更新日時 2010年05月11日

 大谷石(おおやいし)は軽石凝灰岩の一種。栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。日本列島の大半がまだ海中にあった新生代第三紀の前半、火山が噴火して噴出した火山灰や砂礫が海水中に沈殿して、それが凝固してできたものとされている。大谷町付近の大谷石の分布は、東西8km、南北37kmにわたり、地下200〜300mの深さまであることが確認されており、埋蔵量は10億トンと推定されている。地下30mの「大谷石地下採掘場跡」は、東京ドームが入ってしまう程の巨大な地下空間で、古代ローマ遺跡を思わせる壮観かつ、幻想的な雰囲気となっております。この巨大地下空間では、コンサートや美術展なども開かれ、イベントスペースとしても注目を集めています。   
宇都宮市大谷町周辺では大谷石の切り出した跡や大谷石があちらこちらむき出しになっている。
大谷資料館入口。
大谷資料館。
 明治30年(1897年)、城山村荒針(大谷町)を結ぶ6.3qの人車軌道が営業を開始しました。(その後分岐・延長し26.8qまで拡大)客車は定員6名、貨車は石を12駄(五十石を24本)積んで運ぶことが出来、いずれも人間が2人がかりで後ろから押して人や石を運ぶ物でした。大正4年(1915年)、国鉄鶴田駅と荒針間に鉄道が開通し、蒸気機関車で石材の輸送が行われるようになりましたが、1960年代にはほとんどトラックでの輸送が中心になりました。
チェン・ソー式垣根採掘機。 チェーンソー採掘機。
丸鋸式平場採掘機。 石切工具類。
 石瓦  総合石銘板。
地下空間入口。1979年 : 大谷資料館がオープン。地下採掘場が公開される。
デジカメの ISO800相当で撮影しても暗いですね。
 採掘の手掘り時代は機械化される以前の手掘り時代には、切り出すときにつるはしが利用されていた。手堀りによる採掘法では、五十石(5寸×1尺×3尺)の大きさの石を一本掘るのに4,000回もつるはしを振るったとされる。また1人の1日の採掘量は10本だった。このような手堀による採掘は、採掘方法が機械化された昭和35年ごろまで行われていた。
 採掘の機械化後は大谷石発掘の機械化が考えられるようになったのは、昭和27年からで、機械が大谷全体に普及したのは昭和35年ごろである。機械による採掘法では五十石の大きさの石が1人で1日50本採掘可能である。
 竪坑はこの坑内の位置が地表のどのあたりに来ているか、知るために掘られたものです。 立入禁止区域も多くある。
現代アートも展示されている。
 この坑内は、大正8年(1919年)から昭和61年(1986年)に渡り採掘が行われました。広さは約20,000u(間口150m×奥行140m)深さは地下約30mで、柱をのぞくと東京ドームが1つ入る大きさです。この空間の容積は約300,000立方b、約1,000万本の石が切り出されました。
展示物が暗くて解りません(笑) 機械堀りの跡。
1944年 : 大谷石地下採掘場の広大な空間は、陸軍糧秣廠・被服廠の地下秘密倉庫に利用される。
 大谷石の用途は主に住宅・倉庫(石倉)・防火壁・貼石・石塀・門柱・敷石・石垣・土止め石(擁壁)等、建築素材として使用される。近年では、他の建築素材で真似の出来る、防火性等性能・性質面より、真似の出来ないその素材感・質感を建造物に取り入れるために薄くスライスされて壁材や床材として使用されることも多い。宇都宮周辺では古くから、石蔵をはじめとした建築物の外壁、プラットホーム、石垣や階段、門柱に大谷石が盛んに利用されている。宇都宮駅東口の餃子像や、1932年に建設された宇都宮カトリック教会(通称:松が峰教会)も大谷石造である。また、その耐火性・蓄熱性の高さからパン釜やピザ釜等、石釜の構造材として用いられる。
 手掘り時代には地下の深い採掘場から背負って運び出していた。石塀に使用される石(五十石)1本の重さが70kg程あり、重い石では140kgの石まで1人で1本担ぎ出したとされている。外に運び出された石は馬車や人車(トロッコ)、荷船で遠くまで運ばれた。現在では、地下の深い採掘場からは、モーター・ウィンチという機械で石が巻き上げられ、トラックや貨車で全国各地に運び出されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
巨大地下空間「大谷資料館」