更新日時 2010年09月22日
笠間人車軌道(かさまじんしゃきどう)は、茨城県西茨城郡笠間町(現・笠間市)にかつて存在した人車軌道、およびその運営会社である。笠間稲荷神社への参拝客輸送を主目的に、1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)まで営業した。後に笠間稲荷軌道、笠間稲荷運輸と改称した。1889年(明治22年)に開通した水戸鉄道(現・水戸線)の笠間駅は、笠間の市街から1km以上離れた所に設置されていた。この理由については、鉄道によって宿場が寂れるとして反対運動が起きた(鉄道忌避伝説)という説もあるが、笠間市街の東に佐白山が位置することから、市街に接近させようとすれば路線が大きな迂回を余儀なくされてしまうため、これを避けたのが実際だろうと推測されている。一方、参拝客で賑わう観光地であった笠間稲荷神社は笠間市街にあったことから、神社と笠間駅とを結ぶ人車軌道が計画されることになる。こうして、1915年(大正4年)11月22日に笠間人車軌道が開業した。社長は飯野繁次郎、資本金は2万円であった。開業当初の営業成績は好調であったが、1925年(大正14年)ごろになると乗合バスとの競合にさらされるようになり、また「言語ニ絶スル時代錯誤ニシテ実ニ笠間町体面上一日モ存置スルヲ許サズ之レ人車軌道ノ撤廃ヲ要求スル所以」などとして撤廃陳情も起こるようになった。1925年に当線を実地調査した鉄道省の担当者は、会社経営陣が収益のみを重視し、設備荒廃がなおざりにされているという主旨の報告を残しており、また当時の株式配当は3割という異常な過大配当であったともいう。これらの事情と、人身事故を減らすため、後押しである人車から前面で運転する内燃動力車両に切り換えるようにと指導があったこともあって、1925年にオットー・ライメルス商会からガソリン機関車を購入し、動力切り換えを行なった。同時に客車4両も増備している。これに伴い、社名も笠間稲荷軌道へと変更された。ただし、この機関車に関しては、使用実績が不良であったためか、2年後の1927年(昭和2年)には2両のガソリン動車に置き換えられている。しかし、これらの輸送能力向上策も実らず、1926年(大正15年)の上半期を最後に黒字が出なくなるなど経営は悪化していき、1930年(昭和5年)11月17日をもって廃止された。 経営悪化の理由としては、元々1.5kmに満たない超短距離路線で経営基盤が弱かったこともさることながら、機関車・気動車購入時の借入金の利子が経営を圧迫した。軌道の終点が笠間稲荷神社の鳥居前から離れており、参拝客は下車してなお200mほど歩く必要があった。道路の維持管理費を負担する必要があり、乗合バスより経費の面で不利だった。起終点でガソリン動車を転回させる必要があり、多客時に頻発運転ができなかったといった点があげられている。 | |
上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。 | |
@笠間駅(かさまえき)は、茨城県笠間市下市毛にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)水戸線の駅である。 | |
@笠間駅構造は2面3線のホームを持つ地上駅である。Suica対応の自動改札機が設置されている。2006年(平成18年)には、ホームの段差改良工事と跨線橋の取替えに加え、跨線橋に新たにエレベーターが新設された。オペレーターとのやりとりで指定券や定期券などを購入することができる「もしもし券売機Kaeruくん」が設置されている。 | |
A笠間人車軌道廃線跡。稲荷町:この辺りは昔森や林が多く、江戸時代から稲荷社が祀られていたので小字名を稲荷林という。明治22年(1889年)に笠間駅が設置され、さらに町村制施行によって笠間町となった時、ここの集落を稲荷町と名付けた。 | |
B笠間人車軌道廃線跡。 | |
C笠間人車軌道廃線跡。 | |
D笠間人車軌道廃線跡。 | |
D笠間人車軌道廃線跡。行幸町。明治33年(1900年)明治天皇の行幸があった。笠間駅からこの地を通り行在所へ向かわれたので、これを記念して行幸通りとよんでいた。のちに町並みが出来たので「行幸町」と名付けられた。 | |
E笠間人車軌道廃線跡。 | |
F笠間人車軌道廃線跡。 | |
F笠間人車軌道笠間稲荷神社停車場跡。 | |
F笠間稲荷神社社務所。 | G写真は笠間稲荷神社HPより。 |
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)は、茨城県笠間市にある神社(稲荷神社)である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷。祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)である。五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間350万人の参拝客が訪れる。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇る。日本三大稲荷の一つとされている。東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある。社伝では白雉2年(661年)に創建されたとされるが、近世までの沿革は不詳である。『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。江戸時代になると広く知られるようになり、歴代の笠間藩主が厚く崇敬した。三代藩主松平康長や忠臣蔵で有名な浅野家なども、転封し笠間を離れても分霊を新たな領地で祀るなど、庶民のみならず歴代藩主からも手厚い信仰を受けてきた。 | |
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