更新日時 2023年07月10日

 喜連川人車鉄道は栃木県塩谷郡氏家町(現・さくら市氏家)にあった国鉄氏家駅と、同郡喜連川町(現さくら市喜連川)を結んでいた人車鉄道、およびその運営会社である。東北線の施設に当たって、測量、土木工事、架橋、トンネル掘削工事など鉄道敷設についての技術では、すでに外国人への依存を脱して、日本人の技術者によって労働者の力量も十分に発展していたが、まるでそれに逆らうように、小規模な、しかも人の力を動力とした「鉄道」が出現したのである。氏家を東北線が通ったとしても、そこから喜連川に至る支線を敷くプランは日本鉄道にはなく、喜連川町民やその沿線の住民にとっても財力上難しく、ここに小規模の輸送手段である人車鉄道がにわかに注目されるに至った。栃木県では1897年に、大谷石の切り出しを目的とした宇都宮石材軌道、1899年に野洲人車鉄道、乙女人車鉄道が開通した。工事請負をめぐる大宮組と新見組の紛争が有ったが、その後工事は順調に進み1902年2月21日に、喜連川人車鉄道は開業した。営業は1902年(明治35年)から1918年(大正7年)。1909年(明治42年)社名を喜連川人車軌道に改称している。1906年4月時点では1日7往復の客車が設定されていた。他に乗客3人以上で臨時客車の運行有り。所要時間は上り氏家行きが1時間10分、下り喜連川行きは60分。
駅一覧 路線距離:氏家 - 喜連川 8.2km
氏家(うじいえ)‐並木(なみき)‐松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)‐喜連川(きつれがわ)
      15分(20分)    10分      30分(35分)     5分(上り)  合計1時間(1時間10分)
 @氏家駅前、喜連川人車鉄道の起点はここから始まっていた。1910年4月21日改正の時刻表によれば、上りの喜連川発は、6時、7時30分、9時30分、10時30分、12時30分、3時30分の6便、下りの氏家発は、6時15分、8時、10時、1時20分、4時20分、5時15分、7時15分の7便であった。氏家の出発時刻は、東北線の下り列車の到着時刻に合わせて設定されたものであった。運賃は喜連川から松山へ8銭、並木へ10銭、氏家へ15銭。下りは、氏家から並木へ5銭、松山へ7銭で、12歳未満は半額、4歳未満は無賃であった。急行と定員6人の貸し切り車もあり、急行便は1名、50銭、貸し切り車は松山まで50銭、氏家まで90銭で、営業時間内に3人以上の乗客が有る場合は臨時客車を運行した。
 @氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。氏家タクシー付近。時刻表に見られる人車の運行は、旅客輸送のためのものであった。栃木県内に敷設された他の人車鉄道が、資材の運搬の為に開設されたのに対して、喜連川人車鉄道の場合は、明らかに人を対象としていたことに特徴があった。しかし、貨物の取り扱いも、同時に行われた。貨車は、客車と違って、屋根のない、トロッコ型のものであった。1日2往復の輸送で、取扱荷物は、煙草が代表的なものであった。
A氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。西導寺付近。
B氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。氏家駅東入口信号付近。
C氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。五行川の支流を渡る。
C氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。五行道路新設記念碑。
C氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。再び五行川の支流を渡る。
 C氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。五行川を渡り次の交差点を左折し、県道48号線方向へ喜連川人車鉄道は続いていた。
D氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。県道48号線に突き当たり喜連川方向へ。
E氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。櫻野中交差点付近。
F氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。八幡宮付近。
G氏家(うじいえ)‐並木(なみき)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。桜野交差点付近。
H並木(なみき)停車場付近と思われる。並木バス停付近。
H(並木停車場)並木バス停付近はさくら市上野のマンホール。
I松山(まつやま)停車場付近と思われる。松山バス停付近。
J松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。
K松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。ここで大きく南側へカーブして行く。
L松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。市の堀用水と並行に進む。
M松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。ニッカウヰスキー工場前。
N松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。廃線跡は当然旧道側と思われる。
N喜連川人車鉄道の弥五郎坂駅跡(2023年07月08日撮影)
N喜連川人車鉄道の弥五郎坂駅跡(2023年07月08日撮影)
N喜連川人車鉄道の弥五郎坂駅跡(2023年07月08日撮影)
N喜連川人車鉄道の弥五郎坂駅跡(2023年07月08日撮影)
N喜連川人車鉄道の弥五郎坂駅跡(2023年07月08日撮影)
N松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。早乙女トンネルが有った付近?
N松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。新道との合流部。
O松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。廃線跡は当然旧道側と思われる。
O松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。五郎坂付近。
O松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。新道との合流部。
P松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。廃線跡は当然旧道側と思われる。
P松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。新道との合流部。
Q松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。
 R松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。国道293号線から県道114号線方向(喜連川市街)へ喜連川人車鉄道は続いていた。
S松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。喜連川人車鉄道の専用道だった。
Sこの築堤は人車鉄道当時に造られたものと思われる。(専用道)
@松山(まつやま)‐荒川(あらかわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。荒川を渡る橋梁。
 @道標「右江戸道 左下妻道」この道しるべは、町の南端ここ葛城に残っており、近世五大街道の一つで、江戸と奥羽をつなぐ主要道だった奥州街道の名残を偲ばせています。喜連川人車鉄道は喜連川から荒川を渡ると右に曲がって進む陸羽街道とは別に、左に折れて新設された専用道を真っ直ぐ南下した。
A荒川を渡った辺りに荒川(あらかわ)停車場が有ったと思われる。
B荒川(あらかわ)‐喜連川(きつれがわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。
C荒川(あらかわ)‐喜連川(きつれがわ)間の喜連川人車鉄道の廃線跡。
 D喜連川(きつれがわ)停車場付近。喜連川市役所・図書館付近。喜連川人車鉄道は、本町の喜連川警察分署の隣に本社が有り、道路を隔てて向かいには喜連川銀行、喜連川病院があった。そこを出発点として、荒川に至った。
喜連川人車鐵道株式会社定款。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『さくら市』を掲載」
出典:喜連川町史. 第7巻(通史編 2) 206ページ〜218ページ。
廃線探索 喜連川人車鉄道