更新日時 2010年01月20日
神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。昭和40年代以降ともなると、慢性的なコスト増で産出資源の競争力が失われ、更にマッチ用の燐、化学工業原料や火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、技術革新により石油の脱硫処理から硫黄がより容易に生産されるようになり、市場から駆逐された。各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退している。 | |
開通 大正07年(1918年)05月13日 廃止 昭和51年(1976年)09月15日 湯本駅〜湯本町湯本字辰ノ口 延長 09q |
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@常磐線湯本駅方向を見る。 | @いわき市石炭・化石館 |
@煉瓦造りのカルバートが見える。 | @東京から196q地点。 |
@川の湾曲にあわせて、軌道跡も曲がって行ったと思われる。 | |
@常磐線からのこの辺でいわき市石炭・化石館方向に軌道跡が伸びていた。 | |
@いわき市石炭・化石館方向に軌道跡が伸びていた。 | |
AD51型蒸気機関車は、最大出力1280馬力、最高速度85q/h、牽引力1100tという素晴らしい性能をもつ蒸気機関車で、昭和11年から製作が開始されました。この機関車は昭和19年3月にD51型の946番目に製作され、戦時から戦後の復興期を通して、力強く走り続けました。とくに昭和33年4月から昭和45年8月まで、水戸鉄道管理局平機関区に配属され、石炭運送をはじめ、常磐線の貨物輸送に大いに活躍し、当地方の産業経済に大きく貢献しました。しかし国鉄の電化計画に伴い、この勇姿が鉄路から消えることになったのを惜しみ、昭和45年8月から平松ヶ丘公園に展示されていましたが、当館設立を機に、より多くの人々にその功績を知って頂きたく、昭和60年3月当地に移し永久にミスターSLの栄光を讃え、その姿を公開することにしました。 | |
AD51946号の概要 形式称号 D51型 製作年月日 昭和19年3月26日 最大寸法 長さ19.73m 幅2.93m 高さ 3.98m 機関車重量 88.8t 稼働期間 25年10ヶ月 実運転距離 124万q(地球31周) |
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Aいわき市石炭・化石館は10月1日よりリニューアル工事のため休館。 | Aフタバスズキリュウ(首長竜)は昭和43年(1968年)に市内大久町入間沢で発見されました。 |
Aあつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人ををしとぞ見し | A抗夫の像。 |
A竪坑 | A自走枠 製造会社 三菱ガーリック |
Aシングルドラムカッター 製造会社 三井三池製作所 | Aジーゼル機関車 製造会社 日本輸送 |
A4tバッテリー機関車 製造会社 日立製作所 | A1.5立米炭車 製造会社 常磐製作所 |
A住吉坑々口の銘板は、磐城炭礦(株)社長浅野総一郎の書(大正12年)です。 | Aこの充填機は西ドイツから輸入したもので、石炭を掘った跡を充填する時使用しました。 |
Aモニュメント。 | A庭園内に「いわき」をかたどり、2、3の水系を入れ、いわきをつくる岩石の中から30有余点選んで、ほぼ相当する所に並べました。 |
A坑口跡。 | |
Bこの築堤が向田線の軌道跡と思われる。 | |
Bこの築堤が向田線の軌道跡と思われる。 | B看板の間が橋台? |
C事務所脇の道路が軌道跡と思われる。 | |
C柵が古レールを使用している。 | C駐車場が向田線の廃線跡と思われる。 |
D向田線の軌道跡と思われる道が続く。 | |
E竹藪に囲まれた向田線の軌道跡と思われる道が続く。 | |
F古レールを利用した柵の跡と思われる。この辺が終点か? | |
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