更新日時 2016年09月30日

博物館 明治村
 博物館 明治村は、明治時代の建物等を移築・復元し、当時の歴史や文化を今日に伝えようとする野外博物館である。通称「明治村」。愛知県犬山市にある。価値ある建築物ほど現状(元の場所)のまま保存するのがベストではあるが、1960年代当時は経済発展(新しい街づくり)が最優先された時期でもあり、次善の策として、土地開発の妨げになるなどの理由で保存が難しい(建築物の歴史的価値を認めて貰えない)ものを譲受けて移築し、その修復・保存に努めるための財団法人を1962年(昭和37年)7月16日に設立した。鉄道、郵便、酒造業、病院、裁判所、芝居小屋、学校、教会、灯台など明治の社会、文化の様々な領域を取上げ、当時の建物とその内部の関連の展示で、一望することが出来るようになっている。歴史的に貴重な文化財を保存しているとともに、明治時代を追体験できる一種のテーマパークといえるだろう。鉄道資料は、静態保存だけでなく、旧京都電気鉄道(後に京都市電)の車両や蒸気機関車(名古屋鉄道12号 - 旧鉄道院160形)など、明治の車両を動態保存していることも特筆すべきことである。いずれも館内移動用の乗り物として実際に乗車できる。
 第八高等学校正門 旧所在地 名古屋市瑞穂区瑞穂町 建設年代 明治42年(1909) 現在「博物館明治村」の正門として使われているこの門は、もと名古屋の旧制第八高等学校の正門であった。同校は明治41年(1908)に設立され、愛知県立第一中学校の旧校舎を借りて開校したが、翌42年12月に新校舎が落成し、移転した。四本の門柱は、赤いレンガに白い花崗岩を帯状に配して作られており、この構成は明治洋風建築によく用いられたものであった。また中央の両開門扉、脇門の片開門扉、袖柵は細い鉄材で作られ、軽快なものとなっている。ここに使われている材料は、いずれも当時の洋風建築を語る時欠くことのできないものである。明治5年(1872)の学制公布から十数年を経て、明治19年森有礼によって一大教育改革が行われ、「小学校令」「中学校令」「帝国大学令」「師範学校令」が定められた。これにより小学校、中学校、師範学校にはそれぞれ尋常と高等の二段階の学校が設けられ、四年間の尋常小学校は義務教育とされた。遅れて明治27年(1894)には「高等学校令」が定められ、それまでの高等中学校が高等学校に改称・改組された。この改革により、その後数十年にわたって整備・拡充されていく学校制度の基礎が築かれた。明治時代に作られ、重要文化財に指定されている洋風の門が二つある。一つは明治10年学習院の正門として作られたもの、もう一つは明治11年東京杉並の妙法寺に建てられた門である。いずれも鋳鉄で作られ、和洋のデザインを混用している。
 大井牛肉店 旧所在地 神戸市生田区元町 建設年代 明治20年(1887)頃 横浜、長崎につぎ、慶応3年(1867)神戸が開港した。外国船が寄港し、外国人居留地には外国人の住宅が次々と建てられた。これに伴い、外国人相手の商売が興り、船や在住外国人に牛肉を納める者達も出てきた。その一人岸田伊之助が明治20年(1887)頃牛肉販売と牛鍋の店として建てたのが、大井牛肉店である。外国の商館が立ち並ぶ新しい町、その街中の商店にふさわしく、洋風の建物で、正面を華やかに飾った。一階の入口と二階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたせるとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配して全体を大きくみせている。洋風のデザインであるが、日本古来の技法が用いられ、木造に白漆喰を塗って柱や窓廻りを形作っている。屋根構造も和小屋で、桟瓦を葺いている。 玄関を入ると、店の土間が建物の前半分を占め、裏に抜ける通り土間が左奥に、右奥には座敷の配置となっている。牛鍋を供する場所は二階の大小四つの部屋でありいずれも板敷きの洋間になっている。大井牛肉店正面を飾る柱のデザインは、ギリシャ・ローマ建築の様式の一種で、コリント式と呼ばれ、華やかなものとして知られている。手摺を支える“とっくり型”の手摺子はルネサンス以降に発達したものである。洋風が目立つ正面の意匠の中で、ひときわ異彩をはなつ玄関の庇。京風のむくり破風に鶴を飾り、金の浮き文字看板を掲げている。牛鍋(すき焼)日本では獣の肉は嫌われていたが、開国に伴い外人が牛肉を食する習慣を知ると、「牛肉食わねば開化不進奴」と粋がる風潮が、東京を皮切りに次第に全国に広がっていった。明治村の大井牛肉店は、牛鍋屋としての営業も行っている。
 三重県尋常師範学校・蔵持小学校  旧所在地 三重県名張市蔵持 建設年代 明治21年(1888) 明治19年(1886)の師範学校令により、東京に高等師範学校が、又各県に一校ずつ尋常師範学校が設けられることになった。尋常師範学校は小学校教師の養成を目的としており、国民皆学の基礎となったものである。明治21年に三重県の尋常師範学校本館として建てられたこの建物は、昭和3年(1928)、本館の改築に伴い県下名張市の蔵持村に売却・移築され、蔵持小学校として使われていた。明治村で保存公開されている三重県庁舎と同じ清水義八の設計になり、三重県庁舎と同様、E字形左右対称二階建であったが、昭和48年(1973)明治村に移築保存するに際しては、特色ある中央玄関部分と右翼の二教室分のみを遺した。
 県庁舎が清水義八による洋風建築初期の作品で、単純で古典的な印象を与えるのに対し、約10年のちのこの建物ではデザインが消化されて、中央の玄関部を除けば穏やかにまとめられている。玄関は四本の円柱を立ててアーケードとし、二階にベランダを設け、入母屋の屋根をいただく。アーチや入母屋の破風に草花をモチーフとした縁飾りをあしらい、懸魚にも洋風の雰囲気を遺している。二階ベランダの手摺、軒廻り、入母屋妻のデザインなどにも設計者の工夫が見られる。翼屋の教室部分の外壁は洋風の下見板張りになっており、白漆喰塗の玄関部とあざやかなコントラストをなしている。車寄の柱は三重県庁舎と同じ古代ローマのトスカナ様に作られているが、柱の上ではなく柱の中途に持ち送りを出してアーチを支えている。このように柱間にアーチを組み込むのは中世以降の構成である。一方、通り抜けの入口は両側に太い石の柱を建て、その上に厚い石のアーチを架け渡している。
 近衛局本部付属舎 旧所在地 東京都千代田区千代田 建設年代 明治21年(1888)  慶応3年(1867)の大政奉還ののち、徳川幕府の居城であった江戸城は天皇の城となり、明治2年(1869)1日西丸殿舎を宮殿としたが、同6年に炎上、このため新宮殿建設の計画が立てられた。西南戦争等で遅れ、皇居内の建物が一応の整備をみたのは明治21年(1888)のことである。 この建物は宮城警護のために設置された皇宮警察の庁舎の一部で、明治20年(1887)坂下門内に着工されたが、建設中に用途を近衛局(1889年、近衛師団と改称)本部に変更して翌年に完成した。その後、師団本部は移転したため、皇宮警察本部がここへ移り、昭和42年(1967)まで坂下護衛所として使用した。木造平家建瓦葺で内外壁を白漆喰で塗りあげたこの別館は、正面に軽快なアーケードを配した開放的な建物になっており、アーチを縁どる細い水切も軽やかな印象を与えている。古図によれば、創建当初は八つのアーチの柱間に高さ90cm程の鋳鉄製の手摺があり、なお華やかなものであった。しかし、解体時には失われており、このため復原されていないが、基壇等一の所々に開けられた床下換気口の格子金具に当時のデザインの一端をしのぶことができる。尚、明治村への移築・復原に際して、室内の間仕切壁を取り払った。
 赤坂離宮正門哨舎 旧所在地 東京都港区元赤坂 建設年代 明治41年(1908) 銅板葺の丸屋根をいただき、外壁を白ペンキで塗ったこの可愛らしい建物は、赤坂離宮正門両脇の内外に、離宮の創建当初からその警護のため設けられていた四基の哨舎のうちの一つである。現在迎賓館となっている赤坂離宮は、明治42年(1909)東宮御所として竣工した代表的な明治の洋風宮殿で、本館前面には広大な西洋式庭園をはさんで見事な洋風の正門が設けられ、この正門哨舎もこれらに調和するよう設計されている。元紀州徳川家の中屋敷は、明治5年(1872)赤坂離宮とされ、翌6年の皇居炎上から同21年(1888)の新皇居落成までは仮皇居となっていた。その後は東宮御所として使われることになり、明治20年代の末、新御殿造営の計画が開始された。設計にあたった片山東熊は、明治10年(1877)に開講された工部大学校造家学科でイギリス人建築家コンドルの教えを受けた第一回卒業生四人のうちの一人で、卒業後は工部省を経て宮内省内匠寮に移り、帝国奈良博物館、帝国京都博物館等を手がけ、宮廷建築家となった。片山は赤坂離宮の設計にあたって、調査のため度々欧米諸国を訪ねているが、なかでもフランスのベルサイユ宮殿やルーブル宮殿の意匠に強い興味を示し、設計の範としている。
 聖ヨハネ教会堂 《重要文化財》 旧所在地 京都市下京区河原町通五條 建設年代 明治40年(1907) 明治6年(1873)、鎖国以来二百数十年続いたキリスト教の禁止令が解かれ、各地に教会堂が建てられるようになった。この聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907)京都の河原町通りに建てられたプロテスタントの一派日本聖公会の京都五條教会で、二階が会堂に、一階は日曜学校や幼稚園に使われていた。中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観で、正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配された教会である。正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられ、室内が大変明るい。構造は、一階がレンガ造、二階が木造で造られ、屋根には軽い金属板が葺かれておりこれは日本に多い地震への配慮とも考えられる。また構造自体がそのまま優れたデザインとして外観・内観にあらわれている。
 開国後多くの宣教師が来日するが、その中には宣教だけでなく実業面、教育面でも業績を遺した人もいた。この教会堂を設計したアメリカ人ガーディナーもその一人である。ハーバード大学で建築を学んだガーディナーは明治13年(1880)来日、立教学校の校長として教育宣教にあたる一方、建築家としても立教大学校校舎、明治学院ヘボン館、日光真光教会等の作品を遺している。十字形平面の会堂内部は、化粧の小屋裏をあらわし、柱などの骨組が細目に見えることもあって、実際より広く感じさせる。京都の気候に合わせて使ったと言われる天井の竹の簀も、明るい窓の光を反射させ、より開放感を増している。建物細部の随所にゴシック風の尖頭アーチが見られるが、特に正面入口がよい例で、レンガ積の角柱から柱頭飾りをはさんでレンガ積のきれいなアーチが立ち上っている。奥の欄間の二つの三葉形アーチの窓や板扉の大形の金具のデザインも中世風のものである。
 学習院長官舎 旧所在地 東京都豊島区目白 建設年代 明治42年(1909) 文明開化の名のもとに、様々な場で洋風化が進められていくが、なかでも官公庁をはじめ、学校、軍隊、商工業などの仕事の場、公的な場では早くから洋式が採り入れられた。これに対し、私的な生活の場である住宅においては、洋風の波が及ぶものの完全には洋式とは成り得ず、和洋の混在する形式が生まれた。明治42年(1909)に建てられたこの学習院長官舎も洋館と和館とをつなぎ合わせた形式になっている。学習院長という公的な立場での接客や実務には洋館部分を使い、私的な生活には日本座敷を用いた。立式生活の場である洋館は軒端が高くいかめしい造りで、洋風の下見板張の壁面には水切を兼ねた胴蛇腹が廻らされ、その上下に丈の高い上ゲ下ゲ窓が整然と並んでいる。一方、座式生活の場である和館は、総二階建であるが、洋館に比べ屋根が低い。
 この学習院長官舎は、学習院が四谷から現在の目白に移された際、他の校舎とともにその構内に建設されたものであるが、当時の学習院長は陸軍大将乃木希典で、第十代目にあたる。 巾の広い階段室を間に、手前に洋館、奥に和館を接続させており、階段室の前には玄関ホールを設置している。この階段室を通って上下階とも洋館と和館の間を行き来できるようになっているが、さらに和館の奥に専用の階段が設けられている。玄関には鉄製の軽やかな屋根がかかり、その妻には桜の花弁を表した飾りが設けられている。
 西郷從道邸 《重要文化財》 旧所在地 東京都目黒区上目黒 建設年代 明治10年(1877)代 木造総二階建銅板葺のこの洋館は、明治10年代(1877〜1886)のはじめ西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の自邸内に建てたものである。西郷從道は、明治初年から度々海外に視察に出掛け、国内では陸・海軍、農商務、内務等の大臣を歴任、維新政府の中枢に居た人物で、在日外交官との接触も多かった。そのため「西郷山」と呼ばれる程の広い敷地内に、和風の本館と少し隔てて本格的な洋館を接客の場として設けたのである。在日中のフランス人建築家レスカスの設計と考えられ、半円形に張り出されたベランダ、上下階の手摺等デザインもさることながら、耐震性を高めるための工夫がこらされている。屋根に重い瓦を使わず、軽い銅板を葺いたり、壁の下の方にレンガをおもり代わりに埋め込み、建物の浮き上がりを防いでいること等にその現れをみることができる。
 レスカスは明治5年(1872)には生野鉱山の建設に従事、同6年には皇居の地盤調査にも参加している。また、ドイツ公使館や三菱郵船会社の建物を設計し、明治20年頃まで建築事務所を開業していたが、その傍ら、日本建築の耐震性についての論文をまとめ、自国の学会誌に寄せている。二階各室には丈の高い窓が開けられている。フランス窓と呼ばれるもので、内開きのガラス戸に加えて外開きの鎧戸が備えられ、窓台が低いため、間に鉄製の手摺が付けられている。
 窓上のカーテンボックス、手摺、扉金具、天井に張られた押し出し模様の鉄板、そして流れるような曲線の廻り階段(写真左上)等、内部を飾る部品は殆ど舶来品と思われる。特にこの廻り階段は、姿が美しいだけでなく、昇り降りが大変楽な優れたものである。
 森鴎外・夏目漱石住宅 《旧東京都旧跡》旧所在地 東京都文京区千駄木町 建設年代 明治20年(1887)頃 明治中期のごくありふれた建坪39坪(129.5u)余りのこの建物には、数々の由緒が遺されている。明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものであるが、空家のままであったのを、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。又、明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。 鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていった。その後数々の作品を残し、明治の文豪の一人に挙げられるが、本業は陸軍の軍医で、明治17年(1884)から4年間ヨーロッパに留学、教育を受ける間に、「日本家屋論」をドイツの学会で発表した。これは、日本の家について、欧米から「不衛生」等と指摘されることに反駁するための論文であったが、認めざるを得ない点として、次のように示している。“家が低く、立ち机には向かない。畳は不衛生な材料である。家の構造そのものが暖房に向いていない。”と。
 一方、約10年遅れてこの家に住んだ漱石は、ここで「吾輩は猫である」を発表、文壇にその名を高めた。文中に描写された家の様子は、猫のためのくぐり戸をはじめ、よくこの家の姿を写している。二人の文豪が相次いで住んだことは由緒のあることだが、この家が当時の典型的中流住宅であって、かつ現代住宅へ発展していく新しい芽がいくつか含まれている点も注目される。3畳の女中部屋の前に、ほんの短いものではあるが中廊下のはじまりが見られ、各部屋の独立へと一歩踏み出している。また、南の面に書斎を突き出して建てており、この形が後に洋間の応接室として独立していく。西郷從道邸、学習院長官舎等と比較する時、一般庶民の洋風化の限界がそこにある。「文づかひ」「吾輩は猫である」ここに住んだ時期、鴎外は雑誌「しがらみ草紙」を編集刊行、また、留学体験に想を得たドイツ三部作の三作目「文づかひ」を発表、漱石は「吾輩は猫である」の他、「坊ちゃん」「草枕」等の名作を世に送った。
 東京盲学校車寄 旧所在地 東京都文京区目白台 建設年代 明治43年(1910) 福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年〔1866〕刊)には欧米における盲人及び聾唖者教育の実情も記されており、その中に点字による教育実践の様子が書かれている。日本で最初に盲人教育が行われたのは、明治6年(1873)頃であるが、まだ組織化されたものではなかった。明治13年、築地に私立の訓盲院が作られ、本格的な障害者教育が開始された。その後国立となり、一時は盲唖学校として障害者の一元的教育を目指した時期もあったが、明治41年(1908)盲唖分離を目的として小石川雑司ヶ谷町に東京盲学校が建設されることになり、同43年6月本館が完成した。本館は木造二階建、間口62mにも及ぶ大建築で、板張の壁面に柱、桁、胴差等の垂直材・水平材と筋違い等の斜材を浮き出して装飾とするハーフティンバーと呼ばれる様式が使われたが、これは明治末期の学校建築の典型的なスタイルであった。明治村は、この本館が昭和42年(1967)取り壊される際、デザインの凝縮されたその車寄だけを移築保存し、日本庭園の一角に据えて「あずまや」とした。
 二重橋飾電燈 旧所在地 東京都千代田区千代田 建設年代 明治21年(1888) 「二重橋」は皇居前広場から見て奥の橋、「江戸城西の丸下乗橋」の通称である。堀から石垣まで大変高いため、江戸時代、ここに橋を架けるに際して、橋脚を建てることが難しく、実際の橋の下に支えのための橋を設け二重とした。また、明治21年(1888)、皇居造営に伴い新しい鉄橋に架け替えられると、手前の橋と重なって二重に見えるようにもなった。この鉄製の飾電燈は、その新しい鉄橋の両たもとに計四基立てられたものの一つで、橋とともにドイツで作られた典型的なネオ・バロック様式のものである。明治村では橋の高欄の一部とともに展示している。明治初期のガス燈に引き続き、明治11年(1878)には日本で初めての電燈がともされた。これはアーク燈であったが、1879年(明治12年)エジソンが竹のフィラメントを使って白熱燈の実用化に成功すると、日本でもいち早く開発・研究に着手、数々の実験を経て、明治18年の東京銀行集会所新築に際し40個の白熱燈が点燈された。その2年後には東京電燈会社によって、日本橋区南茅場町の発電所から、江戸橋郵便局、銀行、その他に送電が始められた。明治21年の皇居造営に際しては、麹町に発電所を設けて送電、この飾電燈をはじめ皇居内に明かりをともした。この様に、当時は現代と異なり、その需要に応じて近くに発電所を設置し、送電していた。
 鉄道局新橋工場 建設年代 明治22年(1889) 開国前、ロシア使節プチャーチン、アメリカ使節ペリーがそれぞれ蒸気機関車の模型を持参した。それに刺激された佐賀藩では安政2年(1855)、日本最初の模型機関車を製作した。維新の後、新政府は政治安定のためには東西両京を結ぶ鉄道が必要と決意し、調査に着手した。そして明治5年(1872)新橋・横浜間に初めての蒸気機関車が走り、ついで同7年には大阪・神戸間も開通、東西の基点ができた。当時の役所は鉄道寮と称し東京に置かれていたが、明治7年本拠を大阪に移し、同10年鉄道局と改称、さらに同14年には本局が神戸に移された。これより先明治8年には神戸工場で国産第一号の客車が製造されているが、これはイギリスから輸入した走行部分に国産の木材の車体を載せて造られたものであった。なお、蒸気機関車の国産第一号の製造はこれより大きく遅れ、明治27年(1894)にやはり神戸工場で完成している。客車・機関車の国産化が進められるのと同様、鉄道施設の国産化も行われた。明治22年(1889)に建てられたこの鉄道局新橋工場は、日本で製作された鋳鉄柱、小屋組鉄トラス、鉄製下見板、サッシ等を組み立てたもので、屋根は銅板で葺かれている。明治初年にイギリスから資材一切を輸入して造られた鉄道寮新橋工場(明治村4丁目に移築保存)に倣って、フィート・インチを設計寸法として造られているが、国産鉄造建築物の初期の実例として、当時の我が国の技術水準を知る上でも貴重なものである。
 この鉄道局新橋工場の小屋組は、鉄製キングポストトラスで、形式・部材形状ともに先の鉄道寮新橋工場に倣ったものであるが、現代の小屋組よりもシンプルで軽やかである。明かり取りになっている越屋根は、後に付け加えられたものであるが、ここに使われている鉄製窓サッシには「I.G.R.KOBE1889」との陽刻銘があって、鉄柱と同年代の国産鉄製サッシとして貴重である。
 明治天皇御料車(6号御料車)《鉄道記念物》この御料車は明治時代に製造された6両の御料車のうち一番最後のものである。車輌の全長は20m余、総重量約33.5tの木製3軸ボギー車である。この車輌は歴代の御料車の中でもっとも豪華な車輌といわれ、車内天井に張られた蜀江錦、御座所内の金糸の刺繍や七宝装飾、また螺鈿装飾、木画といわれる木象嵌など日本の伝統的な工芸技術の粋を集めたものといえる。
 昭憲皇太后御料車(5号御料車)《鉄道記念物》御料車とは天皇・皇后・皇太后・皇太子のための特別な車輌のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として製作された車輌である。全長16m余、総重量約22tの木製2軸ボギー車で、車内には帝室技芸員の橋本雅邦・川端玉章が描いた天井画、昭憲皇太后のご実家一条家の家紋の藤をあしらった布が椅子や腰張りに使用されているなど、華麗な内装がなされている。
 三重県庁舎 《重要文化財》 旧所在地 三重県津市栄町 建設年代 明治12年(1879) 明治維新政府による地方行政は、明治2年(1869)の版籍奉還に続く明治4年の廃藩置県に始まる。この時から中央政府によって任命された府知事・県令が各府県に派遣されるようになるが、さらに明治6年には地方行政と勧業のための中央官庁として内務省が設置され、地方行政は急速にその整備が進められていった。府知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていたが、開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎を建設するようになった。この三重県庁舎も明治9年(1876)、県令岩村定高によって計画され、3年後の同12年に完成したものである。
 間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻らされている。この構成は当時の官庁建築の典型的なもので、明治9年東京大手町に建てられた内務省庁舎にならったものである。構造は木造で、内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根には桟瓦を葺いている。正面に突き出した車寄の屋根には手摺をあげ、入母屋屋根の破風には菊花紋章を飾るなどして建物の正面を引き立たせる一方、両翼の正面側の壁面角には黒漆喰で太い柱型を塗り出し、全体を引き締める役割を持たせている。尚、窓は全て上ゲ下ゲ硝子窓であるが、妻面の窓は他の部分と異なり、外に鎧戸が付けられている。
 この建物の設計は地元三重県の大工清水義八を中心に進められたが、清水義八は他にも県内の建物を手がけており、同じく明治村に移築されている三重県尋常師範学校も彼の手になったものである。
 基檀、礎石、円柱、エンタブレチュアの構成は古代ギリシャ・ローマの神殿に由来するものである。出入口や窓も洋風が取り入れられ、半円アーチや円弧アーチの形で納められている。 正面入口だけは、木製の建具枠の外側に石製の太いアーチ状の額縁が廻らされている。扉や額縁は木目塗という技法で塗装されている。洋風建築とともに西洋から伝えられた技法で木の素地を見せず、ペンキを塗って別の高価な木材種(例えばマホガニー、チークなど)の木目を描く方法である。明治村には、この木目塗が使われている建物として菅島燈台付属官舎、東山梨郡役所、長崎居留地二十五番館の三棟がある。
 千早赤阪小学校講堂 旧所在地 大阪府南河内郡千早赤阪府 建設年代 明治30年(1897)頃 一階が雨天体操場、二階が講堂となっているこの建物は、もとは大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったが、昭和4年(1929)同校の校舎が新築されるに際し、南河内郡千早赤阪村の小学校に移築されたものである。木造二階建桟瓦葺寄棟造で、建物の四周に幅1間(約1.8m)の吹放ち(ふきはなち)の廻廊をめぐらせている。二階の外壁は洋風下見坂で、出隅には柱型を付け、軒には蛇腹をまわしている。壁面に整然と並べたれた堅長の窓には欄間と上ゲ下ゲガラス戸が入れられているが、その廻りには額縁をまわすとともに、上にはペディメントを飾り、窓台下にはブラケットを付けた古典的な姿になっている。一方、下屋に隠れた一階の壁は漆喰塗真壁で柱を表面に見せ、腰には竪羽目板を張っている。四方に開けられた出入口は全て引き違いの大きなガラス戸になっていて、欄間にも引き違いガラス戸を入れている。明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになる。体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになった。なお、明治村への移築に際し、建物の高さが木造建築の法定限度を超えるため、建物四隅の壁体の中に鉄骨を埋め込んで、補強した。一階の廻廊には、二間(3.6m)ごとに細い角柱が立てられ、柱間に浅いアーチ形の幕板を入れ、その中央にペンダント状の吊束を付けている。因みに、アーチが連続した廻廊をアーケードという。奉安殿(奉安庫)奉安殿は第二次世界大戦後姿を消した学校付随施設で、天皇皇后両陛下のご真影と呼ばれる写真、教育勅語を写した勅語謄本が収められていた。学校儀式の際には、学校長が奉安殿からご真影や勅語を運び出し、生徒はご真影への拝礼、教育勅語の拝聴が義務付けられていた。この建物は2階の講堂に奉安殿が設けられていた。
 第四高等学校物理化学教室 旧所在地 石川県金沢市仙石町 建設年代 明治23年(1890)  明治19年(1886)に「中学校令」が公布され、東京大学予備門が第一高等中学校に、大阪の大学分校が第三高等中学校に改組された。引き続き、翌年には仙台に第二、金沢に第四、熊本に第五高等中学校が設置され、明治27年(1894)の「高等学校令」により、いずれも高等学校に改称・改組された。この物理化学教室は高等中学校時代の明治23年(1890)に創建され、以後、第四高等学校、金沢大学へと引き継がれてきた建物である。
 近代化を推し進めようとする明治政府にとって自然科学教育は重要な課題で、明治5年(1872)公布された学制の「小学規則」の中にも窮理学(物理)、科学、博物、生理、の四科目があげられており、初等教育の段階から重きを置かれていた。中等・高等教育においても、実験まで含めた自然科学教育が実施され、ここに見るような物理化学教室が建設された。もとはH型の大規模な建物であったが、明治村では中央部分だけを移築・保存している。木造桟瓦葺平家建であるが、階段教室の部分だけ一廻り大きくなっている。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方で、竪長の窓には下に上ゲ下ゲ窓、欄間(らんま)に回転窓が入れられている。又、軒裏には小さな換気口が数多くあけられ、実験室のドラフト・チャンバーとともに室内換気に効果をあげている。棟札によれば、この建物の工事監督は文部省技師山口半六、設計者は同じく文部省技師の久留正道である。この二人はともに明治期の学校建築の功労者であるが、特に久留正道、西洋建築の理論や技術の研究を行い、「学校建築設計大要」等を著している。この階段教室も、そういった理論の裏付けのもとに、段の勾配、天井の高さ、窓の位置・大きさ等が設計されている。この建物の一室は明治村の創立をはじめ、各方面に業績を残した故土川元夫氏の顕彰室とし、室内に氏の遺品等を展示している。
 東山梨郡役所 《重要文化財》 旧所在地 山梨県山梨市日下部町 建設年代 明治18年(1885) 廃藩置県によって始められた地方行政をより効率的に行うため、明治11年(1878)「郡区町村編制法」が施行される。これにより、県令の任命する郡長が、県令の指示のもとで郡内の町村の行政を指導監督することになった。山梨県は施行当初4郡に分けられたが、明治13年(1880)の太政官布告により9郡に改編された。東山梨郡が誕生したのはこの時で、日下部(くさかべ)村をはじめ30の村が編入された。
 発足当初、仮庁舎を使って業務が開始されたが、明治18年(1885)新庁舎としてこの建物が日下部村に落成した。当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせている。人々はそれらを「藤村式」と呼んだが、この東山梨郡役所もその一例である。正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、内務省に代表される当時の官庁建築の特徴である。 この建物は地元の職人の手になるものであるが、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使して様々な洋風の意匠を施している。ベランダの柱は凸面のひだをとった胡麻殻决り(ごまがらじゃくり)の丸柱として、洋風の束ね柱(たばねばしら)を模し、壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積の形を塗り出している。二階手摺の構成等には、純粋の洋風建築にはない面白さがある。室内では花鳥風月をあしらった天井の漆喰塗中心飾が特に美しい。
 清水医院 旧所在地 長野県木曽郡大桑村 建設年代 明治30年(1897)代 江戸時代の五街道の一つ中山道は、近江草津で東海道と分かれ、大垣、岐阜を経て鵜沼から木曽川に沿って信濃へ抜け、さらに江戸へと通じていた。木曽路の中程、妻篭と木曽福島の中間、須原の地にこの清水医院は建てられた。建造の詳しい年月は明らかではないが、その様式から凡そ明治30年代(1897〜1906)と推定される。名古屋から須原まで鉄道が開通したのが明治42年(1909)であるので、当時はまだまだ交通の不便な時代であった。因みに中央線が全通したのはその翌々年、明治44年(1911)のことである。須原に生まれた清水半次郎は、東京に出て医学を学んだ後、地元の木曽谷に戻り医院を開業したが、この医院は旅篭の立ち並ぶ街道沿いでひときわ目立つものであった。木曽檜の柿葺(こけらぶき)屋根をのせた土蔵造りであるが、表側の入口や窓をアーチ形に開けたり、白い壁に目地を切って石積みに見せたり、壁隅には柱型を付ける等、洋風のデザインが模されている。しかし、アーチ形にした窓も、建具を「上ゲ下ゲ」や「開き」にせず、室内側での引き込みにしているところなどは面白い。この清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されている。玄関を入ると通り土間に面して待合室と薬局があり、薬局には小さな投薬口が設けられている。畳敷きの待合室に続いて板張りの診療室となるが、待合室の廻りの襖(ふすま)には様々な養生訓が黒々と大書されている。二階は数奇屋風の造りの住居部分になっている。
 東松家住宅 《重要文化財》 旧所在地 名古屋市中村区船入町 建設年代 明治34年(1901)頃 東松家住宅は名古屋の中心部堀川沿いにあった商家である。東松家は明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和の初めまで堀川貯蓄銀行を営んでいた。塗屋造という江戸時代以来の伝統工法で建てられているこの建物は、創建以来、再三の増改築を経ている。江戸末期、平屋であったものを、明治28年後方へ曳家(ひきや)の上、2階の前半部を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年3階以上を増築したらしい。
 江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、大正8年に市街地建築物法により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。名古屋城から伊勢湾へと流れる運河堀川に面したこの商家は、間口が狭く奥行の深い典型的な町屋である。2階には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などを備えた茶室が設けられている。又、正面の壁が三階まで直立していのは日本の建築になかったもので、ビル化する商店建築の先駆けと言えるものである。1階左側に裏まで抜ける通り土間を通し、右側にミセ、座敷などを連ねている。通り土間の上を3階までの吹き抜けにし、高窓から明かりを入れているので、奥行きが深いにもかかわらず室内は予想外に明るい。2階3階は住まいのための部分であるが、吹き抜けに面して茶室が設けられている。茶室には露地にみたてた廊下、待合、原叟床風の床框や墨蹟窓などが備えられ、当時の商家の趣味の一端がしのばれる。
 京都中井酒造 旧所在地 京都市中京区御幸通二条 建設年代 明治3年(1870) 中井家は、江戸時代の天明7年(1787)京都河原町二条で商売を始めた。その後享和3年(1803)やや西の御幸通りで酒屋を開業したが、元治元年(1864)長州藩と会津・薩摩両藩京都御所蛤御門(はまぐりごもん)付近で衝突した事件(禁門の変)で焼失、その後、この建物が再建された。
 京都御所の南方を南北に走っている御幸町通りは豊臣秀吉が京都の町を改造した時に新たに引かれた通りである。軒が低く、屋根に緩いカーブを持たせているのは「むくり屋根」といって京都地方伝統の姿である。軒下漆喰塗りの壁には虫篭窓(むしこまど)が明けられ、屋根裏部屋の明り取りとなっている。一階正面の目の粗い格子は酒屋格子といって無双窓(むそうまど)の形式になっており、内側に薄い格子板が添わされていて左右にずらすだけで遮蔽ができるようになている。
 狭い間口に比べ奥に長い建築は「町屋」と呼ばれ、入口から奥へ通り土間が通っている。この中井酒造では、通り土間の左側が座敷で住まいの部分、右側が吹抜きの作業場になっている。この建物の中では酒造り全工程のうち、新米の貯蔵、洗米、米蒸し、地下室での麹作りまでが行われ、仕込・貯蔵などは別棟で行われた。蒸し竃の近くには酒造り職人である蔵人(くらびと)が休憩する「会所部屋」があり、座敷の上の屋根裏部屋には蔵人の寝部屋がある。中井酒造の竃は、解体時のまま、レンガ造りとした。江戸時代までは土造り、石造りであったが、レンガ造りになり、燃料も薪から炭、石炭へと変わるなど明治時代に大きく改良を遂げたものである。
 安田銀行会津支店 旧所在地 福島県会津若松市大町 建設年代 明治40年(1907) 明治5年(1872)国立銀行条例が発布され、翌年東京の兜町海運橋際に第一国立銀行が開業した。一方、明治9年日本橋駿河町にあった為替バンク三井組が三井銀行に改組され、私立銀行も創立をみた。この二つは銀行業の創始を物語るものであるとともに、明治初期の代表的擬洋風建築として親しまれてきたが、明治30年代に入って、相次いでその姿を消した。明治12年(1879)国立銀行の設立認可が153行で打ち切られると、それ以降私立銀行の設立が急速な勢いで増えてくる。安田銀行も明治12年認可を受け、翌13年に開業している。最初は栃木、宇都宮の二店であったが、その後東北地方に展開し、明治23年には会津若松に若松支店が設けられた。当初は既存の土蔵造(どぞうづくり)の建物を借りて営業していたが、明治40年(1907)この建物が新店舗として落成した。伝統的な土蔵造をもとにしているが、要所には洋風のデザインを施しており、玄関の石柱、正面と右側の面の石積の腰壁、窓の太い鉄格子、軒蛇腹等、いずれも新しい洋風の手法によるものである。土蔵造は太い柱を厚い土壁で塗り込んでしまう日本古来の工法で、火災に強いという特長を持つ。防災上大変有効なこの工法に、洋風のデザインがうまくかみ合い優れた明治建築を生み出した良い例である。又、側面のなまこ壁もこの建築に美しさを添えている。室内は外の意匠以上に洋風の手法が取り入れられている。まず目につくのは高く吹き抜かれた営業室で、二階の窓から入る光が白い壁に反射して、室内が大変明るくなっている。二階ギャラリーを支える四本の柱は溝彫(みぞぼり)され、その脚部には西洋風の繰形が施されている。カウンターの腰板にも新時代の手法が用いられている。安田銀行会津支店の玄関の天井中心飾りや軒先の瓦には安田銀行創業以来の行章「分銅に三」が用いられている。「分銅の三」の「三」は安田銀行創業者安田善次郎の祖先が平安時代の高名な学者「三善清行」にあたることから採ったもので、江戸時代からの両替商の印「分銅」に三善の「三」を組み合わせたものである。
 札幌電話交換局 《重要文化財》 旧所在地 札幌市大通 建設年代 明治31年(1898) 1844年アメリカ人モールスが電信機を発明、ついで1876年(明治9年)には同じくアメリカ人のベルが有線電話の実用化に成功した。このように通信手段が飛躍的な進歩をとげている時期に日本は開国する。維新後直ちに電信による全国通信網整備の計画が実施されたが、ベルが電話を発明すると、早くも翌明治10年(1877)日本にも紹介され、同23年には東京と横浜で電話交換業務を開始、以後徐々に全国に普及していった。この札幌電話交換局は明治31年(1898)暮に竣工、翌年から交換業務を開始している。外廻りの壁を厚い石で築き、内部の床、間仕切り壁、小屋組を木造で組み上げ、屋根には桟瓦を葺いている。一階の窓は葉飾(かざり)を刻んだ要石(かなめいし)を持つアーチ窓、二階は(まぐさ)式の窓で小庇がつけられている。二階窓下の胴蛇腹には大きな円形の花紋が連続して刻まれ、全体の雰囲気を和らげる効果をあげている。壁面を胴蛇腹で分け、上下階の窓のデザインをかえる手法は、西欧でよく用いられたもので、ここでも単調になりがちな外観を印象深いものにしている。この建物は、明治43年(1910)に同形式による大増築がなされており、このため明治43年の創建と思われてきたが、解体の際に増築側の間仕切り壁に当初の石造外壁が塗り込められていることが発見され、明治31年竣工の記念的建造物であることが判明した。
 電話機 日本で初めて実用に供された電話機はガワーベル電話機であった。明治29年にはデルビル磁石式壁掛電話機が実用化され、以後大正、昭和と広く使われた。磁石式電話機は、発電機を内蔵するもので、ハンドルを回して自ら通信回路を構成する。一方交換機は殆どが手動であったが、明治末期には自動交換機も使用されるに至った。
 京都七條巡査派出所 旧所在地 京都市下京区七條 建設年代 明治45年(1912) 江戸幕府の崩壊で無政府状態にあった東京では、明治元年(1868)薩摩、長州等の藩兵が組織され、その警護、治安に当たることになった。これが警察のはじめである。その後兵部省の管轄下で各藩から兵士を選抜して府兵を組織、各地方でも同様に府兵、県兵の組織が作られたが、廃藩置県後は管轄を司法省に移し、軍と警察の分離をはかるとともに警察組織の全国統一を目指した。さらに明治6年(1873)内務省が設置されると、所管は同省に移され、その下で整備が進められた。以後度々の改変を経て、明治19年(1886)には警察庁、各府県警察本部の名が定められた。この中央集権的警察制度は昭和22年(1947)の自治体警察制度発足まで続くことになる。警察官の呼び名も、府兵から羅卒、巡査へと変わっていくが、全国で巡査と呼ばれるようになったのは明治8年(1875)以降のことである。この京都七條巡査派出所は京都駅の近く、下京区七条の通りに面し、西本願寺・龍谷大学の入口角に建てられた。木造の建物であるが、当時流行していたレンガ造洋風建築に似せて化粧レンガを張りあげ、左官仕上げの帯を入れている。低く勾配の緩い屋根やかまぼこ形の玄関庇は銅板葺である。
 京都市電 創業年代 明治28年(1895) 1881年ドイツにおいて初めて電車の営業が開始されたが、わが国では市内電車として明治28年(1895)に開業した京都市電が最初である。京都では、琵琶湖からひかれる疏水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり、明治24年に電力供給が開始された。さらに明治28年の第4回内国勧業博覧会の開催地が京都に決定したことも重なり、京都電気鉄道が設立され本格的にその敷設へ向けて動き出した。そして明治26年に電気鉄道敷設許可がおり、明治28年伏見線が開業した。
 開業後、急いで「電気鉄道取締規則」がつくられたが、電車には告知人が置かれることになりここに告知人すなわち「先走り」が誕生した。彼らは12歳から15歳までの少年で、通行人に危険な箇所があると運転台から飛び降りて電車の先を走り注意を促した。夜間には堤燈を持って走るなど重労働の上危険なため、明治37年に廃止された。 開業後路線も拡張され街を行きかう人々に親しまれた京都電気鉄道の市電は、明治45年市営電車の敷設に伴い、大正7年全面的に市に買収された。京都に次いで市内電車が登場したのは名古屋で、明治31年のことであった。明治村の車両は明治43年から44年にかけて製造された大型の車両である。
明治村 市電 品川燈台駅−京都七条駅間。
 京都市電は明治28年現在の京都駅近くから伏見までの約6.4kmで開業し、次いで同年4月から岡崎公園で開催された第4回内国勧業博覧会の会場輸送の「足」として大いに利用された。
明治村 市電 京都七条駅。
明治村 市電 名古屋駅。
 北里研究所本館・医学館 旧所在地 東京都港区白金 建設年代 大正4年(1915) 八角尖塔を頂く木造二階建のこの建物は、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が大正4年(1915)芝白金三光町に建てた研究所の本館である。古代ギリシャのヒポクラテスを祖としてはじまった西洋医学は臨床学的、解剖学的な発展を遂げるが、微生物の存在については17世紀半ばに至るまで学者の想像の域を出ていなかった。1683年になってオランダ人レーベン・フックが単式顕微鏡を使って、はじめて「小動物」(微生物)を確認、その後、顕微鏡の発達が微生物研究の進展を促し、19世紀後半パスツール、コッホらにより病気と微生物との因果関係が明らかにされるに及んで、基礎医学の一重要分野である医学的細菌学の確立をみた。東大で医学を修めた北里柴三郎はドイツに留学、コッホのもとで、細菌学を研究し、破傷風菌の培養、破傷風の血清療法によって学界に認められた。帰国した翌年、明治25年(1892)福沢諭吉の後援を得て日本初の伝染病研究所を設立、大正3年(1914)同研究所が東大に移管されると野に下り、独自にこの北里研究所を創立した。北里自身が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味した建物である。屋根は腰折屋根で天然スレートを葺き、小屋裏に明かりを入れる屋根窓を配している。木造総二階建のこの建物は本来左翼の長いL字形であったが、移築に際し左翼屋を除いて復原している。上下階とも廊下が建物の南面(前面)に通されているのは顕微鏡観察のための措置で、光を変化の少ない北面から採り入れる方が良いとの考えによるものである。腰折屋根を作る小屋組は洋小屋クイーンポストトラスの変形である。(工事中)
 幸田露伴住宅「蝸牛庵」 旧所在地 東京都墨田区東向島 建設年代 明治初年(1868)代 明治10年代(1877〜1886)、下火となっていた戯作文学が、自由民権論、国権論、アジア主義等の隆盛に呼応した政治小説の形で復活してくるが、これとは別に人間の内面を描き出そうとする動きも出てきた。明治18年(1885)坪内逍遥は「小説神髄」を刊行して小説の新しい方向を提唱、これに応じる形で二葉亭四迷の「浮雲」が生まれたが、逍遥の内面尊重の主張はさらに幸田露伴へと受け継がれ、東洋的な観念を主題とする作品に結実してゆく。露伴は幼少の頃算術を得意とし、長じて電信を学び、電信技手を勤めるが、傍ら漢籍や仏書を読破し、「小説神髄」に触発されて明治20年(1887)21才の時、官を辞した。その翌年発表した処女作「禅天魔」が尾崎紅葉の目にとまると、文筆の世界に足を踏み入れ、「風流仏」「対髑髏」「五重塔」等次々に発表、紅葉とともに紅露時代として一世を風靡した。露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えている。隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、明治30年(1897)からの約10年間を過ごしている。周辺には江戸時代から豪商の寮(別邸)や下屋敷が多く、この建物もその雰囲気を伝えるとともに、深い土庇のある座敷には水鳥を形どった釘隠しが付けられ、墨東の名残もとどめている。
 町屋と異なり、まわりの広い庭に自由に延び拡がった建物で、廊下を軸に玄関、和室、付書院のある座敷が千鳥に配されている。
 西園寺公望別邸「坐漁荘」 旧所在地 静岡県清水市興津町 建設年代 大正9年(1920) 西園寺公望は明治3年(1870)法学を学ぶため渡仏、10年間滞在した後帰国し、中江兆民等と東洋自由新聞を発刊、ブルジョア自由主義の普及に努める。廃刊後は政府に入り、憲法調査のため伊藤博文に従って外遊、次いで各国公使、各大臣を歴任し、明治39年(1906)には伊藤博文のあとを受け、政友会を率いて内閣を組織した。その政治姿勢は終始平民主義を貫き、その後、我が国の元勲と呼ばれるにいたった。
 この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、大正9年(1920)に駿河湾奥、清水港近くの興津の海岸に建てた別邸である。旧東海道に沿って建てられた低い塀の奥に、玄関、台所、二階建座敷等の屋根が幾重にも重なる。木造桟瓦葺で軒先に軽い銅板を廻らした純和風建物であるが、小屋組には強い海風に耐えられるよう工夫がみられ、梁を斜めに渡し、鉄筋の水平筋違いを十字に張っている。「坐漁荘」の名には“なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす”という意味がこめられていたが、実際には事あるごとに政治家の訪問を受けざるを得なかった。現在、二階の座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池が見渡せる。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山が、左手に伊豆半島が遠望された。 昭和4年(1929)、海に面した座敷の横に洋間が、又、その奥には脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所等が増築された。晩年になって別邸に洋間を設けたことは、若い時から西欧に遊学し、洋風生活に親しんでいたとは言え、洋間の居住性を評価する上で面白い。
 品川燈台 《重要文化財》 旧所在地 東京都港区品川 建設年代 明治3年(1870) 安政5年(1858)欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれたが、列強国の関税率等に対する要求はさらに厳しくなり、慶応2年(1866)日本は改税約書を受け入れることになった。その第11条で開港場に出入する外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められた。江戸幕府、ついで明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼、東京湾沿岸の観音崎、野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設された。この燈台は品川沖の第ニ台場の西端に建てられ、明治3年(1870)3月5日に点燈された。石油による光で100燭光、光源の高さは地上から19尺(約5.8m)海面上52尺(約16m)、光の届く距離は約18kmと記録されている。品川台場は、江戸防備のため江川太郎左衛門の計画に基づき幕末に急造された人工島で、当初は大砲を備えていた。観音崎など他の燈台がなくなった現在、現存最古の洋式燈台として貴重な遺構である。
霧砲の設置されている煉瓦基礎に煉瓦の刻印が見られる。
 菅島燈台附属官舎 《重要文化財》 旧所在地 三重県鳥羽市菅島町 建設年代 明治6年(1873) 菅島燈台は明治6年(1873)伊勢湾の入り口、鳥羽沖合の菅島に建てられた。品川燈台がフランス人の手になるのに対し、これはブラントンを頭とする工部省燈台局のイギリス人技術者の設計管理になるものである。明治初期の洋式燈台では、燈火の管理も外国人によって行われたため、付属の官舎もレンガ造の洋式住宅が建てられている。レンガ造の壁に木造の洋小屋を載せて桟瓦を葺いている。出入り口は両開きのガラス扉に鎧戸を付け、窓は上ゲ下ゲ窓でやはり鎧戸を備えている。建設に当たっては島の人々の協力があり、船着場から高台までの資材運搬等に従事したという。又、建物に使われたレンガや瓦も地元の産で、渡鹿野島の瓦屋竹内仙太郎が焼いた旨の刻印がある。移築のための解体も島民の協力を得て行われた。
移設に伴い煉瓦の表面が削られている。
避雷針先端までの高さ約9m、円筒形レンガ造で、基礎、入口廻り、螺旋階段、デッキの支え等に石材を組み入れている。燈室の枠は砲金製、屋根は銅板製である。金属部、ガラスはいずれもフランス製であるが、レンガは建設当時フランスの技術者が工事を進めていた横須賀製鉄所のレンガを使用している。創建時には塔身の廻りに半円形の前室があったが、記録が詳らかでないため、塔身だけを復原している。
 芝川又右衛門邸 旧所在地 兵庫県西宮市上甲東園2丁目 建設年代 明治44年(1911) 芝川又右衛門邸は現在の西宮市甲東園に明治44年(1911)、大阪の商人芝川又右衛門の別荘として建てられた。設計者は当時京都工等工芸学校図案科主任で、後に京都帝国大学建築学科の創設者となる武田五一である。 芝川又右衛門は先代が大阪伏見町に唐物商(輸入業)「百足【むかで】屋」を開業し、三井八郎右衛門・住友吉左衛門などとともに明治13年(1881)の日本持丸長者鑑【かがみ】に、名を連ねた豪商の一人である。又右衛門は明治29年(1896)に果樹園「甲東園」を拓き、明治44年(1911)には別荘としてこの建物を建築し、さらに日本庭園や茶室等を整え、関西財界人との交友の場とした。 現在、甲東園近くを通る阪急今津線(当時は阪神急行電鉄西宝線)は大正10年(1921)に開通していたが、当時甲東園には駅(停車場)がなかったため、芝川又右衛門は駅の設置を阪急に依頼し、設置費用と周辺の土地一万坪を阪急に提供した。この土地一万坪が甲東園一帯の土地開発の端緒となったといえる。武田五一は明治34年(1901)から約2年半欧州へ留学し、帰国直後、貿易商・福島行信の依頼を受け、日本で初めて当時欧米で流行していたアール・ヌーボー様式を取り入れた住宅を設計した。その後、議院建築視察のため再度欧米視察をし、帰国後、芝川又右衛門より「洋館」の依頼を受け、ヨーロッパのグラスゴー派やウィーンのゼツェッションと数寄屋など日本建築の伝統とを融合したこの洋館を建てた。 この洋館は何度か増改築がなされており、現在確認できる範囲では、昭和2年(1927)に和館増築に併せ、洋館の外装など今回見るような姿に大きく変更された。 日本における郊外住宅の魁ともいわれるものだが、阪神大震災の際被害を受け、平成7年(1995)秋解体され、平成17年1月に修復工事に着手し、平成19年9月に竣工した。
 芝川家の記録には、明治44年に完成した建物を見た家族の「畳がリノリームになっただけで、まるで洋館らしいところはない」という言葉が遺されている。外壁は杉皮張、1階ホールは聚楽壁に網代と葦簾を市松状に用いた天井が用いられ、2階の座敷には暖炉が設けられるなど、全体として和の中に洋があしらわれた意匠であったが、関東大震災後の昭和2年に、隣接地に和館を増築する際、耐火を意識し、外壁はスパニッシュ風な壁に変更された。 関東大震災の際、木造建築が火災で大きな被害を受けたことから、外壁にスパニッシュ風な壁を用いることが大正末から昭和初期にかけて、特に関西を中心に大流行した。日本でスパニッシュと呼ばれる建築様式は、スペイン建築ではなく、スペイン系建築様式の影響を受けたアメリカの建築様式に影響を受けたものである。 武田五一は終生この芝川邸と深い関わりを持ち続け、創建時および度重なる増改築の際の図面や家具の設計図が遺されている。
 長崎居留地二十五番館 旧所在地 長崎県長崎市南山手町 建設年代 明治22年(1889) 長崎居留地二十五番館は、長崎に3ヶ所あった居留地−東山手・南山手・大浦−のうち南山手二十五番の建物である。この建物の最初の居住者はスコットランド出身のコルダー(Calder,John Fulton)である。彼は1867年来日し、最初長崎のボイド商会に、その後横浜の三菱製鉄所、神戸の大阪造船所を経て、三菱が長崎造船所を国から払い下げを受けた際、マネージャーとして請われて再び長崎の地を踏んだ。当初は造船所近くの会社が用意した住宅に住んだが、明治22年に造船所のある飽の浦を見下ろす高台の南山手に居を構えた。大阪造船所時代には日本初の「ドライドック」を建造、また長崎造船所では日本初の鋼鉄船で昭和37年まで高島炭鉱と長崎を結んでいた「夕顔丸」を建造するなど、明治期日本の造船業の発展に寄与したが、明治25年病に倒れ、45歳の生涯を長崎で終え、現在も長崎の坂本国際墓地に葬られている。 
 三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築であるが、工法の上では古い点もあり、例えば、出入り口廻りの仕上げは化粧板を取り付けることなく、古い柱を削り出している。また、外壁は下地板の外に下見板を張り上げ、室内側は木摺下地に漆喰を塗り、防寒・防音に効果をあげている。その他、東南アジアのいわゆる植民地建築の影響を受け、軒が深くなっているため、屋根が冗長になるのを避け、本屋根からベランダの屋根を一段下げている。本館完成から約20年後の明治43年(1910)、本館とは別の棟梁によって右奥に別館が増築された。和室も取り込んではいるが、外観は本館に合わせて洋風に仕上げられている。
 神戸山手西洋人住居 旧所在地 神戸市生田区山本通 建設年代 明治20年(1887)代 それぞれ木造総二階建の主屋と付属屋からなる住宅であるが、建物の沿革は余り明確にはなっていない。明治20年代(1887〜1896)に建てられたものと推定され、当初は外国人のものであったと思われるが、同29年(1896)には日本人増田周助の所有であったとの記録がある。先の長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違ったものがある。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を遺すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっている。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられる。この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされている。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せている。又、ベランダから室内へ数多くの出入り口を設けているのは、余り広くない室内をベランダと一体で使うための配慮であろう。主屋は上下階とも同じ間取りになっている。玄関、階段、中廊下を一まとめにし、左右に一部屋づつを配して、ベランダをL字に添わせている。付属屋一階には使用人が居たが、他のどの部屋とも結ばれておらず、主人家族のプライバシーの枠外とされていた。
 宗教大学車寄 旧所在地 東京都豊島区西巣鴨 建設年代 明治41年(1908) この建物は、現在明治村3丁目の岬の広場に「あずまや」の如く建てられているが、本来は明治41年(1908)東京郊外の巣鴨に新築された私立宗教大学本館の車寄であったものである。木造二階建の本館校舎は、講堂を中心に左右に教室を配した一文字型の大きな建物で、その正面にこの車寄があった。この高さ6.9mの車寄からも推し測られるように、本館はバロック風の大屋根を頂く壮大な明治末期の特色ある洋風建築で、車寄と同様、腰石には花崗岩が積まれていた。大正15年(1926)大正大学と改称された後も、長く校舎として使われ、椎尾弁匡をはじめとする宗教学の諸碩学が子弟の教育に当たった由緒ある建物でもあった。昭和43年(1968)2月、折から帝国ホテルの保存問題が世間の注目を集めていたが、この宗教大学本館が消え去ることを惜しみ、明治村では本館の俤を残すこの車寄部分を解体・保存した。
 第四高等学校武術道場「無声堂」 旧所在地 石川県金沢市仙石町 建設年代 大正6年(1917) 古来、武士のたしなみとして剣術、柔術、水術等様々な武道が伝えられてきたが、明治初年の新しい学校体育では体操が中心で、武道はとりあげられなかった。明治15年(1882)嘉納治五郎が柔道を創始して古武道の改革をはかるが、これが下地となって、日清戦争後、15歳以上の強壮者に対し武道を正課外で習わせることが認められ、主として大学、高等学校の運動部の活動として普及をみるようになった。明治後期になると、国内全般に尚武的気風が高まり、それまで欧米式体育に対する反省もあって、学校体育に武道が加えられるようになった。この「無声堂」は大正6年(1917)金沢の第四高等学校に建てられたもので、柔道、剣道、弓道三つの道場を兼ね備えた大きな洋風建築物である。木造下見板張桟瓦葺の余り派手さのない建物であるが、道場の床には工夫がみられ、柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘っている。長い年月にわたり、幾多の若人がこの「無声堂」で修練を積んできた。茅葺の厚く深い軒の下には丸い的が置かれている。弓道場の正面は、雨戸を入れる戸袋まで左右に開くことができるため、さえぎるものは柱一本ない。小屋組の構造を合理的な洋小屋組にすれば、このように途中の柱を抜いて長大な間を架構することも比較的容易である。
 日本赤十字社中央病院病棟 旧所在地 東京都渋谷区広尾 建設年代 明治23年(1890) 明治10年(1877)西郷隆盛が九州で挙兵した西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社が日本赤十字社のはじめである。明治19年(1886)日本政府がジュネーブ条約に加盟、日本赤十字社と名を改めるが、その折皇室から渋谷の御料地の一部と建設資金10万円が下賜され、同23年この病院が建設された。 中庭を囲む分棟式の木造様式病院で、赤坂離宮と同じ片山東熊の設計であるが、離宮と異なり、大変質素で落ち着いた建物になっている。移築に際し、敷地の制約のため建物の方位が180度変えられており、現在南に面している前面ガラス張の廊下は本来北側にあったもので、暗くなりがちな北面を明るくするための意匠である。外部はハーフ・ティンバーを模したデザインを基調にしているが、細部にも楽しさがあふれている。現在北側になって目立たないが、病室窓の鎧戸の上部には手の込んだ透しがあり、軒の飾りも細かい影を落としている。又、棟上の換気塔等も、本来の目的を忘れさせるような楽しい形に作られている。病院の正面を飾っている額で、桐、竹、鳳凰が浮き彫りにされている。草創期の日赤をもりたてた昭憲皇太后のアイデアを基にしたものと言う。ドイツのハイデルベルグ大学病院を模して二階建レンガ造で造られた本館を正面に据え、背後中央に大きな中庭を設け、その廻りに病棟を配する形は、陸軍軍医森鴎外も推奨していたものである。各病棟には、その端に便所が別棟として付けられている。
 赤十字は、戦時における戦傷者の看護を目的として作られた国際組織である。クリミア戦争におけるナイチンゲールの献身的な活動が人々に感銘を与えた後、1859年のイタリア統一戦争の際、両軍の軍医らに呼びかけて医療の先頭に立ったのが、赤十字生みの親、アンリ・デュナンである。その後、彼の提唱のもとに1864年ジュネーブ条約が調印され、赤十字が創設された。ヨーロッパの赤十字活動を見聞し、日本でその創設に関わったのは佐野常民である。西南戦争の勃発を知った彼は博愛社を設立して、兵士の救護にあたった。戦後もその組織を存続させ、明治20年日本赤十字社と名を改めるとともに、万国赤十字同盟に加盟するに至った。1920年(大正9年)以来隔年ごとに、ジュネーブの赤十字国際委員会により、看護婦の最高栄誉としてナイチンゲール記章がおくられている。明治村のこの病棟の中には、その栄誉に輝いた日本の人々の写真を掲げている。
 歩兵第六聯隊兵舎 旧所在地 名古屋市中区二の丸 建設年代 明治6年(1873) 幕末、維新の動乱時、度重なる列強国の軍事的示威行動をまのあたりにして、幕府、雄藩は軍事力の近代化の必要性を痛感した。薩摩、長州がイギリスに教えを受けたのに対し、幕府はフランス方式を取り入れ、これが明治政府にも引き継がれて、日本陸軍の基礎が形成されていく。明治4年(1871)東北から九州まで四分割された各区域にそれぞれに鎮台が置かれ、同6年(1873)には広島、名古屋にも鎮台が設けられた。各鎮台のもとには歩兵聯隊が置かれるが、名古屋鎮台の管内では名古屋と金沢に組織され、名古屋に置かれたものが歩兵第六聯隊である。
 明治政府は単に軍事組織や訓練方法だけでなく、兵舎等の軍用建造物についてもフランスから学んでおり、明治6年(1873)の聯隊創設時に建てられた歩兵第六聯隊兵舎も、フランスの建築書を基に海外の例に学んで造られた。現在明治村に遺るのは、方形の営庭を囲んで配されていた兵舎のうちの一棟で、もとは50mを超える長い建物であったが、移築に際し約三分の二に切り縮められている。単純な四角形の上ゲ下ゲ窓が並び、素朴な印象を与えるが、構造は大変頑丈で、外側の柱は全て土台から軒に達する太い通し柱になっており、壁下地になる木摺を斜めに打ち、瓦を張って、白漆喰で仕上げている。このため、地震にも火災にも強く、断熱性も高い。
 創建当時の窓は現在の約半数であったが、のちに室内を明るくするため増設されている。明治村では屋内の展示環境も考慮し、増設された状態で復原している。木製のベッドが並ぶ内務班。全ての家具が耐久性に重点を置いて作られている。他に中隊長室、下士官室等が当時の姿に復原されている。
 名古屋衛戍病院 《愛知県有形文化財》 旧所在地 名古屋市中区三の丸 建設年代 明治11年(1878)  日本人による最初の洋式病院は明治4年(1871)横浜に造られた横浜共立病院で、これは貿易商組合の出資による私立の病院であったが、本格的な洋式の大病院を計画し、実行に移したのは軍隊で、全国の鎮台配置に合わせて陸軍衛戍病院が明治6年(1873)の東京を皮切りに順次整備されていく。明治11年(1878)に建てられた名古屋衛戍病院は、六棟の病院が中庭を囲んで配される分棟式の配置がとられていたが、これは洋式大病院の典型的な形式で、日本赤十字社中央病院にも踏襲されている。現在明治村に遺されているのは、病棟のうちの一棟と管理棟である。
 木造平家建桟瓦葺で、周囲に吹き放ちのベランダを廻らせた姿は大変開放的で明るく、清潔感にあふれた印象を与える。細部のデザインは、同じ陸軍の施設である歩兵第六聯隊兵舎のものとよく似て質素なものになっているが、構造的には兵舎と若干異なり、漆喰塗大壁で囲まれ、小屋組も和小屋になっている。三重県庁舎(明治12年)とほぼ同じ頃の創建であるが、県庁舎が様々な洋風のデザインを取り入れているのに対し、この衛戍病院のデザインは簡素にまとめられている。手摺等は素木に少しの面取り(角を落す手法)を施すのみで、窓の額縁も曲線を使わず、単に段切りをしているだけである。
 医療用X線装置「ダイアナ号」 1895年(明治28)ドイツの物理学者レントゲンは陰極線の実験中に、高電圧を起こした時、光とは比較にならない透過力を持つ放射線が発生することを発見する。これがX線で、X線はまもなく医療面への応用がはかられ、医学に画期的な進歩をもたらした。日本でもX線発見の翌年、早くもX線発生の実験に成功し、明治43年(1909)には国産初の医療用X線装置が完成している。このダイアナ号は大正7年(1918)に開発された高性能の国産機で、我が国での医療用X線装置の本格的な普及に大きな影響を与え、海外にも輸出された。
 シアトル日系福音教会(旧シアトル住宅) 旧所在地 アメリカ・ワシントン州シアトル市 建設年代 明治40年(1907)頃 日本からアメリカ本土への移民は、戊辰戦争に敗れた会津若松藩士数十名が明治2年(1869)カリフォルニア州に入植、若松コロニーを開いたことに始まると言われる。この試みは失敗に終わるが、日米間の労働力の需要・供給の関係で、日系移民は明治中期からその数を増し、明治29年(1896)シアトル航路が開かれたこともあり、明治末から大正期にかけて最盛期を迎えることになる。
  一方、シアトルは1889年(明治22)町の中心部を焼き尽くす大火にみまわれたが、大改造をもって立ち直り、20世紀初頭からは漁業と林業の基地として発展していく。住宅地も周辺の山地を開発して新たに造成されていくが、この建物もその新興の住宅地の中に1907年(明治40)頃建てられたものである。大量生産による規格木材を使用して造られており、現代のプラットフォーム構法(2×4構法)の先駆的な実例である。屋根には地元産のそぎ板を葺き、外壁、床等は全て下地板と仕上げ板の二重張りになっている。当初はアメリカ人の住まいであったが、1930年代(昭和5〜14)に日系移民の所有となった。アメリカに渡ってから長い苦難の年月を経て手に入れた一軒の家であったが、第二次世界大戦時、強制収容により家を追われ た。戦後は日系一世のための福音教会として使われてきたが、一世の高齢化と減少という時の流れの中でそ の役目を終え、明治村に移築された。
玄関ホール正面に二階への階段が設けられている。細かい細工が施された階段の親柱は、プレハブ建築の通例通り、単に床の上に置かれているだけで、床下から釘止めされている。又、細かい細工も彫刻ではなく、細い木材を釘止めして作られたものである。玄関ホール横の会堂は、住宅として使われていた時には二つの居間に分かれていたが、間仕切扉が散逸してしまっているため復原できなかった。規格木材を釘打ちして造る2×4構法では、仕口、継手の痕跡がないため、改造個所の元の姿を推定することが難しい。
 ブラジル移民住宅 旧所在地 ブラジル・サンパウロ州 レジストロ市 建設年代 大正8年(1919) 明治41年(1908)の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、明治41年(1908)には781名の日本人が契約労働者として笠戸丸ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事した。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及んだ。この建物はある日本人移民が、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つである。現地産の堅い木材を加工して造られているが、入植者の中の日本人大工の手が入り、小屋組、継手、仕口等には和風の工法が使われている。一方、二階に設けたベランダや、片開き板戸を付けた窓、スペイン瓦を葺いた屋根等、土地の風土に合わせた素朴さがただよっている。現在裏側になっている下屋が入口と台所を兼ねていたと思われ、下屋から二階の居室への内階段が設けられている。尚、建物横手の外階段は後補のものである。
 ハワイ移民集会所 旧所在地 アメリカ・ハワイ州ヒロ市 建設年代 明治22年(1889)頃 ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会であった。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われるに至った。その頃は屋根を取りはらわれ、二階が増築されて、姿がかなり変わっていた。移築当初、原形をとどめていた一階部分だけを復原したが、その後の調べで古写真が発見されたため、屋根を創建時の姿にもどし、建物周囲の柵や入口の橋などを補った。単純な長方形平面の教会で中は一室になっている。正面入口の上にペディメントを飾り、軒蛇腹にデンティルコース(櫛型装飾)をめぐらせ、正面妻壁の中央に三角形の屋根換気口を開けている。外壁は洋風下見板平張、屋根は波形鉄板葺である。
 この建物にある地方色としては、床が高いことが挙げられる。未だ開発の進まない土地では、治水もあまり完全ではなかったであろう。川のほとりの建物では、出水のことや日頃の湿気の心配があったと考えられる。
 この建物の傍らに掲げられている国旗はハワイ王国の国旗である。また、建物入口に取り付けられた太鼓橋は、ハワイ島のヒロ市が雨の多いところで、建物周辺は常にぬかるんでいるため、ぬかるみを歩かず室内に入ることができるように設けられたものである。建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘である。建物右奥にある白い「×」印のものはさとうきびを運んだシュガートレインの「踏切」の標識である。ハワイ移民は明治元年、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事ヴァン・リードによって送り出された「元年者」にはじまる。彼らは労働者不足の砂糖工業に就いたが、炎天下での長時間の作業のため苦労を重ねた。明治4年日布修好条約締結、明治14年ハワイ王朝カラカウア王来日などさらに移民交渉が進められ、明治18年からは26回にわたり官約移民が送られた。しかし不遇のなか契約期間の3年を迎えても貯蓄ができず残留するものがほとんどであった。
 六郷川鉄橋 旧所在地 東京都蒲田・神奈川県川崎間の六郷川(多摩川下流) 建設年代 明治10年(1877) 明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であった。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由であった。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと伝えられている。橋の全長は約500mで、本橋と避溢橋からなり、本橋部に長さ100feet(約30m)の錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)六連が使われていた。当時のお雇い外人、土木技師ボイル(英人)の設計したもので、明治8年(1875)英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され、輸入された。明治45年、東海道線の複々線化に際してこの鉄橋は外され、単線用に改造された上、大正4年、御殿場線の酒匂川にかけられた。そして昭和40年、酒匂川でもその役目を終え、90年に及んだ現役の座を退いた。復元に際し、狭められていた橋の幅員を創建当時のように複線に再改造、橋台・橋脚の姿も古い資料を基に復元設計し、石とレンガで構築、縦枕木、双頭レールなど軌道関係も旧状にならって敷設した。ボイルが設計したこの六郷川鉄橋はすこぶる頑丈であった。それを示すエピソードがある。「……汽車が橋の上で脱線したことがあります。トラスの処では落ちずに、先のプレート・ガーダー(避溢橋部の構造名)の処で落ちたのです。理屈に合わない変な橋でしたが、英国流で兎に角頑丈な橋でした。」川や谷を渡るため、古来様々な橋が造られた。それらの材料は石や木等であった。が、18世紀中葉に始まった産業革命により、鉄の大量生産が可能になると、橋にもこの優れた材料「鉄」が使われるようになった。即ち、1779年、英国コールブルックデールに世界初の鉄橋が誕生した。日本での鉄橋の歴史は鉄道と共に始まっている。明治7年、大阪―神戸間の神崎川など三か所に、単線用の鉄橋がかけられた(現存せず)。因に、日本に現存する鉄造人道橋の最古のものは、東京にある弾生橋(明治11年)である。
 尾西鉄道蒸気機関車1号 製造年代 明治30年(1897) 製作 アメリカ ブルックス社 Brooks Locomotive Works  尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した機関車である。形式は2B1とよばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式である。尾西鉄道は明治29年に会社設立、明治31年には弥富―津島間が、同33年には弥富―新一宮間が開業した。大正14年に尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した際、この車両は名古屋鉄道の所有になり、その後新潟県の信越線二本木駅に隣接する日本曹達株式会社内の工場専用機として入替作業に従事した。
 明治のはじめ、煙をあげて走る蒸気機関車を「陸蒸気」と呼んだ。明治村の「なごや」駅と「とうきゃう」駅の間を連日走行している機関車は2両ある。そのうちの一両、蒸気機関車12号は鉄道開業の2年後、1874年(明治7)イギリスから輸入されたものである。輸入当初の車輌番号は23、新橋―横浜間を走り、明治42年の車輌の改番で165となり、明治44年に尾西鉄道に払い下げられ、12号となった。尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した後も、番号はそのまま引き継がれ、昭和32年まで使用されていた。
明治村 SL名古屋駅。
 蒸気機関車12号 製造所 イギリス シャープ・スチュアート社 Sharp Stewart & Co. 長さ 7,995mm。
重さ 空車時17.49t、運転整備時 21.43t 形式 1B形タンク式 。
明治村 SL名古屋駅の転車台。
蒸気機関車12号。
1日何回も転車台に乗せて転車し、連結を繰り返している。大変な仕事だ。
三等客車車内。 12号車銘板。
明治村 SL名古屋駅を出発。
途中に橋梁が2カ所。
蒸気機関車12号・三等客車 12号は明治7年(1874)輸入。
3カ所目のコンクリート製の橋梁。
明治村 SL東京駅。
明治村 SL東京駅。
 三等客車。ハフ11:明治41年(1908年)天野工場製。ハフ13、14明治45年(1912年)新宮鉄道株式会社製。三等客車ハフ11は青梅鉄道、高畠鉄道を経て、昭和11年から雄勝鉄道(羽後交通雄勝線)で使用されていました。ハフ13、14は新宮鉄道で使用された後、同社の国有化にともなって鉄道省の所属となり、後には雄勝鉄道で活躍しました。閉鎖型デッキと開放型デッキの2種類があり、内部にはロングシートが使われています。この3輌とも、昭和48年(1973年)に明治村に寄贈されました。
 蒸気機関車9号はアメリカのボールドウィン社で製造され、富士身延鉄道が購入し、富士身延鉄道3号として、その後、日本鋼管鶴見製鉄所で9号として使用されていた。製造所 アメリカ ボールドウィン社 Baldwin Locomotive Works 長さ 8,065mm 重さ 空車時19.3t 運転整備時23.05t 形式 C型タンク式 9号は明治45年(1912)輸入。
12号車動画リンク
廃機関車のボイラー。
明治の水道管。明治44年。仕切弁 英国グレンフィールド・ケネディー社。水道管 釜石鉄工所。
 鉄道寮新橋工場・機械館 旧所在地 東京都品川区大井町 建設年代 明治5年(1872) 日本の鉄道はあらゆる技術をイギリスから導入して開発された。明治5年(1872)に開業した新橋ステンショ(停車場)には、停車場本屋、乗降場、荷物庫、荷物積所、石炭庫、機関車庫、機関車修復所、御雇外国人官舎等が造られた。この中の機関車修復所が、ここに遺る新橋工場である。鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板、サッシ等、全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設された。中空鋳鉄柱の両側にツバを出して壁板を取り付け、又、鉄筋など細い鉄材で小屋組トラスを組み上げる等、鉄造プレハブ建築物としても重要なものであり、またきわめて単純で構造力学の理にかなったものである。
 現在、この建物は二棟が並んだ大きなものになっているが、はじめ新橋に建設された時は一棟だけで、大正のはじめ大井町への移設の際に拡張された。その際他から転用された鋳鉄柱等には「明治十五年東京鉄道局鋳造」と銘が鋳出されているが、これは明治10年代に早く舶来品を模して国産化が始められたことを物語る。明治村では、広い工場の内部を明治の機械類の展示場として活用している。
始紡機(粗紡機) ガラ紡績機(手動式)
蒸気槌。蒸気ハンマー。 往復空気圧縮機。
ゐのくち式渦巻きポンプ。 霧信号用蒸気機関。
横型単気筒蒸気機関。 水車・発電機。
 菊花御紋章付平削盤《重要文化財》 製作年代 明治12年(1878) この機械は赤羽工作分局で岩手県の船舶修理工場向けに製造され、後に岩手県盛岡工業高校に引き継がれ実習用として大切に保管されてきた。この平削盤は明治政府が殖産興業を推進するために設置した直轄工場で製造されたもので、日本の機械工業黎明期の実情を伝える工作機械として非常に重要である。 製 作 工部省赤羽工作分局
全 長 2,815mm 全 幅 1,230mm
全 高 1,680mm テーブル長 2,060mm
テーブル幅 672mm
 リング精紡機《重要文化財》 製作年代 1893年(明治26) リング精紡機は、綿紡績の最終工程に使用される機械として、1828年アメリカのジョン・ソープによって考案された。その後様々な改良が重ねられ、特にプラット社製のリング精紡機は、当時世界中の紡績機械のなかでもっとも優秀なものといわれた。前紡工程の練紡機(粗紡機)より供給された粗糸を引き伸ばして所要の太さにしたのち、撚りをかけて糸とし、その糸を自動的に巻き取る機械である。この機械は三重紡績会社で使用され、日本の近代化に大きく寄与した。
 工部省品川硝子製造所 旧所在地 東京都品川区北品川 建設年代 明治10年(1877)頃 明治6年(1873)イギリス人技術者を雇い入れて、品川興業社硝子製造所が開設された。同9年工部省がこの製造所を買い上げ官営とし、その後この建物等が建てられた。壁体はレンガ造イギリス積、屋根には瓦を葺いている。開口部はアーチ式のものが主体であるが、右側三分の一ほどに式の開口がある。この部分の内部に中二階の床があるためである。工部省は、日本に近代工業を根付かせ、その発展を図るために明治3年(1870)設置された役所で、その目的は極めて広く、鉄道、土木、燈台、造船、電信、製鉄などの実技面から、工学技術教育に至るまで網羅された。早急な育成のため、設備、技術者など必要なもの一切を導入する方針がとられ、各地に多業種の工場が建設され、多数のお雇い外人が来日指導に当たった。この硝子製造所でも、イギリスのガラス工ウォルトン、スピートなどが指導に当たり、フリントガラスの製造設備をもって、食器など日用ガラス器の製作をしていた。明治14年頃には板ガラスの製造テストも行われたが、成功しなかった。明治18年(1885)この工場は民間に払い下げになり、明治末に三共合資会社製薬場となって、有名な高峰譲吉や鈴木梅太郎の創製により薬品も製造された。建物の内部は、間仕切がなく一つの部屋になっており、片側約三分の一に中二階が設けられており、厚いレンガの壁体に梁を差し込んで床を支えている。小屋組は典型的なキングポストトラスで棟上に換気用の越屋根が載せられている。復原に当たり、補強のため周囲のレンガ壁体の頂部に鉄筋コンクリートの臥梁を廻らした。現在は一階を店舗に、中二階を展示室に活用している。明治期における国内のガラス工業は日用ガラス器生産が殆どであった。建築材料として必要な板ガラスは、幾度かの試みにもかかわらず成功せず、国産化が実現したのは、明治42年になってからである。
汐留火力発電所煙突基礎の煉瓦に煉瓦の刻印が見つかる。
 宇治山田郵便局 《重要文化財》 旧所在地 三重県伊勢市豊川町 建設年代 明治42年(1909) 明治3年(1870)太政官から郵便事業開始の達示が出され、翌4年には郵便の利用方法についての細かい規則が布告された。これに伴ない、同年東京江戸橋に日本最初の郵便役所(郵便局)が建てられ、近代郵便事業が開始された。その後各地に郵便役所が建てられ、伊勢の宇治山田にも同5年わずか4坪(13.2u)の小さな役所が開業した。郵便事業が近代国家の一翼を担って発展し、電信電話事業をも行うようになると、事業の拡大につれて、宇治山田郵便局は移転につぐ移転を重ね、明治42年(1909)伊勢外宮前の角地にこの建物を新築した。
 木造平家建銅板葺で、中央には円錐ドームの屋根を頂き、両翼屋には寄棟の屋根をふせており、正面の左右には小ドームの載る角塔を立てている。外装はハーフティンバー様式で、漆喰塗と下見板張の壁が使いわけられ、欄間部分には漆喰塗のレリーフが施されている。窓には3段或いは4段の回転窓が付けられているが、これは他に余り例をみない形式である。入口を入ると円形の「公衆溜」と呼ばれたホールがあり、その周囲にはカウンターが廻らされている。ホールの天井は、まわりの事務室部分より一段と高くされ、高窓から光を入れている。天井の中心からはチューリップ型のシャンデリアが下げられている。このように公衆用のホールを中心に据えた形は、新時代の計画といえよう。
 郵便制度が開始されると、直ちに四種の切手が発行され、書状集箱と呼ばれるポストも設置された。江戸時代の目安箱に似たものであったが、明治5年には角柱型の黒塗りポストとなった。その後、明治41年に鉄製円柱型の赤いポストに変えられた。右図は明治4年発行の、四種の切手の内の二種、ポストは同じく明治4年東京・京都・大阪内に設置された書状集箱(中)と郵便取扱い地域に設置された取り集め時刻が表示されているもの、そして明治20年角柱型のポストである。
 本郷喜之床 旧所在地 東京都文京区本郷 建設年代 明治末年(1910)頃 この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居である。啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。明治43年9月にはそこに本籍を移し、10月には長男真一が生まれたが間もなく夭折した。そして12月に出版したのが啄木の名を不朽にした処女歌集「一握の砂」である。それはまた明治の暗黒事件として啄木の思想にも影響した大逆事件が起きた年でもある。その頃から母も妻も啄木も結核性の病気になり、二階の上り下りも苦しくなって明治44年8月7日小石川久堅町の小さな平家建の家に移った。明治45年3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである。この建物は明治末年を遡り得ないと思われる。江戸の伝統を伝える二階建の町家の形式を踏襲してはいるが、散髪屋としてハイカラな店構えに変化してきている。流行に左右され、清潔であることが売り物となる理髪店の常として、この店の内部も著しい改造が加えられていた。建物の柱等に残る痕跡調査を基に、できる限り創建当時の姿に復し、店内の飾り付けは、新潟にあった同時代の店「入村理髪店」から贈られた鏡や椅子等を置いて整えた。
 小泉八雲避暑の家 旧所在地 静岡県焼津市城之腰 建設年代 明治初年(1868) 「怪談」で有名な小泉八雲はもとの名をラフカディオ・ハーンといった。1850年母の国ギリシャに生まれ、父の国アイルランドで教育を受け、のちアメリカに渡って新聞記者などをする一方、翻訳、評論、創作等の面で文名を高めた。明治23年(1890)来日し、英語教師として松江中学に赴任し、地元の小泉節子と結婚、同29年日本に帰化して小泉八雲と名のった。同年帝国大学に招聘されて東京に移り、帝大や早稲田大学で英文学を講じた。東京へ移った翌年から、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家である。八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説がある。
 明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、木造二階建桟瓦葺、両側面には和風のたて板を全面に張っている。本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形である。しかし、店前に余裕をもたせるため、左側一間分はそのままにして店と通り土間の前を奥へ下げている。二階の窓は戸袋を片側に寄せ、低い軒下を開け放って障子をいれている。隣の本郷喜之床と比較する時、軒の高さや庇の出などにその時代の特徴を知ることができる。内部一階右側は通り土間で、左に店、座敷が並ぶ。通り土間のほぼ中央、壁寄りには、屋根裏まで抜ける換気用の吹き抜きがある。二階では壁に囲まれて煙突状になっている。一階の店の隅から二階への階段がある。二階は厨子二階とも呼ばれた屋根裏部屋が発展した形で、広い座敷二部屋と納戸になっている。天井が一部傾斜しており、屋根裏部屋の名残をとどめている。
 呉服座 《重要文化財》 旧所在地 大阪府池田市西本町 建設年代 明治25年(1892) 江戸時代以来の伝統建築の名残を留めるこの芝居小屋は、明治初年大阪府池田市の戎神社の近くに建てられ、戎座と呼ばれていたが、明治25年(1892)に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名称も呉服座と改められた。ここでは地方巡業の歌舞伎をはじめ、壮士芝居、新派、落語、浪曲、講談、漫才等様々なものが演じられたが、特に興味を引くのは、尾崎行雄や幸徳秋水らが立憲政治や社会主義の演説会に使っていることで、当時の芝居小屋が大衆の遊び場、社交場であると同時に、マスコミの重要な役割も果たしていたことがうかがえる。構造は木造二階建杉皮葺で、舞台、客席部分には大きな切妻屋根を架け、その前に軒の高い下屋を降ろして、小屋の入口にしている。正面の高い切妻には太鼓櫓を突き出し、入口下屋の軒下には絵看板を掲げている。正面の壁は黒漆喰塗で、腰には和風の下見板が建て込まれている。出入口の扉は、裏面は和風の舞良戸であるが、表面には洋風の枠飾り等を施しており、目新しさを感じさせる。奈落は舞台の袖から降りて、廻り舞台の下を通り抜け、花道づたいに入口近くの楽屋の下まで達している。廻り舞台は、円周に沿って取り付けられた車と中心軸とで支えられている。客席は、平場(平土間)と呼ばれ、桝席に区切られている中央の低い部分と、棧敷と呼ばれる廻りの部分からなる。このような芝居小屋では、楽屋は舞台の裏手等に設けられるのが普通であるが、この呉服座では入口土間の上にあり、役者は奈落を通って舞台袖に行くようになっている。
 半田東湯 旧所在地 愛知県半田市亀崎町 建設年代 明治末年(1910)頃 この東湯は、知多半島の先、三河湾に面する港町亀崎にあったもので、小さな町にふさわしく間口3間のこじんまりとした銭湯である。明治の末頃建ったと推定され、約半世紀にわたって営業されており、湯水を多く使う商売柄、建物の傷み・改変も少なくなかった。しかし、表構え、番台などに明治の古風な銭湯の俤が遺されている。木造で前半分が脱衣室と和室が重なる二階建、奥の浴室部分が平家建になっており、屋根は前後とも切妻屋根である。外壁は和風の下見板張で、一階廻りにはガラス建具の窓・出入り口を開け、二階の窓には障子を立てている。古来、日本の銭湯には湯屋と風呂の二つの形があった。湯屋は湯舟に満たされた湯の中に身を沈める形で、風呂は湯気に身を包む蒸し風呂の形式であった。しかし、蒸し風呂は密室を必要とし、多数の客を入れることができないため、次第に湯屋が主流を占めるようになった。解体の時には、浴槽や床にはタイルが張られていたが、手法が新しいと判断されたため、明治末期の姿に推定復原した。男女の湯舟は隔てもなく、一つながりである。明治以前の湯殿には、「ざくろ口」という特有の入口があった。これは、湯舟から上る湯気の流出を少なくするため、湯殿の板囲いの出入口を低く押えたものである。しかし、湯殿の中が大変暗く、湯気がたちこめてあまり衛生的ではなかったため、明治12年(1879)禁止された。このように、維新後、いろいろな改良が加えられ、天井には湯気抜きが設けられるようになった。
 聖ザビエル天主堂 旧所在地 京都市中京区河原町三條 建設年代 明治23年(1890) この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年(1890)かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に、本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものである。
 基本構造はレンガ造と木造との併用で、外周の壁をレンガ造で築き、丸い高窓の並ぶクリアストーリーの壁を木骨竹小舞の大壁構造にし、内部の柱や小屋組等を木造で組み上げており、内外の壁は漆喰を塗って仕上げている。正面入口の上には直径3.6mを超える大きな薔薇窓が付けられ、切妻の頂点には十字架が掲げられている。壁の出隅にはそれぞれ二方向のバットレスが付けられ、その上にピナクルが屹立する。当初は壁や窓のモールディング等はゴシック様式の異形レンガの積み込みにより作られていたが、移築に際し、建物強化のために躯体を鉄筋コンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに変更するのに合わせて、モールディングの部分もプレキャストコンクリートに置き換えている。
 身廊、側廊からなる三廊式で、前に玄関を張り出し、内陣の横には聖具室を配置している。大アーケード、トリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの三層からなる典型的なゴシック様式で、身廊上部には交差リブヴォールトが架けられ、その頂点には木彫のボスが飾られている。身廊の両側に並ぶ柱は、軒まで達する太い角柱に幾本もの細い丸柱を付けた束ね柱になっているが、この柱やリブ等、天井板を除く全ての木造部分は欅で作られ、落着いた光沢を放っている。外光を通して美しい陰影を見せるステンドグラスは、色ガラスに模様を描いたもので、外に透明ガラスを重ねて保護されている。
 金沢監獄正門 旧所在地 石川県金沢市小立野 建設年代 明治40年(1907) 明治5年(1872)「監獄則並図式」が公布される。これは近代的な監獄制度と、それに合った洋式の放射型監獄舎房の規範を示したものであった。この方針に沿って新監獄の建設が始まり、明治12年(1879)先ず六方放射型の宮城集治監が建設され、その後各地で建設が進んだ。金沢監獄が造られたのは明治40年(1907)のことである。南北250m、東西190mの敷地はレンガ造の高い塀で囲われ、唯一西面に開けられていたのがこの門であった。レンガ造に石の帯状装飾を入れるのは当時の洋風建築の流行で、明治村の正門として使われている旧第八高等学校正門と比較してみるのも面白い。西洋の城郭の門にも似て、左右に二階建の看視塔を建て、中央にアーチ型の主出入口、両側に脇出入口を備えている。看視塔への出入口を門の内側にしか設けず、窓も小さくして鉄格子を入れていること等、閉鎖的でいかめしい感じを与えるものの、実に美しい門である。
 小那沙美島燈台 旧所在地 広島県佐伯郡沖美町 建設年代 明治37年(1904) 小那沙美島燈台は、広島湾から瀬戸内海への出口、宮島の脇の小さな島である小那沙美島に明治37年(1904)建造された。広島には明治6年(1873)に鎮台が置かれ、同19年(1886)には第五師団指令部が配備された。更に同21年東京築地にあった海軍兵学校が江田島に移され、続いて呉に鎮守府が開設される等、広島湾沿岸は軍事上、産業上の要所として重きをなしていた。日清戦争の際には広島に大本営が移され、広島の外港宇品から物資の輸送が行なわれており、日露戦争の際にも運輸本部が広島に置かれている。この燈台が造られたのは、その日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されている。工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっている。4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmであった。
 天童眼鏡橋 旧所在地 山形県天童市天童から老野森 建設年代 明治20年(1887) この石造アーチ橋は明治20年(1887)将棋の駒で有名な山形県の天童に、それまであった木橋に替えて架けられたもので、「多嘉橋」と呼ばれた。幅7.7m、長さ13.3m、拱矢比(アーチ径間と高さの比)2.6のゆったりとしたアーチ橋で、地元の山寺石を積んで造られている。アーチ構造の歴史は古く、紀元前4000年のチグリス・ユーフラテス地方にその原形を見ることができる。時代が下がって古代ローマに伝えられ、ローマ建築の基本構造に発展した。その構造は橋にも使われており、有名な水道橋に見られるように、築造技術は既に頂点に達していた。日本でのアーチ橋の初期の実例としては、江戸初期に造られた長崎の眼鏡橋があげられる。技術的には中国からの伝来と考えられ、そののち九州に多く架けられていったが、明治に入ると、欧米からの技術も加えられ、各地で架けられるようになった。日本の場合、欄干の組み立てなどには木造の技術も応用され、親柱に手摺を差し込むなどの構法がなされている。
 隅田川新大橋 旧所在地 東京都中央区浜町から江東区深川新大橋 建設年代 明治45年(1912) 日本の鉄橋の中で、古く有名なものとしては、鉄道橋では明治10年(1877)東海道線六郷川に架けられた六郷川鉄橋、道路橋では旧京橋区楓川の弾正橋(明治11年架橋、重要文化財)、そして隅田川に架けられた五大橋があげられる。五大橋とは、上流から順に吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋のことで、明治の五大橋と言われ、デザインはそれぞれに異なっていた。
 新大橋は、明治45年五大橋の最後の橋として日本橋浜町と深川安宅町の間に架けられた。設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。竣工後間もなく、橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まるが、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救った。
 全長180m、途中に2箇所の橋脚が立つ三径間の橋で、形式はプラットトラス型という。中央に車道を通し、両側には歩道を張り出している。路面は厚い鉄板の上にコンクリートを打ち、仕上げにアスファルト板を敷いていた。明治村に移築されているのは、日本橋側の一径間の半分、25m分である。力感あふれるトラスと対照的に、まわりには繊細な装飾が見られる。歩道の高欄もその一例で、細かい鉄材を組み合わせたデザインは曲線を多用したアールヌーボー風で、かたい橋の印象を柔らかなものにしている。また、橋の両たもとに置かれた白い花崗岩製の袖高欄と親柱は、線で構成された橋に対し、程良いアクセントとなっている。
 大明寺聖パウロ教会堂 旧所在地 長崎県西彼杵郡伊王島 建設年代 明治12年(1879) キリスト教は天文18年(1549)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって伝えられたが、その後、豊臣秀吉、次いで徳川家康の政権時に禁制となり、実に二百数十年を経た、明治6年(1873)に禁教が解かれた。この建物は明治12年(1879)頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂である。開国後、長崎の町に建てられた最初の教会は大浦天主堂(1865年完成)で、それから15年後のことであった。大明寺教会堂は、フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、地元伊王島に住んでいた大渡伊勢吉によって建てられた。若い頃、大浦天主堂の建設にも携わった伊勢吉は、当時の知識をこの教会堂に注ぎ込んだのである。内部こそゴシック様式だが、外観は、鐘楼を除けば、普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残している。教会堂内部は、一般的には中央身廊と左右側廊からなる三廊式である。
 明治村の聖ザビエル天主堂などの典型的なゴシック様式の教会堂では、列柱は大きなアーチでつながれ、大アーケードと呼ばれるが、この大明寺教会堂では一本おきに柱頭飾りから下の柱を取り払った姿になっている。連なる小さなアーチのそれぞれに柱を建てると堂内が大変窮屈になってしまうためで、木造だからできた離れ業といったところだろう。正面の土間や鐘楼は、創建後の増築である。このような地方の教会は創建の時に全てが完成しているものではなく、時代を経て少しづつ人々の手が加えられたのである。「コウモリ天井」とは、建築用語で「交差リブヴォールト」と言い、西洋のゴシック様式の教会建築によく見られる。柱の間に渡されたアーチ型のリブを骨として天井を支えている。この教会では木製のリブを骨として、竹小舞を球形の鳥籠のように編み上げ、両面に荒土、漆喰を塗り重ねてある。ちなみに「コウモリ」とは、骨の姿がコウモリ傘に似ているからである。また左右の側廊の天井は、日本風の「竿縁天井」を少し曲げて曲面にし、西洋のヴォールト天井に似せたものと思われる。1858年、フランス、ピレネー山麓の町ルルドのとある洞窟で聖母マリアが出現するという奇跡が起こった。それにあやかって世界各地の教会で「洞窟」の再現が行われた。それが、「ルルドの洞窟」である。通常、「ルルドの洞窟」を設ける時には、教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのであるが、この大明寺教会堂では室内に設けられており、それだけに、日本でも珍しい教会堂として数えられる。押入れのような凹みに小さな鳥籠状の竹小舞を編み上げ、岩の様に泥を塗りつけて仕上げてある。
 川崎銀行本店 旧所在地 東京都中央区日本橋 建設年代 昭和2年(1927) 川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており、当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。構造は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38メートル、高さ約20メートルの建築であった。関東大震災以前の大正10年に起工され、6年間の工期を費やして昭和2年に竣工した。設計者の矢部又吉は、ドイツのベルリン工科大学に学び、帰国後多くの銀行建築を設計したが、この建物はその代表作といえる。
 川崎銀行は、江戸時代、水戸藩の勘定方をつとめた川崎八右衛門翁が明治13年に設立した銀行で、明治中頃には有力銀行の一つに数えられた。その後昭和2年川崎第百銀行、昭和11年第百銀行と改称ののち昭和18年三菱銀行と合併した。一方、川崎財閥の信託部門として設立された川崎信託株式会社が昭和11年からこの建物を共同使用していたが、同社はその後日本信託銀行と改称、昭和28年から同建物を全館使用するところとなった。東京の中心地、日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきたこの建物は、昭和61年ビル立て替えのため惜しくも取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築された。日本橋に建て替えられた新ビルは、旧建物の中央玄関部分や柱のキャピタル部分などを保存再利用し、旧建物の面影を活かしたポストモダーンのデザインとなっている。あわせて参考にすべきであろう。
 皇居正門石橋飾電燈 旧所在地 東京都千代田区千代田 設置年代 明治26年(1893) 皇居正門の「石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋である。江戸時代からこの場所には「西の丸大手橋」と呼ばれる木橋が架けられていた。明治宮殿造営に際して二重橋の鉄橋も木橋から架け替えられたが、この「石橋」も木橋に替わり架けられた。橋体の設計は当時皇居御造営事務局の技手であった久米民之助、欄干の装飾は同じく河合浩蔵であった。橋は、明治19年3月に起工され明治20年12月に竣工した。岡山産大島花崗岩造りで、橋の渡り35.3m、幅12.8mで、橋脚は橋を均整の取れた形とするため、円弧のアーチを二つ並べた眼鏡橋の形に設計されている。この橋は、昭和23年から行われている一般参賀に開放されるが、それまでは、天皇、皇后、皇族、あるいは外国の貴賓と大公使に限って通行できた。橋の両側に高さ114cmの石の手すりがありその間に高さ174cmの男柱が片側3本ずつ計6本ある。それぞれの男柱石の上に青銅鋳造飾電燈計6基が設置された。皇居造営に伴い皇居内外に、この飾電燈を含めて900を超える電燈が設置された。電燈ははじめガス燈にする予定であったが、ドイツ人技術者オーベンにより電燈の照明度と安全性が上申され、電燈を採用することとなり東京電燈会社によって建設された。長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられた。明治村では男柱石を新材で製作しこれを台座としてその上に飾電燈を展示している。
 内閣文庫 旧所在地 東京都千代田区千代田 建設年代 明治44年(1911) 内閣文庫は、明治6年(1873)赤坂離宮内に太政官文庫という名で開設された明治政府の中央図書館である。明治23年(1890)内閣制度の制定とともに内閣文庫と改称され、昭和46年国立公文書館が設立されるまで、内外の古文書研究家に広く利用された。その蔵書は、紅葉山文庫本、昌平坂学問所本をはじめ和漢書籍、記録など旧徳川幕府ゆかりの書籍を中心とし、さらに明治政府が集めた古文書・洋書を加えて、我が国の中世から近代までの文化、中国の明、清代の文化に関する貴重な内容である。
 この建物は明治44年、皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館・事務棟である。本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガ・石造建築の教科書的作品である。特に正面中央には高さ7m余の4本の円柱と2本の隅角柱が並び、巨大なぺディメントを受け、その姿は古代ギリシャ・ローマの新殿建築を思わせる。設計は明治40年に横河工務所から大蔵省臨時建築部に移籍したばかりの若い大熊喜邦の手になる。その後の大熊は官庁建築の本流に位置し、昭和11年には、現国会議事堂完成を指揮するに至った。
 東京駅警備巡査派出所 旧所在地 東京都千代田区丸の内 建設年代 大正3年(1914)頃 明治41年(1908)、それまで品川を起点としていた東海道線を皇居正面の丸の内まで延長し、新しい中央停車場を建設する工事が開始された。その大工事は大正3年(1914)竣工、東京駅と命名され開業したが、その折駅前広場を整備する中で、この派出所が建設された。駅本屋との調和をはかるため、駅本屋のデザインを十二分に意識した設計がなされている。隅切り八角形の外形で、その屋上に小塔を置き、正面軒上に半円のぺディメントを、窓上には小庇を設け、腰壁に白い帯状装飾を廻らしている。構造は鉄筋コンクリート造で、化粧レンガを張って仕上げている。レンガ積ではなく鉄筋コンクリートの躯体に化粧レンガを張る工法は、当時日本で行われはじめた新しい工法であった。首府東京の表玄関であった東京駅では、天皇の地方巡幸や外国使節の従来など重要行事が多く、一時は12人もの巡査が詰めていたという。大正3年に完成した東京駅本屋は、日本建築界の第一人者、辰野金吾の設計になり、鉄骨レンガ造三階建、床を鉄筋コンクリートで造った長さ330m余の壮大な建物である。当初の計画では当時新工法として注目をあびていた鉄筋コンクリート造で全てを造ることも考えられたが、最終的には辰野博士が得意とするレンガ造で建設することに決したと言う。
 前橋監獄雑居房 旧所在地 群馬県前橋市南町 建設年代 明治21年(1888) 「監獄則並図式」(1872)に沿って、前橋監獄でも十字放射型配置の舎房が造られた。しかし、構造は和洋折衷の面白いもので、洋小屋に越屋根を載せているが、房廻りの構造は江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えている。太く堅い栗材を密に建て並べ、貫を通して鳥籠状に囲い、床や天井も堅固に組まれている。
 飲食から排便に至るまで同じ狭い房内で行われるため、とかく不衛生になりがちな監獄であるが、ここでは房廻り、廊下とも全て吹きさらしになっているため、風通しが大変良く、その面での心配は少ない。移築に当たり、左右合わせて21房あったものを切り縮め、9房と洗い場を復原している。素通しの房廻りとは言え、入口の周囲には板がはめ込まれ、中からは錠に手が届かないようになっている。その反面、扉には小さな窓が開けられ、扉の背後に隠れることを防ぐための配慮もなされている。
 金沢監獄中央看守所・監房 旧所在地 石川県金沢市小立野 建設年代 明治40年(1907) 金沢監獄では、広い敷地の北半分が管理のための建物群で占められ、南半分に舎房が置かれた。ここでも洋式舎房が採用されており、八角形の中央看守所を中心に、左右及び正面奥と左右斜め奥に五つの舎房が放射状に配され、右の舎房から順に第一、第二…第五舎房と名付けられた。移築復原に当たっては、先の正門と中央看守所、第五舎房の一部だけが遺されたが、当時の洋式監獄の形を十分にうかがうことができる。差渡し14mの広い中央看守所の中央には看視室が置かれ、ここから各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっている。現在ここに置かれている看視室は金沢監獄のものではなく、網走監獄で使われていたものである。
 木造桟瓦葺で外壁に洋風下見板を張り、中央看守所の窓には上ゲ下ゲ硝子戸を建て込んでいる。外見上は普通の西洋館の外壁と変わらないが、実は三重壁になっており、内外が厳重に区切られている。建築技法だけに限って考えると、近代の防音、断熱の先駆的な実例とも言える。看守所上部の見張り櫓へは小屋裏を抜けて昇るようになっており、その高さは地上高12mに達する。
 広い廊下の左右に独居房の重い扉が整然と並ぶ第五舎房の内部。扉の上には換気用の小窓が開けられ、衛生面に留意したことがうかがわれる。小屋組も合理的に設計されており、大梁の廊下部分は鉄筋に置き換えて組まれている。長い廊下の見通しを良くするための配慮であろう。
 宮津裁判所法廷 旧所在地 京都府宮津市本町 建設年代 明治19年(1886) 古来日本では裁判所を行政官庁から独立させる思想はなく、むしろ行政官庁が同時に裁判所でもあることが原則となっていたが、明治元年(1868)の政体書の中で、太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分離し、司法権を掌る刑法官を設けたのを端緒として、司法権の独立へと向かうことになった。明治4年(1871)司法省が置かれ、同8年最上級審として大審院が、翌9年には各地に4つの上等裁判所と23の地方裁判所が創設された。そののち幾度かの改編を重ねて整備が進み、明治23年(1890)の裁判所構成法により司法制度はその確立をみた。制度の改良と時を同じくして法律も整備され、明治15年にはフランス法系の治罪法が定められ、同23年には治罪法を改正して刑事訴訟法が制定された。このような司法制度確立期の明治19年に宮津裁判所は建てられ、この法廷はその一部である。
 控訴裁判所などの上級審が洋風レンガ造で造られたのに対し、和洋折衷の木造で建てられた。立式を採用した法廷内部や、窓、出入口などに洋風の影響を見ることができるが、明治村の中の他の多くの和洋折衷建物がペンキ塗であるのに対し、この建物は素地のままであり、和風の意識が強いことを表している。宮津裁判所全体の形は左右対称のH型で、中央に二階建の管理棟、左右両翼に法廷棟が配されていた。管理棟には、玄関、応接所、正庁、会議室などがあり、法廷棟には法廷のほか予審廷、検事調所があった。明治村に移築されているのは、右翼の刑事法廷棟である。法廷を復元するに当たり、明治村では人形を用いて当時の法廷風景の再現を図った。高い壇上に裁判官と検事、書記が座を占め、弁護士、被告人は下段に置かれている。法廷への入口も分けられており、裁判官達は廊下づたいに、弁護士、被告人は外の廻廊から入るよう定められていた。
洋食屋浪漫亭。
 菊の世酒蔵 旧所在地 愛知県刈谷市銀座 建設年代 明治初年(1868)頃 この建物は、西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵であって、梁間九間(約16m)桁行十八間(約33m)、外壁に厚い土壁を塗り廻した二階建部分と、幅二間(約3.6m)の吹き放ちの庇部分からなる。明治28年(1895)愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられたが、もとは明治の初め刈谷から程遠くない三河湾近くの新川(碧南市)に穀物蔵として造られたものを移したという。
 明治村は、昭和44年(1969)この建物を解体保存していたが、十数年を経た昭和58年(1983)12月に移築公開した。移築に当たり、広い蔵の内部を明治村の収蔵庫兼展示場に利用するため、鉄筋コンクリートで新たに地下室を設けるとともに、内部構造の一部を変更した。南半分は旧来の蔵造として遺したが、北半分は鉄筋コンクリート造に置き換え、下見板を張り廻して外観の様式を整えた。尚、蔵造部分の一階には、酒蔵に因んで、酒造りに関する多数の資料を展示しており、入口の杉玉もその一例である。
 大屋根を支える小屋組は、古い民家の形式である。梁間を三等分し、中央の部分を本屋、両側を下屋といい、本屋は背の高い二本の独立柱を立て大梁を架けて鳥居形とし、上に和小屋を組む。下屋は外壁の側柱から登り梁を本屋桁に掛け渡している。 二階木造部分内部。酒造りは、雪国や山村の農民、漁民ら出稼者で組織される「蔵人」にまかされる。蔵人の引率者が「杜氏」、その補佐が「頭」と呼ばれる。その下に、酒造りの大切な工程麹づくりの責任者「大師」(麹師などともいう)、醗酵のための酵母菌をふやす作業の責任者「廻り」が続く。また、道具の管理、酒しぼり、蒸米など役割に応じて責任者が決められ、それら責任者の下に「上人・中人・下人」らの職人がいた。この菊の世酒蔵内には、酒造りの道具が工程順に置かれ、当時の酒造りの様子が偲ばれる。
 高田小熊写真館 旧所在地 新潟県上越市本町 建設年代 明治41年(1908)頃 銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。このため写真師は文明開化の花形職業として高い収入と大きな名声を得ていたのである。
 この建物は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年(1908)頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居室があり、二階に写場(スタジオ)が設けられていた。創建以後、時世の変化に応じて増築や模様替えが重ねられていたため、移築に際しては創建時の姿に復原することに努め、背面及び内部の後補部分は取り去った。しかし、正面の突出部分は改造後の姿をそのまま復原した。大工棟梁によって地方に建てられた明治末大正初期の写真館の俤が偲ばれる。
 当時、写真師が写場を設営するにあたり最も苦労したのは、人工照明がないため、外光を写場にいかに効果的に取り入れるかであった。そのため屋根やカーテン、反射板等に様々な工夫が凝らされ、この写真館でも北側の屋根を全面ガラス張にし、独特の白黒天幕を用いて光景を調節できるようにしている。又、写真師は写真館の外観とともに、「書割」と呼ばれるバックや小道具にも力を注ぎ、専門の絵師にバックを描かせたり、高価な舶来の小道具を購入する等、その豪華さを競い合った。明治初期の湿板写真は、ガラス板の上に乳剤を塗り、それが乾かないうちに写したため、この名がある。写したガラス板のネガは黒いビロードにのせてポジ像に見せ、これを桐箱に入れて客に渡した。撮影には長時間の露出を要するため、「首おさえ」や「胴おさえ」を使って体を固定した。
 名鉄岩倉変電所 旧所在地 愛知県岩倉市下本町 建設年代 明治45年(1912) 明治20年(1887)に東京で日本最初の電気事業が開始された。当初は需要の多い地域毎に火力発電所を設置し、低圧直流の電気を発電供給する方法であったが、小規模の発電所が市内各所に点在し、その技術的な統一が困難になってきたため、高圧交流式の大火力発電所が建設されるようになった。これに伴い、それまでの小発電所は変電所に振り替えられていった。電気事業の進展は電車という新しい交通機関を可能にした。京都市電に遅れること3年、名古屋電気鉄道により明治31年(1898)日本で2番目の市内電車が名古屋市内に走るが、同社はその後も尾張地区に路線を伸ばし、大正元年(1912)には犬山線を開通させた。その時、この岩倉変電所が建てられた。内部に高価で大きな変電用機械を入れるため、背の高いレンガ造建物になっており、屋根には天然スレートを葺いている。出入口や竪長の大きな窓は半円アーチとし、色の濃い焼過ぎレンガを上下四段の帯として入れている。建物四隅にバットレス(控壁)を付けているが、この建物のように小屋組がトラスの場合はバットレスを付けないのが通例である。移築に当たり、構造躯体を鉄筋コンクリートに改め、外装にはレンガタイルを張った。岩倉発電所の背面は、他の三面と趣きを異にし、レンガ積の様々な手法で装飾を施している。半円アーチ、円弧アーチ、柱型、凹みなど設計者の楽しみのあとがうかがわれる。
 帝国ホテル中央玄関 旧所在地 東京都千代田区内幸町 建設年代 大正12年(1923) この建物は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部である。
 皇居を正面にして建てられた帝国ホテルは総面積34,000u余の大建築で、中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配されていた。全体計画から個々の客室に到るまで、きわめて多様な秀れた空間構成がなされ、それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを、立体的な構成へと発展させた世界的に重要な作品である。
 この中央玄関は、建物の特色をよく遺しており、軒や手摺の白い大谷石の帯が水平線を強調し、またその帯が奥へ幾段にも重なって、内部空間の複雑さを予想させる。大谷石には幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目を入れて、柔らかで華麗な外観を現出している。レンガ型枠鉄筋コンクリート造とも言える構造であり、複雑な架構に鉄筋コンクリートの造形性が生かされた作品である。移築に当たっては、風化の著しい大谷石に代えてプレキャストコンクリートなどの新建材も使った。
 メインロビー中央には三階までの吹き抜きがある。中央玄関内の全ての空間は、この吹き抜きの廻りに展開し、その個々の空間は、床の高さ、天井の高さがそれぞれに異なっており、大階段、左右の廻り階段を昇る毎に、劇的な視界が開かれる。建物内外は、彫刻された大谷石、透しテラコッタによって様々に装飾されている。特に左右ラウンジ前の大谷石の壁泉、吹き抜きの「光の籠柱」と大谷石の柱、食堂前の「孔雀の羽」と呼ばれる大谷石の大きなブラケットは、見る者を圧倒する。吹き抜かれた大空間の中を光が上下左右に錯綜し、廻りの彫刻に微妙な陰影を与え、ロビーの雰囲気を盛りあげている。
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出典:博物館 明治村公式ホームページ