更新日時 2010年03月13日
埼玉県営鉄道(さいたまけんえいてつどう)は、埼玉県がかつて運営していた専用鉄道。埼玉県川越市の霞ヶ関駅から同市的場地内の入間川河川敷を結んでいた。埼玉県が行っていた砂利採取事業により、入間川の川砂利を運搬するのが目的であった。霞ヶ関駅には川越寄りに専用の側線と砂利集積場が用意され、そこに県営鉄道が接続する形になっていた。霞ヶ関駅から先は途中川越線をアンダークロスする以外には特に施設らしい施設もなく、ひたすら田畑の中を南へ下り、入間川に横付けするように河川敷へ入っていた。なお同じ砂利運搬線の西武鉄道安比奈線に対し、入間川をはさんで向かい合うように線路が敷かれていた。路線名に関しては正式名称はなかったようで、県の公文書でも「専用鉄道」「砂利運搬専用鉄道」「砂利積込側線」と一般名詞で呼んだり、そこに所轄部署名と工場名をつけて「砂利採取事務所川越支所霞ヶ関工場砂利運搬軌条」「砂利採取事務所川越支所霞ヶ関工場専用鉄道」と呼んでいたりと一定していない。正時代、大都市圏でコンクリートによるビルなどの建築が盛んになったことにより、砂利の需要が急増した。その資源として多くの事業者が求めたのが河川に堆積した川砂利であり、埼玉県内でも荒川・入間川・利根川やその支流の河川と河川敷で盛んに民間業者による砂利採取が行われるようになった。この県内での砂利採取に事業者として名乗りを上げたのが、埼玉県当局である。1922年、当時の知事・堀内秀太郎が税収の増加が見込めず逼迫していた県の財源を救済するため、また県道の整備や維持のために用いる砂利を自給するために提案したものであった。この提案は競合する業者への補償を確保した上で翌1923年4月1日より実行に移されることになり、「砂利採取事務所」が県庁内に設置されてここに県営砂利採取事業が始まった。この砂利採取は民間業者と同様、川底の砂利を船などで採取して水揚げし、河川敷から近くの鉄道駅に隣接する工場まで運び、鉄道貨物として出荷するもので、運搬手段としては馬車・トラック・ベルトコンベヤーのほか、鉄道も用いられていた。鉄道による運搬は熊谷周辺や寄居周辺のほぼ全域と川越・秩父周辺の一部で行われ、特に秩父鉄道沿線では熊谷駅から寄居駅までほとんどの駅から運搬線が分岐しているというほど大量に敷設されていた。それらの中には機関車を保有していたり、延長が2キロ近くに達していたりと本格的な路線となっていた場所も少なくなかったが、それでもみな連絡している駅の「側線」扱いで、単独の営業路線とはされていなかった。その中で例外的に「専用鉄道」としての免許を持っていたのが東武鉄道東上本線の霞ヶ関駅と入間川河川敷の採取場を結ぶ運搬線であり、これを通常「埼玉県営鉄道」と呼びならわしている。元々当線は1920年に入間川砂利株式会社という民間業者が敷設した専用鉄道を買収した路線で、その際に専用鉄道の免許も引き継がれたのである。この路線は霞ヶ関駅に隣接して設置されていた霞ヶ関工場の直轄とされ、路線の運行など現業は工場が直接行い、上位部署である砂利採取事務所や同事務所入間川支所(1948年に移転して「川越支所」に改称)は監督や官庁への届出など事務のみを行っていた。県営砂利採取事業は昭和初期に一時低迷したり疑獄事件が起こったりと波乱もあったが、おおむね好調であった。しかし、戦後になると枯渇を起こす採取場も出始めた。当線が使っていた採取場がまさにそれで、採掘量が減ったために鉄道を使うまでもなくなって次第にトラック輸送へ移行し、鉄道による運搬は漸減した。事実、運輸省に専用鉄道の調査を命じられた砂利採取事務所は、「直接採取所からの自動車輸送を行っており1956年は全く使用していない」と回答している。このため砂利採取事務所は1957年に当線の廃止を決定し、同年6月28日に廃止届を提出した。こうして「埼玉県営鉄道」はひっそりと35年間の歴史に幕を下ろすことになったのである。なお当線廃止後も県営砂利採取事業は継続されたが、やがて川砂利の枯渇により河川そのものに悪影響が出始めたことから、1970年11月1日に廃止された。線路は廃止の直後、東武鉄道側から「返還を求めている地主もいるので早く撤去願いたい」と要請されたこともあり素早く撤去されたようで、線路敷自体も廃線3年後の1960年7月31日付で一斉に用途廃止処分にして売却してしまっている。その処分の早さと、その後の霞ヶ関・的場地区の急速な住宅地化により廃線跡は完全に消滅しており、霞ヶ関駅の側線が「かすみ自動車教習所」の敷地の一部となっているということ以外には満足に跡地を比定できない状態である。川越線をアンダークロスしていた部分のコンクリートのガードが現役で残されているのが唯一の遺構である。 | |
路線データ 営業区間:霞ヶ関 - 砂利採取場 路線距離(営業キロ):2.4km 軌間:762mm 駅数:2(起点駅を含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし(全線非電化) |
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@霞ヶ関駅(かすみがせきえき)は、埼玉県川越市霞ケ関東一丁目1番4号にある、東武鉄道東上本線の駅である。当駅周辺はその昔、鎌倉街道にあったとされる「霞ヶ関」にちなみ、明治時代に町村制が施行されて入間郡『霞ヶ関村』となった。ところが、駅は当初川越藩の的場[1]があったとされた場所に設置されたことから、当時の地名を取って『的場駅』と命名された。その後、1929年(昭和4年)に霞ヶ関カンツリークラブ(ゴルフ場)ができたことに伴い、1930年(昭和5年)に駅名を『霞ヶ関駅』に改称した。東京地下鉄の「霞ケ関駅」と間違えられることもあるが、当駅の方が早くから「霞ヶ関駅」を名乗っている。しかし、間違えないように住宅・商業広告などでは敢えて「東武霞ヶ関駅」と表現されることがままある。当駅の駅名「霞ヶ関駅」は正式表記では「ヶ」であるが、当駅所在地の地名「霞ケ関」と東京地下鉄の「霞ケ関駅」の正式表記は「ケ」である。 | |
@駅構造は島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。定期券売場が設置されており、ホーム上には売店「access」がある。改札階とホーム、北口・南口との間は階段のほかエスカレーター・エレベーターにより連絡している。かつての駅舎は2階建てで、ホームとは地下通路で連絡していた。2005年に現行の橋上駅舎の供用を開始し、2006年には新たに北口が開設された。南口側には駅ビルが建設された。 | |
@かすみ自動車教習所方向の霞ヶ関駅の側線が有ったと思われる場所。 | |
@サンクス脇の道路が埼玉県営鉄道の廃線跡と思われる。 | |
A埼玉県営鉄道の廃線跡と思われる道路。 | |
B埼玉県営鉄道の廃線跡と思われる道路。 | |
C埼玉県営鉄道の廃線跡と思われる道路。 | |
D埼玉県営鉄道の廃線跡は赤白の鉄塔方向から右写真の右民家部分。 | |
E旧国鉄の境界杭と川越線をアンダークロスする埼玉県営鉄道の廃線跡。 | |
F川越線をアンダーパスする埼玉県営鉄道廃線跡。 | Fキロポストと勾配標これは川越線の? |
F緑の家の後ろが川越線のアンダーパスする埼玉県営鉄道廃線跡の為、緑の家が丁度廃線跡になる。 | F緑の家の延長線上がこの家で、斜め塀沿いが廃線跡と思われる。 |
G赤白の鉄塔を目印にするとこの辺が埼玉県営鉄道の廃線跡か? | |
H通信興業川越工場あたりは、どの辺に埼玉県営鉄道が通っていたか判別が付かない。 通信興業川越工場は1952年10月に工場建設の為、廃線跡はパチンコ屋と工場の塀沿いか? |
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Iこの辺は埼玉県営鉄道の痕跡が解らない。 | |
Iこの辺は埼玉県営鉄道の痕跡が解らない。 | |
Jこの辺は埼玉県営鉄道の痕跡が解らない。 | |
K入間川の堤防この辺で河川敷に入っていたのか? | |
Lこの入間川の砂利を採取していたのであろう。 | |
M河川敷の中で一段高くなった場所がある。 | |
N国が管理する河川敷の中に埼玉県の境界杭がある。この場所が採石場跡らしい。 | |
Nこの辺に埼玉県営鉄道の線路が引かれていたのであろう。 | |
N畑の中に埼玉県の境界杭が多数見受けられる。 | |
Nこの辺が埼玉県営鉄道の砂利採取場の終点(駅)だったのであろう。 | |
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