廃線探索 島田軌道

更新日時 2009年12月22日

 人車鉄道最長営業期間記録(島田軌道)明治22年4月、東海道鉄道の静岡〜浜松間が開通し、同時に島田停車場も設けられた。鉄道開通により、島田停車場における貨物輸送量は増大した。貨物の荷は日常生活品の他、大井川上流の木材や林産品が多かった。上流の地域の物資は大井川の船便を利用して大井川沿岸の向谷陸揚げされたが、これらの物資を島田停車場まで運搬するには、人力か荷車を利用するぐらいしかなく、効率的な運搬方法が早急に求められるようになった。そこで島田町の事業として島田停車場〜向谷間(約2.9q)の人車軌道が計画、施工され、明治31年4月に開通した。この島田軌道の人車輸送は木材輸送という重要な役割を担っていたため、昭和39年9月に廃業になるまで、実に62年にわたる人車鉄道営業期間としては日本最長記録を樹立した。同時に日本における人車鉄道の営業もこの島田軌道の廃業をもって終了した。このように、日本で最初の人車鉄道の営業は静岡県で始まり、広まり、そして終わりも静岡県であった。
 人車軌道(じんしゃきどう)とは、人が客車や貨車を押す鉄道である。人車鉄道(じんしゃてつどう)ともいう。最も狭義には、日本において運輸事業を目的に軌道条例(後の軌道法)に基づいて敷設されたものを指している.人車軌道は1900年から1920年ごろまでの間に多く存在していた。
 動力の機械化に逆行する人力交通機関であったが、建設コストを含めた初期投資の少なさ、動力としての人件費の安さとその維持の容易さ、鉄道運行の簡便さ、等が特長で、基幹交通機関(幹線鉄道、河川交通)との接続を目的とした小規模な地域密着の路面交通機関(軌道)であった。 しかしながら人力による輸送力の小ささ、運輸効率の悪さ、旅客輸送においては速度の遅さがモータリゼーションの波に打ち勝てず、1959年に島田軌道が廃止されたのを最後に姿を消した。
@JR島田駅。
ANTT脇の細い道。(島田軌道廃線跡?) A県道34号線(島田軌道廃線跡?)
A右カーブして県道34号線へ A墓地の脇の道(島田軌道廃線跡?)
B島田軌道跡。(地元のおばさんが証言) C島田軌道跡。
D島田軌道跡。 E島田軌道跡。
F島田軌道跡。 G島田軌道跡。
H島田軌道跡。 I島田軌道跡。
J島田軌道跡。
 K島田軌道跡はこの道の右側に平行していたと思われる。  L島田軌道跡はこの道の右側に平行していたと思われる。
 M島田軌道跡はこの道の右側に平行していたと思われる。 N国道1号線バイパス向谷ICへ向かう道と交差。
O軌道跡は民家の間をすり抜けて行く。
O軌道跡は民家の間をすり抜けて行く。
P田んぼの畦道が軌道跡。
P島田軌道唯一の遺構の橋台跡。
P島田軌道唯一の遺構の橋台跡。
P田んぼの畦道が軌道跡。 P田んぼの畦道が軌道跡。
Q北河製品所跡。 Q北河製品所跡。
Q北河製品所跡。 Q北河製品所跡。建物の間が廃線跡?
Q北河製品所跡続く道。 Q建物の位置からこの道路が廃線跡と思われる。
R建物の位置からこの道路が廃線跡と思われる。 R建物の位置からこの道路が廃線跡と思われる。
R位置的にこの民家の間の道が廃線跡?  S国道1号バイパスを過ぎた辺りまで続いていたらしい。
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出典、静岡県立中央図書館だより 平成20年7月・8月