廃線探索 日本煉瓦製造専用線

更新日時 2013年10月31日

 日本煉瓦製造専用線:日本煉瓦製造で製造された煉瓦は当初は利根川を利用して運んでいたが、輸送力向上を目的としてに日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。本路線は廃線となった。その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」になっている。近くにあるブリッジパークには、この路線で使用されていた福川鉄橋が保存されている。日本煉瓦製造(にほんれんがせいぞう、日本煉瓦製造株式会社)は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。明治政府は臨時建築局を設置し、ドイツ人建築家のヴィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデをお雇い外国人として日本に招いた。彼らは都市整備のために良質な煉瓦、ならびにそれを製造する工場が必要であることを明治政府に進言した。これにより渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。2006年、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、精算された。会社清算に伴い、埼玉県深谷市にあった工場の諸施設は、すでに重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。
 @深谷駅(ふかやえき)は、埼玉県深谷市西島町三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線の駅である。上野駅発着系統のほか、新宿駅経由の東海道線直通列車(湘南新宿ライン)も停車する。1895年(明治28年)7月 - 日本煉瓦製造の専用鉄道線が敷設される。1975年(昭和50年)3月31日 - 日本煉瓦製造の専用線廃止。
 @深谷駅構造は単式・島式ホーム2面3線の地上駅で、橋上駅舎を有している。みどりの窓口(営業時間 6時 - 21時)・自動改札機・指定席券売機(1台)・券売機(3台)設置。改装された現在の駅舎は東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザインで、「ミニ東京駅」とも呼ばれる。これは、大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在する日本煉瓦製造で製造された煉瓦が70キロ以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたという史実に因む。ただし、この深谷駅舎自体はレンガ構造ではなく、コンクリート壁面の一面にレンガ風のタイルを貼ることによって東京駅に似せている。ホーム有効長はすべて15両編成に対応(14両の特急列車も停車)しており、当駅始発あるいは終着の列車は15両編成で運行されている。ただし、高崎方面に向かう普通・快速・特別快速列車は車両基地の関係上、手前の籠原駅で切り離されており、当駅停車の時点では10両編成である。
A日本煉瓦製造専用線の廃線跡。
B日本煉瓦製造専用線の廃線跡。つばき橋当時のガーター橋を利用している。
C日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
D日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
E日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
F日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
G日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
H日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
I日本煉瓦製造専用線の廃線跡。深谷は深谷ネギの産地である。
J日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
K日本煉瓦製造専用線の廃線跡。福川に架かるあかね橋。
 L福川橋梁:日本煉瓦製造株式会社専用線に架設された鉄橋で、福川に架けられていたプレート・ガーター橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーター橋からなっていました。ポーナル型プレート・ガーター橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895年〜1901年)に全国各地で建造されました。福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 L福川橋梁のプレート・ガーター橋:プレート・ガーター橋は、全長10.1mで、明治28年(1895年)の建設当初の姿を殆どそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 L福川橋梁のボックス・ガーター橋:ボックス・ガーター橋は、全長22.9mで、洪水の時に福川から溢れた水の逃げ場をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようです。
M日本煉瓦製造専用線の廃線跡。廃線跡は遊歩道に転用されている。
N日本煉瓦製造専用線の廃線跡。国道17号線深谷バイパスを潜る。
O日本煉瓦製造専用線の廃線跡。国道17号線深谷バイパスを潜る。
P日本煉瓦製造専用線の廃線跡。国道17号線深谷バイパスを潜る。
Q水路の架設された煉瓦アーチ橋。
 Q備前渠鉄橋:煉瓦輸送専用線用に架設された鉄橋である。創業当時から輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するために建設されたのが本専用線であり、明治28年深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。専用線には4ヶ所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道院技師、イギリス人チャールズ・アセトン・W・ポーナルが基本規定を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ポーナル型プレート・ガーター橋」が採用された。中でも本鉄橋は15.7mと専用線中最長の橋桁を有している。
Q備前渠鉄橋(ポーナル型プレートガーダー型) Qこの先は敷地内へ線路が延びていた。
 R小口積みの煉瓦。日本煉瓦製造で造られた煉瓦と思われる。煉瓦の小口のみを千鳥(ジグザグ)に積む方式。ドイツ積みとも呼ばれる。
 R旧変電室は、明治末の電灯線の架設時に建設。屋根や窓等多少の改修はあったものの建設時とほとんど変わらない姿のまま保存されている。
R撤去したレールが残されている。 R現在の浄水場の中まで線路は延びていた。
 R日本煉瓦製造株式会社旧事務所:建物は明治21年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったネスチェンテス・チーゼ技師が居住兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが、中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免新井に決定された。地0是はチーゼは娘クララと共に明治22年12月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
 Sホフマン輪窯6号窯:ホフマン窯は煉瓦を焼くための施設である。ホフマン式輪窯とも。ドイツ人技師ホフマン(Friedrich Hoffman)が考案し、1858年に特許を取得した。明治40年に建設、昭和43年に操業を停止した。長さ65.5m、幅20m、高さ3.3mの小判形の平面を持つ。その全体は、18の焼成室に分かれ、各部屋の内法は、長さ約6m、幅4m、最も高い天井高2.6mである。月産生産高65万個の煉瓦が生産されたという。東京駅や赤坂離宮(現迎賓館)などの赤レンガもここで作られた。昭和53年深谷市指定文化財、昭和55年埼玉県指定有形文化財の指定を経た。
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出典: 埼玉県深谷市の歴史と文化財