更新日時 2010年04月18日
青梅線福生河原支線は昭和2年2月大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福生駅から多摩川の羽村境に至る1.8q間の砂利運搬専用鉄道線が布設された。日に2回電気機関車が4〜5輌の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた。昭和34年12月砂利運搬停止。昭和36年3月に線路、架線撤去。昭和37年7月福生町へ売却。 | |
@福生駅(ふっさえき)は、東京都福生市本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。 | |
@駅構造は島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。50年程前まで福生駅から福生河原という貨物駅まで多摩川で採取した砂利運搬用の支線が延びていた。この廃線跡は西口から羽村方向に線路と平行する狭い一方通行の都道を歩くと右手の市営自転車駐輪場の左に唐突に現れるきれいなカーブを描く道を辿る事で、容易に知る事ができる。 | |
A踏切より撮影。この辺はまだ分岐していない様だ。 | |
Bこの民家裏の斜めの土地が廃線跡の様だ。この辺から分岐していた。 | |
C民家の部分に旧国鉄の境界杭が残っている。 | |
C分岐後、ここから廃線跡は一般道に転用されている。 | |
D本六公園脇を廃線跡は通る。 | D廃線跡はここで一端突き当たる。 |
Dこの辺の廃線跡は一般に転売された様だ。 | |
E都道29号線を渡る。この周辺は廃線跡の痕跡が残っていない。 | |
F都道29号線を渡った後は駐車場を越えた辺りから、廃線跡は再び一般道に転用されている。 (地元在住の方からのメール) この街道を渡った後の駐車場(栄和商事使用)下の石垣辺りから福生4小プール付近までは徐々に下降し、プール付近(写真Gの反対側)は、写真Gと同じ様に土地が一段下がっていて、線路は低い土手上にありました。 |
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G青梅線福生河原支線の廃線跡。 | Gよくこの様な場所に境界杭が有るのだが・・・ |
H青梅線福生河原支線の廃線跡。 | |
I青梅線福生河原支線の廃線跡。ここから先は河原へ向かう。 | |
I加美上水橋の歴史:青梅線福生河原支線は昭和2年2月大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福生駅から多摩川の羽村境に至る1.8q間の砂利運搬専用鉄道線が布設され、通称ガードと呼ばれる鉄橋がここ玉川上水にその姿を写すことになった。このガードを日に2回電気機関車が4〜5輌の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた。昭和34年12月砂利運搬停止。昭和36年3月に線路、架線撤去。昭和37年7月福生町へ売却。その後鉄板製の歩道橋に改良。平成3年3月新東京百景にふさわしく欄干等を改良し加美上水橋と命名。 | |
I加美上水橋を渡ると福生加美上水公園になっている。 | |
J玉川上水旧堀跡は、江戸幕府が江戸市民の飲料水の確保を目的として、承応2年(1653年)に開削した玉川上水がその後、元文5年(1740年)に至り、北側に337間(約613m)程、付け替えられたため廃棄された堀が遺構として残ったものです。玉川上水は、開削後、たびかさなる多摩川の出水によって、福生市内の一部で上水の土手がしばしば崩壊し、このままでは通水に支障が生じる事態も起こりかねない状況にありました。その為元文5年、代官上坂安左衛門の掛かりで、新田世話役川崎平右衛門によって付け替え工事が行われました。旧堀跡は、この公園内及び付近に残っていますが、南側の土手は崩壊してみられません。しかし、北側の土手及び堀敷部分は遺構として現存しています。この玉川上水旧堀跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として歴史的、学術的に大変貴重です。 | |
J青梅線福生河原支線の廃線跡。築堤が残る。 | |
K青梅線福生河原支線の廃線跡。築堤が残る。 | |
K青梅線福生河原支線の廃線跡。築堤が残る。 | |
L築堤したの隧道跡か? | Lこのもっこりは何? |
L青梅線福生河原支線の廃線跡。築堤が残る。 | |
M福生河原貨物駅跡は福生市営競技場に転用されている。 | |
(地元在住の方からのメール) こんにちは、この度JR青梅線福生駅の東口に東横インのホテル14F建が完成しつつあり、いつからオープンするのか、「東横イン 福生駅」で検索したところ、たまたま「歩鉄の達人」のホームページにお目にかかりました。そこで、福生河原線の記事があり、のめり込んで読んで見ると、誠に良く調査され昔のことが蘇ってきました。小生は、元来この支線にある現存の福生4小プール横の道路を北に100m地点に生まれ育ち60数年住んでおり、この通称「砂利線」は幼い時からの生活や遊び、通勤通学の場でもありました。住民は通称「砂利線」と呼び、朝10時と午後3時に決まって貨車が往来していました。それ以外の時間は、貨車は通らないことを老若男女誰もが知っていましたし、通過する時は警笛を鳴らし、車掌が旗を振ってスピードも遅かったので安心して線路の敷砂利に足をとられぬよう、枕木を大股で道路代わりにしていました。「砂利線」なる言葉は良く使われて目印にしたり、子供の頃は多摩川に魚とりや泳ぎ、又玉川上水でもガードより上流100〜200mで泳ぎ、なんと言っても6月夜のホタルはガードから見ると無数に飛び格好の観光スポットでした。旧奥多摩街道との交差点には、踏切もありその番人も近くに家族で居住し、今でもその場所は、交通安全旬間の町会の見張りテントが張られています。多分市有地かと思います。又、福生4小プール付近は、埋め立てる前は崖下にあり線路が土手上にありその北側の麦畑では凧揚げ等で遊びました。この「砂利線」を一番利用したのは、中学、高校時代の6年間は通学路、そして通勤1〜2年(この後撤去)は略毎日往来しておりました。兎に角 我が家から福生駅方向に向かう最短コースであり、道路化された今でも最も利用する道となっていることだけは間違いありません。砂利線は、ごく普通に存在していましたので、多摩川の砂利をどこでどのように使用していたのか考えたこともなく、まして大正天皇の多摩御陵造営のため敷設されたとのことも関心ありませんでした。郷土にいて不勉強でしたが、今回の記事を拝読させて頂き、良い勉強になりました。大変ありがとうございました。 |
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