更新日時 2009年06月06日

 海軍司令部壕(かいぐんしれいぶごう)は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されている。沖縄県豊見城市と那覇市にまたがる。1944年(昭和19年)、太平洋戦争において日本軍の敗色が濃厚となり戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになった。沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになり、飛行場を南東から見おろす標高74メートルの火番森あるいは七四高地と呼ばれる丘が選定された。司令部壕は1944年8月10日に着工されたが、本格的な工事は10月10日の十・十空襲以降に始められ同年12月に完成した。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われた。小禄地区周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず工事は軍隊の手のみによって行われている。
 枝分かれした全長約450メートルの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されている。
海軍壕公園ビジターセンター 旧海軍司令部壕入り口
入り口から20mの深さがある。ヒンヤリとしてカビ臭い。
暗号室:17平方メートルの広さがあり、ここから約2900通の電報が発信された。
壕内見取り図 壕内の状況
作戦室:7.5平方メートルの広さがあり作戦を立てるために使われた。
壕内は迷路のようになっている。
幕僚室:10平方メートルの広さがあり幕僚が手榴弾で自決した痕跡が残されている。
司令官室:壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されている。
壕内は見学しやすいように照明等が整備されている。
暗号室:17平方メートルの広さがあり、ここから約2900通の電報が発信された。
医療室の想像画
医療室:7.5平方メートルの広さがあり負傷兵用の2段ベッドが置かれていた。
発電室:壕内に3ヶ所、それぞれ5平方メートルの広さがあり発電機が置かれていた。
当時使われたツルハシ。 狭い通路。
下士官室、兵員室:壕内に2ヶ所、それぞれ13平方メートルの広さがあり兵士が休息するために使われた。
 戦闘が激化した時期には壕内に4000名もの兵が集まり坑道も事実上の兵員室となっていた。このような中で多くの兵士は立ったまま睡眠を取る有様であった。
立ち入り禁止区域。 当時の支柱
狭い通路。 下士官室
下士官室:13平方メートルの広さがあり下士官が休息するために使われた。
出口:出撃の風景(出口付近)
立ち入り禁止区域。当時はこの様な感じで有ったのだろう。
当時の炊事場への通路。 立ち入り禁止区域。
当時の説明写真。
昭和20年6月4日〜13日の小禄地区戦闘経過要図 米軍上陸全般図
沖縄戦の写真。
沖縄戦の写真。 出口へ向かう上り勾配。
旧海軍司令部壕出口。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沖縄 海軍司令部壕