更新日時 2017年05月27日

 別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校まであった「街」があったのかと信じられないように現在は山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが残っている。付近は再整備され、歴史資科館や、保安本部跡を利用したマイン工房、花木園、高山植物園、子供広場などがある。また東平小学校、中学校の跡地には銅山の里自然の家がある。『東洋のマチュピチュ』と新聞に取り上げられ、観光会社がツアーを企画するなど人気を集めつつある。
昔の東平地図。別子銅山記念館リンク
 @旧保安部跡:明治35年(1902年)頃に第三通洞の開鑿や電車用の変電所として設置された。その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。明治38年(1905年)頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。時代と共に建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所としてしようされた。昭和26年(1951年)頃からはキャンプランプの充電場として使用された。その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957年)頃まで使用された。第三変電所の建物と共に東平地区では珍しいレンガ造りの建物である。現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している。
@東平マイン工房。12月1日〜翌年の2月末まで休み。
 A東平貯鉱庫跡:重厚な花崗岩造り。明治38年ころに建設されたと思われます。第三通洞経由で運ばれてきた鉱石と、新太平坑と東平を結ぶ太東索道から運ばれてきた鉱石を、一時的に貯蔵するものでした。坑内から運び出された鉱石は、索道基地から下部鉄道黒石駅(昭和10年からは端出場)に搬送されるまでの間、ここに貯められていました。
A東平貯鉱庫跡。 B東平索道停車場跡。
 C旧インクライン跡:大正5年(1916年)頃、東平・端出場索道の物資運搬の接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。動力は電気巻上であった。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていた。インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年マイントピア別子・東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。インクラインは、明治37年(1904年)に完成した四阪島製錬所や、大正14年(1925年)に完成した新居浜選鉱場でも上部への鉱石等の運搬手段として設置されている。
 B東平索道停車場跡:東平と端出場を結ぶ主要輸送機関でした。鉱石は隣接する貯鉱庫から搬器に移され、端出場へと運ばれていました。 明治26年(1893年)から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ヶ山丈〜端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年(1902年)第三通洞(東平坑口〜東延斜坑底間(3,575m)にドイツ人の索道技師ブライヘルトにより自動複式索道が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継がされていた。新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。その後、昭和10年(1935年)には距離を短縮して東平〜端出場間(2,717m)とした。東平〜端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、80器ほどの搬器が吊されて分速150mで回転していた。同年に太平坑〜東平間(1,312m)の索道が完成し、嶺北に搬出された鉱石も東平の索道基地に下りていた。索道では鉱石運搬から木材、日用生活品・郵便物・新聞もこの索道で運ばれました。
 B東平索道停車場跡。
 D住宅跡:鉱山で働く人々の社宅がここにありました。基礎のコンクリートを生かし、骨組み(スケルトン)で実物大に復元しています。現在も「かまど」が残っており、往時をしのばせています。
 E娯楽場跡:東平娯楽場は明治45年(1912年)に建設され、東平坑が閉坑される昭和43年(1968年)までの57年間東平の人々の憩いの場として親しまれました。収容人数は2000人といわれ、定期的に映画や劇が上演されていました。その際には、東平の人々がここへ集まり社宅が空っぽになるぐらい人気がありました。東平では、住民自ら劇団や楽団を結成して、お祭りの際にはご披露していました。撤去後は植林がなされ、現在は手前の橋が残されるだけです。かつてのにぎわいが夢のようです。
E保育所跡。
 E配給所跡:東平生協は明治39年(1906年)に配給所として開設され、閉山までの62年間、東平の台所として多くの人々に親しまれました。そして、昭和33年(1958年)6月1日に配給所から生協として新しく生まれ変わりました。ここには、いつも新鮮な魚や肉、その他にも生活に必要な品物はほとんどそろっていたと言います。この様な施設は筏津・打除・鹿森・山根・川口新田・惣開・四阪島などにも、たくさんありました。なお、別子山村側の筏津は生協に変更しないで、最後まで会社配給所として存続しました。また、惣開は別子調度事業所として昭和22年(1947年)10月に発足し、これが昭和25年(1950年)3月1日に別子百貨店(現在の新居浜大丸)「平成13年(2001年)5月をもって閉店となりました」に移行しました。
 E病院跡:住友別子病院東平分院は当初東平出張所として明治38年(1905年)11月1日に開設、昭和43年(1968年)3月31日に廃止されて、63年の間、東平の人々の命と健康を守り続けてきました。明治開設当初、内科、外科の診療が行われました。普通の病室の他に隔離病棟と避病舎も設置されており、法定伝染病の人たちの収容も行われました。
E病院跡 F当時の様子。
F当時の索道の様子。索道は鉱石の重さで自動で動いていた。
F当時の娯楽場の模型。 F当時の小学校の模型。
F当時の生活用品や鉱山で使用された道具類。
F東平歴史資料館。 F精製アノード(粗銅)
F東平歴史資料館に展示されている当時の写真。
F東平歴史資料館に展示されている銅製品。
F東平歴史資料館に展示されている銅製品。
F東平歴史資料館に展示されている銅製品。
 F小マンプ:東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて2つのトンネルがあります。東平集落にある短いトンネルを小マンプと呼んでいました。マンプとは坑道を意味する間符から転じたものとされています。
 Fプラットホームは東平から第三通洞へ、さらには別子側の日浦までを結ぶ電車の乗り降りをするための場所です。かご電車は、一般の人が利用する客車のことで、その様子から「かご電車」と呼ばれています。人車は坑夫が通勤に利用する車両のことで台車に座席がある程度の簡単な構造になっていました。昭和13年(1938年)から、人車の後ろにかご電車が接続され、一般の人が別子山日浦まで行くための唯一の交通手段として活躍しました。プラットホームを出発した電車は、プールしたのトンネル(通称:小マンプ)を通り、喜三谷のトンネル(通称:大マンプ)を通り、第三通洞に至ります。電車は蓄電池型と電線から電気を取って動いていたトロリー型もありました。電車の運行は朝・昼・夕方の3便でしたが、夕方の電車に乗り遅れたり、急用の場合、また、筏津の人が東平で夜の映画を見ての帰りなどに特別電車(特電)を出すこともあったそうです。東平、日浦間は30分程度で結ばれていました。東平坑が閉坑した後、かご電車は5年間は運行されていましたが、1日2便に減少されました。昭和48年に35年の歴史を閉じました。
 F2t蓄電車:おもに小さな坑道で鉱車の牽引、坑木などの運搬に使用され、古い時代の人力運搬に代わって威力を発揮しました。東平−日浦間のかご電車(人車)の牽引にも使われました。
 F600Bローダー:鉱石などをすくい取って、鉱車に積み込む機械です。機能はブルドーザーと同じですが、動力には圧縮空気が用いられ、、坑内の限られた範囲内で効率が上がるように工夫されていました。
F鉱車。
 F坑木運搬台車:坑内の支柱などとして使用される木材などを乗せて運びました。このほかにも木材の形や長さによって、使いやすく工夫された、いろいろな形のものがありました。
 Fかご電車:昭和13年(1938年)から昭和48年(1973年)の休山まで東平坑口と日浦坑口の間、約4,000mの坑内を往き来する人々が乗った人車です。銅山で働く人以外も、無料で乗車でき、銅山峰の嶺南側と嶺北側を結ぶ重要な交通手段で、その形から、「かご車」の愛称で親しまれていました。
 F充電電車:坑道内の鉱車の牽引、坑木などの運搬に用いられた蓄電車(2t、4t、6t)のバッテリーを充電するための機械類を積み込んだ電車です。
 Fキブル:立坑を下向きに掘削して行く時に、破砕したズリ(岩石の破砕物)を運び出すために用いられたバケットです。立坑の大きさによって0.7立米、1.4立米のものがありました。  F索道バケット:東平−端出場間などに架設された索道において、鉱石や生活物資などを運んだ運搬具です。索道は、電気を使わない重力差を利用した自動複式で、東平から鉱石を降ろし端出場からは生活物資を上げていました。
 Fエアーホイスト:圧縮空気を動力源とした軽便巻揚機で、坑内の採掘現場に近いところで、主として保坑用の坑木や板を巻き揚げていました。ほかにもレールやトロッコを解体して巻き揚げることもありました。  Fスラッシャー:シールド採鉱法で堀取った鉱石をかき寄せるスクレーパーの電動機です。シールド枠に取り付けるために、モーターとワイヤードラムが縦に配列された独特の形をしています。使用する場所や長さによって、5〜30馬力のものがありました。動力には圧縮空気を使ったものもありました。
F小マンプ:大マンプ側。
G鉱車の廃線跡。
H大マンプ:東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて2つのトンネルの内長い方のトンネル、大マンプです。
H大マンプ内部。内部撮影は特殊機材を使用。
I大マンプは入れないので迂回します。
 J第三社宅:第三社宅の名前の由来は、第三通洞の第三(三番目に掘った通洞)からです。第三社宅は、大正10年11月9日現在で9戸の社宅がありました、その後、昭和42年(1967年)に18戸あった社宅を全て撤去しました。現在は、第三変電所の下は広場になっていて遊具なども設置されています。
K迂回路から大マンプの第三通洞側へ。
L大マンプ:第三通洞側。
 M東平採鉱本部跡:採鉱の中心は、第三通洞の八番坑道準と九番坑道準に移行しつつあったので、第四通洞、大立坑の完成を機会に、大正5年(1916年)採鉱本部を山頂に近い旧別子の東延から中腹の東平(第三地区)に移した。採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠を築き、その上に二階建てで建築された。採鉱本部前には柵が巡らされ、その内には、火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。採鉱本部は、昭和3年(1928年)に、選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館などの中枢機能が集積していた東平地区に移転した。そして、採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。採鉱本部は、昭和5年(1930年)に東平から端出場に移された。
 N旧東平第三変電所:明治37年完成。落し水力発電所から送電されてきた電力の電圧調整と明治38年に第三通洞に坑内電車が導入されたことに伴い、その坑内電車用に直流変換するために設置されたものとされています。
N旧東平第三変電所内部。木造の階段と床が抜けそうで怖いです叫び
 O旧東平火薬庫:明治45年に探鉱を目的に開削された坑道を活用したもので、坑道掘削用のダイナマイトなどを保管していました。不測の事態が発生しても、爆風が人や施設に影響を与えないように考慮されています。
P第三通洞前の橋梁にレール跡が残る。
 P第三通洞:第三通洞は東延斜坑の下底部にあった三角という別子鉱床の富鉱部を狙って明治27年(1894年)に開削に着手した多目的坑道である。同35年に完成したことにより、坑内水の排出と通気問題が一挙に解決し、出鉱量も飛躍的に増加していった。更に、明治44年に別子銅山側に日浦通洞が貫けたことにより、東平と別子山日浦が全長3,990mのトンネルで結ばれ、別子鉱山の北と南を結ぶ動脈となった。更に鉱山ではかご電車という鳥かごのような人車を連結して一般にも開放したので、利用者が多くて特別に人車を増結することもあった。昭和48年、そのかご電車別子鉱山の終掘と同時に廃止された。
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東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平