廃線探索 名鉄谷汲線

更新日時 2013年09月28日

 名鉄谷汲線(めいてつたにぐみせん)は、岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅から同郡谷汲村(現揖斐川町)の谷汲駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 1926年(大正15年)4月6日 谷汲鉄道が黒野 - 谷汲間を開業。1944年(昭和19年)3月1日 名古屋鉄道が谷汲鉄道を合併。谷汲線となる。かつては、名鉄揖斐線の黒野駅から分岐して谷汲村(現揖斐川町)にある谷汲駅までを結ぶ谷汲線が延び、谷汲山華厳寺への参詣の足となっていたが、揖斐線黒野 - 本揖斐間とともに2001年に廃止された。
名古屋鉄道 谷汲線(廃線)
黒野駅 - 黒野西口駅 - 黒野北口駅 - 豊木駅 - 稲富駅 - 更地駅 - 八王子坂駅 - 北野畑駅 - 赤石駅 - 長瀬駅 - 結城駅 - 谷汲駅
 @黒野駅(くろのえき)は、岐阜県揖斐郡大野町大字黒野5604番地にあった名古屋鉄道の駅である。2005年3月31日の営業を以て、揖斐線の廃線により廃止された。ほのぼのとした風情のある駅として第1回の中部の駅百選に選定された。廃止後も揖斐線の駅では最後まで線路も含めて廃止時の姿で残っていたが、2013年4月12日に「黒野駅レールパーク」として整備され、構内は島式ホームである2.3番線を残し整地され、線路も2番線のみが保存された。また駅舎も改装し、「黒野駅ミュージアム」として開業。揖斐線の備品などが展示されているほか、かつて駅務室だった出札口や2階部分にも入ることができるようになった。
 @黒野駅構造は単式ホーム・島式ホーム各1面の2面3線。駅舎とホームの行き来には、構内の踏切を経由する必要があった。また、駅舎と島式ホームの間に車庫が併設されていた。駅舎の改札外に待合室が、改札内に男女共用の水洗式便所があった。また、構内には車両基地(黒野検車区)があり、揖斐線運行の要や夜間滞泊場所として機能していた。1番線から3番線まであったが、谷汲線廃止後の晩年は2番線のみが旅客の乗降に使用された。駅舎側から3・2番線(島式ホーム)、1番線(単式ホーム)の順になっていた。
@黒野駅から続く廃線跡。「黒野駅レールパーク」として整備されている。
@黒野駅ミュージアムに展示されている、揖斐線、谷汲線の備品。
@黒野駅ミュージアムに展示されている、揖斐線、谷汲線の備品。
@黒野駅ミュージアムに展示されている、揖斐線、谷汲線の備品。
@黒野駅ミュージアムに展示されている谷汲線の写真。
@黒野駅ミュージアムに展示されている谷汲線の駅名標。
A名鉄谷汲線の黒野駅 - 黒野西口駅間の廃線跡。
 B黒野西口駅(くろのにしぐちえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道(名鉄)谷汲線の駅である。黒野駅 - 黒野北口駅の間、黒野駅より540m地点に存在した。谷汲線の廃止(2001年)以前に廃駅となった。駅構造は単式1面1線。1969年(昭和44年)4月5日 - 廃止。1922年(大正11年)に谷汲鉄道は黒野駅 - 谷汲駅の免許申請を行っているが、数ヵ月後に黒野西口駅 - 新神戸駅の支線の免許を追加申請している。計画によれば、黒野西口駅から南進、揖斐川を渡り安八郡神戸町の新神戸駅で揖斐川電気養老線(現・養老鉄道養老線)広神戸駅にて接続するもので、大垣駅から谷汲駅への直通運転を視野にいれていたという。1923年(大正12年)2月には免許がおりるが、同年12月に黒野西口駅 - 新神戸駅の申請は白紙化された。理由は関東大震災の影響により資金調達が困難になったのと、美濃電気鉄道への配慮といわれている。
C名鉄谷汲線の黒野西口駅 - 黒野北口駅間の廃線跡。
D名鉄谷汲線の黒野西口駅 - 黒野北口駅間の廃線跡。
 E黒野北口駅(くろのきたぐちえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は単式1面1線で交換不可だった。2001年10月1日 谷汲線廃止とともに廃駅。
F名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
G名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
H名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
I名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
J名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
K名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。踏切跡のレールが残る。
L名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。踏切跡のレールが残る。
M名鉄谷汲線の黒野北口駅 - 豊木駅間の廃線跡。
 N豊木駅(とよきえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は単式1面1線で交換不可だった。2001年10月1日 谷汲線廃止とともに廃駅。
O名鉄谷汲線の豊木駅 - 稲富駅間の廃線跡。
P名鉄谷汲線の豊木駅 - 稲富駅間の廃線跡。
Q名鉄谷汲線の豊木駅 - 稲富駅間の廃線跡。
 R稲富駅(いなとみえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は廃止時単式1面1線で交換不可だった。ホームは両面島式仕様であるが,以前に交換できたかは不明。2001年10月1日 谷汲線廃止とともに廃駅。
S名鉄谷汲線の稲富駅 - 更地駅間の廃線跡。
@名鉄谷汲線の稲富駅 - 更地駅間の廃線跡。
A名鉄谷汲線の稲富駅 - 更地駅間の廃線跡。
B名鉄谷汲線の稲富駅 - 更地駅間の廃線跡。
 C更地駅(さらぢえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は開業当時は交換設備があり駅員も駐在していたが途中から単式1面1線となった。晩年、使用されなくなった反対側のホームの残骸は、民家の畑と化していた。2001年10月1日 谷汲線廃止とともに廃駅
D名鉄谷汲線の更地駅 - 八王子坂駅間の廃線跡。
E名鉄谷汲線の更地駅 - 八王子坂駅間の廃線跡。
F名鉄谷汲線の更地駅 - 八王子坂駅間の廃線跡。
 G八王子坂駅(はちおうじざかえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道(名鉄)谷汲線の駅である。更地駅 - 北野畑駅の間、黒野駅より4903m地点に存在した。谷汲線の廃止(2001年)以前に廃駅となった。谷汲鉄道の当初の計画ではなかったが、来振寺、来振神社の参拝の最寄り駅として追加された駅である。駅名の八王子坂は、来振寺の鬼門よけに建立された八王子神社に由来するという。駅構造は単式1面1線。1969年(昭和44年)4月5日 - 廃止。
H名鉄谷汲線の八王子坂駅 - 北野畑駅間の廃線跡。
I名鉄谷汲線の八王子坂駅 - 北野畑駅間の廃線跡。
J名鉄谷汲線の八王子坂駅 - 北野畑駅間の廃線跡。
J住友大阪セメント岐阜工場の石灰石を運ぶベルトコンベアライン
K名鉄谷汲線の八王子坂駅 - 北野畑駅間の廃線跡。
 L北野畑駅(きたのばたえき)は、岐阜県揖斐郡大野町にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日の営業限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は島式ホーム1面2線を持ち、谷汲線の列車の交換はこの駅で行われた。しかし、晩年は列車本数の減少により通常は列車の交換は行われず、行楽シーズンの休日や毎月18日の谷汲山命日に列車が増発する際のみ、列車の交換が行われるようになっていた。通常は無人駅であったが列車交換時は臨時要員が配置された。駅舎が最後まで残っていた。2001年(平成13年)10月1日 - 廃止。
M名鉄谷汲線の北野畑駅 - 赤石駅間の廃線跡。
N名鉄谷汲線の北野畑駅 - 赤石駅間の廃線跡。
 O赤石駅(あかいしえき)は、岐阜県揖斐郡谷汲村(現、揖斐川町)にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は単式ホーム1面1線のみを持ち、列車の交換はできなかった。2001年(平成13年)10月1日 - 廃止。
P名鉄谷汲線の赤石駅 - 長瀬駅間の廃線跡。
Q名鉄谷汲線の赤石駅 - 長瀬駅間の廃線跡。
R名鉄谷汲線の赤石駅 - 長瀬駅間の廃線跡。
S名鉄谷汲線の赤石駅 - 長瀬駅間の廃線跡。
 @長瀬駅(ながせえき)は、岐阜県揖斐郡谷汲村(現、揖斐川町)にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。駅構造は単式ホーム1面1線のみを持ち、列車の交換はできなかった。しかしながら、ホームの反対側にかなりスペースが空いていた。2001年(平成13年)10月1日 - 谷汲線廃止とともに廃駅。
A名鉄谷汲線の長瀬駅 - 長瀬茶所駅間の廃線跡。
 B長瀬茶所駅(ながせちゃじょえき)は、岐阜県揖斐郡谷汲村 (現・揖斐川町)にあった名古屋鉄道(名鉄)谷汲線の駅である。長瀬駅 - 結城駅の間、黒野駅より9120m地点に存在した。谷汲線の廃止(2001年)以前に廃駅となった。谷汲鉄道の当初の計画ではなかったが、正受寺の参拝の最寄り駅として追加された駅である。駅名の長瀬茶所は、正受寺の別名「お茶所さん」に由来するという。駅構造は単式1面1線。1958年(昭和33年)5月1日 - 廃止。
C名鉄谷汲線の長瀬茶所駅 - 結城駅間の廃線跡。
D名鉄谷汲線の長瀬茶所駅 - 結城駅間の廃線跡。
E名鉄谷汲線の結城駅 - 谷汲駅間の廃線跡。
F名鉄谷汲線の結城駅 - 谷汲駅間の廃線跡。
 G谷汲駅(たにぐみえき)は、岐阜県揖斐郡谷汲村(現、揖斐川町)にあった名古屋鉄道谷汲線の駅である。2001年9月30日の営業限りで、同線の廃止とともに廃駅となった。
 G谷汲駅構造は島式ホーム1面2線を持つ地上駅であったが、末期には駅舎側から見て右側の線路1本のみが使用され、残る1本は本線への接続が切られ架線も外されていた。1996年(平成8年)に村が約2億円をかけ、「谷汲村昆虫館」(現、谷汲昆虫館)を併設して建てた駅舎は今も残され、モ750形755号車、モ510形514号車が静態保存されている。また、駅舎内部の旧待合室は谷汲線資料の展示場所になっている。
 G名古屋鉄道デセホ700形電車は、名古屋鉄道(名鉄)の前身である旧・名古屋鉄道が1927年(昭和2年)4月から新製した電車。名鉄の600V区間用吊り掛け駆動車両のうち、自動進段制御器を搭載するAL車に属する。1928年(昭和3年)11月に本形式の増備車としてデセホ750形751 - 758が新製され、翌1929年には759・760の2両が増備されて、デセホ700形と同じく全10両の陣容となった。車体外観はデセホ700形とほぼ同一で、相違点は客用扉ステップ部の裾下がりが小さくなった程度である。主要機器もデセホ700形に準じているが、台車は住友金属工業製ST56型釣り合い梁式台車を装備し、車輪径も異なっていた。なお、デセホ700形・750形ともに製造は日本車輌製造で行われた。最終的にモ700形702 - 704の3両とモ750形751・752・754・755・758・759の6両、計9両が揖斐線・谷汲線に集結して同線の雑多な旧型車を淘汰し、車種の統一が図られた。なお、転入時の主電動機換装により最高速度は55km/h程度に抑えられるようになった。このように、使用線区が末端ローカル支線区であったとはいえ、車齢70年を超えて平成の世まで使用され続けた両形式であったが、モ750形751・754・755の3両については揖斐線の末端区間(黒野 - 本揖斐間)および谷汲線用車両としてその後も継続使用された。こうして両路線が廃止となる2001年(平成13年)10月1日まで使用された。モ755は現役最末期そのままの仕様で谷汲線の終着駅であった谷汲駅跡にそれぞれ静態保存されている。
 G美濃電気軌道セミボ510形電車は、美濃電気軌道(美濃電)が1926年に新製した半鋼製四軸ボギー車。美濃電が名岐鉄道へ吸収合併された際に車種記号が「セミボ」から「モ」に変更され、モ510形と改称された。その後身会社である名古屋鉄道に引き継がれ、改造を受けながら21世紀初頭まで営業運転に充てられていた。戸袋窓が楕円形状、いわゆる「丸窓」であったことが特徴で、「丸窓」「丸窓電車」の愛称で親しまれた。1967年(昭和42年)に岐阜市内線と揖斐線との直通運転が開始されるに当たり、両形式は車齢40年を超える古典車でありながら同列車用車両として転用されることとなった。これは鉄道線規格に合致する高床構造、かつ併用軌道区間を走行可能な車両ということで両形式が抜擢されたものであった。運用開始に際しては1967年(昭和42年)から翌1968年(昭和43年)にかけて、モ510形全車とモ520形522 - 526を対象に以下の改造が施工されている。モ512 - 514の3両についてはその後も残存し、同3両で適宜編成を組んで運用された。同年モ510形は鉄道友の会からエバーグリーン賞を受賞し、それを期に車体塗装を直通運転開始当初のスカーレットと白のツートンカラーに復元されている。その後1997年(平成9年)にモ780形が新製されたことにより、モ510形は定期運用を失い、以降は全車予備車扱いとなった。2000年(平成12年)にはモ512が廃車となったが、残るモ513・514は第一線からは外れたものの、他車両の検査に伴う代走や団体専用列車・臨時列車用として在籍した。2001年(平成14年)にモ750形が全廃された後は、本形式は名鉄600V線における唯一の非冷房車・ワンマン運転非対応車となった。また速度計の設備も無かったため、その運転に際しては運転士の経験と勘が必要となる車両であった。
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