更新日時 2010年04月26日
雲巌禅寺(うんがんぜんじ)は熊本市西部に位置する金峰山の西麓に古くは南北朝時代に日本に渡来した元・曹洞宗の僧「東陵永與(とうりょうえいよ)」が開基したと伝えられる。その雲巌禅寺の境内にある洞窟を霊巌洞(れいがんどう)と言い、宮本武蔵がこの洞窟にこもって兵法の極意書である「五輪書」を著した場所として広く知られている。 雲巌禅寺境内は昭和50年5月、熊本県指定史跡及び名勝として指定されている。宮本武蔵のゆかりの地として以外にも、洞内に安置される観音像は「岩戸観音」の名で、また、謡曲「桧垣(ひがき)」によって広く知られているそうである。雲巌禅寺へは、岩戸の里公園として整備された駐車場から少し歩くことになる(2〜3分程度)。その奥にある五百羅漢と霊巌洞のある境内からは有料となっている。 | |
勝ち運を呼ぶ武蔵像:剣聖 宮本武蔵は天正12年3月(1584年)岡山県英田郡大原町宮本に於いて、父、新免無二斉、母お正の次男として生まれた。武蔵は13歳の時藩州平福で新刀流、有馬喜兵衛との戦いに打ち勝って以後諸国を巡って剣の道一筋に錬磨しその間、京都一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め29歳で九州船島(巌流島)に於いて佐々木小次郎と決闘し、60余度の勝負に一度も負けることは無かった。 | |
霊巌洞での武蔵:当時57歳の宮本武蔵を客分待遇で肥後に招いた藩主細川忠利公は、武蔵が熊本に来て1年足らずのうちに急逝します。武蔵は失意のうちに門戸を閉ざし、書画、彫刻、禅に没頭するなか、心気統一のために金峰山麓の霊巌洞に度々参禅します。城下から霊巌洞へ通う武蔵に、この山麓が湛える自然の風景が心を癒すものとなったことでしょう。武蔵は正保2年(1645年)に”死後も藩主の参勤の列を見守りたい”と言い残し、62歳の生涯を閉じました。 | |
黒岩展望所より見る。左写真は河内方向。 | |
霊巌禅寺入口。 | |
霊巌禅由来記:南北朝の頃、中國からの帰化僧 東陵永與によって再興されたものです。1365年東陵の倚像は重要文化財に指定されています。当寺の本尊である四面観音像は行基菩薩の作と伝えられております。境内には渕田屋儀平が24年間の歳月をかけて奉納したいふ五百羅漢を始め十六羅漢等が安置され、又、宮本武蔵が「神佛は尊し、されど神佛を頼まず」と伝ふ心境で書いた五輪書の書が霊巌洞にあります。 | |
霊巌禅寺入口。拝観料を支払い、入場する所には武蔵の肖像画(島田美術館収蔵)や巌流島で佐々木小次郎との対決に使用したとされる木剣が飾られている。 | |
五百羅漢:熊本の商人渕田屋儀平の願いにより安永8年(1779年)から享和2年(1802年)まで24年間かかって奉納したと言われている。永年の風雨による自然崩壊や明治初頭の廃仏毀釈、1889年の大地震の破損等で完全なものは約半数に減っている。 | |
羅漢とは釈迦の教えを聞いて悟りを開いた俗体の弟子達のことであり、釈迦の信仰と兵に羅漢も信仰の対象とされるようになった。五百羅漢の一つ一つの姿を注意して見ると必ず自分の身内にそっくりの顔を見いだすことができるとの言い伝えがある。 | |
閣魔洞。 | |
霊巌禅寺。 | |
二天一流は世に言われる二刀流では有りません。剣聖宮本武蔵は生涯を行雲流水の求道の旅で終わり、30歳の前半を諸国の兵法者と戦い、51歳に至る約20年は史実的に全く空白で東西に剣客の旅を続け、寛永17年に肥後の細川忠利候に招かれ細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し忠利候の命をうけ「兵法35箇条」を献上しました。その2年後に兵法35箇条を骨子とした五輪書をこの霊巌洞に籠もり執筆し、正保2年5月12日寺尾勝信に伝授、寺尾信行には35箇条を授与し師範家相続の証としました。以来二天一流は五輪書で確立し師範家は五流派に分かれ藩外不出として栄え江戸末期には、野田、山尾、山東の三流派のみ継承されその後明治から昭和にわたり断絶或いは再興し県外流出の流派もあり、現在では師範家は野田派のみ連綿として熊本に現存しております。野田派では毎年5月19日の武蔵の命日に霊巌洞で、6月12日の寺尾信行の命日に寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し先師の霊を弔い道場では朝鍛夕練の精神で二天一流の鍛錬を続けております。 | |
霊巌洞。 | |
この岸壁には細川家の家老沢村大学及び戦国時代の文武兼備の武将鹿子木寂心の逆修も彫られている。(逆修とは生前に於いて戒名など付けてもらい一般の葬式などを生前修行巌修するものなり) | |
千数百年の昔より、この霊巌洞に安置されているのは石体四面の馬頭観音である。中央の岸壁に霊巌洞とあるのは霊巌寺の開祖東陵(1285年〜1365年)の篆刻である。宮本武蔵がここ霊巌洞に参籠し五輪書を書き始めたのは寛永20年(1643年)彼が60歳の秋のことであり、その後1645年5月12日門人、寺尾孫丞勝信に五輪書を授けた「神佛は尊し、されど神佛を頼まず」武蔵がその波乱に満ちた生涯を静かにふりかえり、剣の道をまとめあげるには、絶好の場所であったらう。 | |
霊巌洞。 | |
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