同社の名前の入ったプレートが掲出されている。 周囲もすっかり住宅地と化している。
R旧上石田駅 - 旧貢川駅間の廃線跡。バス停には廃軌道の文字が書かれている。
 S上石田駅(かみいしだえき)は、山梨県甲府市上石田2丁目(当時は上石田)に存在した山梨交通電車線の駅。山梨交通電車線の専用軌道区間で初めての駅である。荒川橋を過ぎ、貢川を渡って南に進路を変えながら斜めに専用軌道区間に入り、緩やかにカーブした先にあった。相対式2面2線の構造で、次の貢川駅と連続で交換可能駅であったが、廃止直前に多くの可能駅の交換機能が停止された中で最後まで生き残り、朝夕のラッシュ時に用いられた。当初は仮駅として開業した。北側に接続する併用軌道部分を速やかに開通させる予定でいたためであったが、思いがけず手間取ったために、まるまる2年間「仮駅」扱いのままで営業せざるを得なくなった。位置を少し移転して正式駅となったのは荒川橋電停まで北進した1932年9月15日のことである。なお甲府空襲の直前、当駅に車両を全て避難させる処置がとられた。これによって結果的に全ての車両が焼失せずに済み、電車線は空襲後すぐに当駅を暫定的に甲府側の起点駅として運輸を開始することが可能となり、戦争直後しばらくの急激な乗客増につながった。一方、1959年8月14日に県内を通過し大きな被害をもたらした台風7号の影響をもろに受け、当駅から玉幡駅まで架線柱が線路上に倒れるという被害にも見舞われている。専用軌道部は突入部から終点の甲斐青柳駅まで「廃軌道」と呼ばれる2車線の道路として使用され、各駅の跡もその上に存在する。当駅は南西通りが分岐する東のガソリンスタンド横に道路のふくらみとして跡が残されており、比較的判別が容易である。ここから先、釜無川を越える手前の農林高校前駅まで同様の状態が続く。
@旧荒川橋駅 - 旧上石田駅間の廃線跡。
A貢川を渡る貢川橋。昭和6年1月竣工。
 B荒川橋駅(あらかわばしえき)は、山梨県甲府市寿町に存在した山梨交通電車線の電停。美術館通りが弧を描き荒川橋で荒川を渡る途中、すなわち橋の真ん中にあった。寿町電停まで続いて来た狭い街並みが橋の袂に至って途切れ、ぱっと景観が開けた中にある1面1線の電停であった。なおわずかな間、甲府側の起点であったことがある。ここで併用軌道区間は終了し、橋を渡りきってさらに貢川を越えた先でぐいっと南に曲がって専用軌道に入っていた。
 B元々が安全地帯もない状態だったこともあり、電停それ自体の痕跡は残されていない。ただし「荒川橋」のバス停がちょうど電停のあった橋の真ん中に位置している。これはバス停が電停の代替として設置されたものであることから認められたものである。専用軌道への突入部は現在も残されているばかりでなく、そこから先の廃線跡自体が県道として使用され、「廃軌道」と呼ばれている。甲府駅南口からここを経由して甲斐青柳駅のあった増穂町青柳地区を通り、鰍沢町へ抜けるという電車線そのままのルートを取る乗合自動車も運行されている。
 C寿町駅(ことぶきちょうえき)は、山梨県甲府市寿町に存在した山梨交通電車線の電停。相生町-荒川橋間が開通した1ヶ月後に新設された電停で、現在の美術館通りが南へ曲がる手前にあり1面1線安全地帯なしの構造であった。周囲は商店混じりの住宅地が続く狭い道で、道の半分を電車が占めるほどの状態であった。電停名の「寿町」は当初隣の第二高校前電停(当時は高等女学校前電停)が名乗っていた名称であったが、当電停開業に伴いこちらが名乗ることになり、名前を譲られた格好になった。ここから先、道は弓なりに荒川橋へ続く。荒川橋の手前で道が開けるため、当電停が狭隘部の最後の電停となっていた。泉町電停や第二高校前電停とほぼ同じで、近年行われた道路の大拡幅とそれに伴う立ち退き・建て替えによって完膚無きまでに潰されており、「寿町」のバス停のみに名前を留める状態である。
 D第二高校前駅(だいにこうこうまええき)は、山梨県甲府市寿町に存在した山梨交通電車線の電停。現在の美術館通りと南北に交わる穴切通りを過ぎた先、泉町の町域から寿町に入る辺りにあり、1面1線安全地帯なしの構造であった。周囲は泉町電停に引き続き商店混じりの住宅地が続く狭い道であった。当初は相生町-荒川橋間で唯一の電停であり、この電停が「寿町」を名乗っていたが、1ヶ月後に開業した寿町電停に名前を譲り、近くにあった県立甲府第一高等女学校から「高等女学校前」と変更した。最終電停名の「第二高校前」は学制改革でその甲府第一高等女学校が「甲府第二高校」と校名を変更したことによる。ただし電停名が変更になったのは学制改革から3年も経った1951年のことであった。状況は泉町電停と同じで、近年まで道路だけは狭い状態であったが、大幅な拡幅工事により、道路も街並みも完全に過去のものとなっている。なお電停名の元になった県立第二高校は1975年に荒川の対岸へ移転し、現在「県立甲府西高校」と校名を改称している。同校の跡地には現在山梨県立県民文化ホールが建てられている。
 E泉町駅(いずみちょうえき)は、山梨県甲府市相生1丁目(当時は泉町)に存在した山梨交通電車線の電停。相生町-荒川橋間が開通した1ヶ月後に新設された電停で、相生町電停から平和通りを通り過ぎ、現在の美術館通りに入ったところにある1面1線安全地帯なしの構造であった。周囲は商店混じりの住宅地が続く一帯で、幅員が狭い中に単線の線路が荒川橋まで続いていた。路面区間の電停ということもあり元から痕跡は残っていなかったが、道路だけは2車線で最近まで狭い状態のままであった。しかし1999年頃から拡幅工事が始まり、建物も軒並み建て替えられて現在では5車線になって面影をしのぶよすがすらない。なお電停名の「泉町」は本来この美術館通り沿いの町名であったが、町名整理で「丸の内」と「相生」に吸収されて消滅している。通り沿いの「丸の内郵便局」も以前は「泉町郵便局」であった。
 F相生町駅(あいおいちょうえき)は、山梨県甲府市相生2丁目(当時は相生町)に存在した山梨交通電車線の電停。路面区間の電停ということもあり痕跡はない。また街路も5車線と拡幅され、電車通りであったことすら想像することが困難である。建物も全滅状態でビルに化け、北側の食品市場は廃止となって現在駐車場となっている。なお当電停は本来「相生町」の北西端にあり、ぎりぎり町域に引っかかっている状態であったが、住居表示と町名整理で「相生」として町域が大幅に拡大し、現在では隣の泉町電停まで「相生」の地内である。
 G警察署前駅(けいさつしょまええき)は、山梨県甲府市中央1丁目(当時は錦町)に存在した山梨交通電車線の電停。路面区間の電停ということもあり痕跡はない。また街路も2車線、カラー石畳の舗道つきの道路として整備されており、かつての雑然とした雰囲気は消滅した。これは電停の北側、甲府寄り交差点の手前部分も一緒である。警察署などの官公庁、北側の商店街や「談露館」は変わらず存在しているものの、「談露館」が旅館からホテルへ模様替えしたのをはじめとして全ての建物が改築されて当時からの街並みは軒並み消滅し、現在明確に当時からの建物と言えるのは、電停手前の交差点北西角にある市役所別館(旧甲府郵便局)のみである。また裏通りであった舞鶴通り延伸部も、その後舗装の上鉄橋により中央本線を越えて北口側へ通じるようになり、人や車が平和通り並に行き交う幹線道路へと変貌した。
 H甲府駅前駅(こうふえきまええき)は、山梨県甲府市丸の内1丁目(当時は橘町)に存在した山梨交通電車線の電停。山梨交通電車線の起点電停であり、その名の通り甲府駅の駅前広場に位置していた。電停の名称を「山交甲府」とする資料もあるが、「甲府駅前」が正式名称である。当初の駅は広場の南東隅に併用軌道で上屋を持つ1面1線の電停として設けられた。この電停は1936年に2面2線化、さらには1939年から南側に当時電車線を運営していた峡西電気鉄道の本社が移転するなどちょっとしたターミナルと化したが、戦災のために戦後は1線のみとなっていた。いずれにせよ線路はここから大きく南へカーブし甲府駅駅舎の眼の前を通って、通称「三角地帯」と呼ばれた三角形の飲食街と県庁の敷地の間の道を通って現在の平和通りへ抜けていたのである。しかし1953年に戦災復興事業の一環により駅前が整備されることになり、「三角地帯」が撤去されて駅からまっすぐに平和通りが開通し、さらに舞鶴公園となし崩しに一体化していた県会議事堂・県庁を公園と切り離すために、行き止まりだった舞鶴通りを公園内をぶち抜いて北へ延伸した。これによって当駅は広場の東側、元の電停があった場所から見て北東斜向かいにあった山梨交通本社の横へ移転し、ルートも駅の正面を通るのではなく東側の舞鶴通りを通るように変更された。この際甲府駅前駅は専用軌道と駅ビルを持つ駅となった。駅ビルは2階建ての小さなもので、「山梨交通電車のりば」と書かれたネオン看板と、その上に岡島百貨店・ナショナルテレビのネオン看板が掲げられていた。乗客は正面入口からコンコースの右寄りにある改札を通り、櫛形2面2線のホームから乗車するようになっていた。ホームは東向きに開いており、電車はここから舞鶴通りへ曲がって入って行った。ところが台風の被害などで路線自体の収支が悪化したため廃止が決定し、1962年に路線とともに廃止された。せっかくのターミナルビルもわずか9年の命であった。
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