更新日時 2011年04月12日

 近江八幡市(おうみはちまんし)は、滋賀県中部、琵琶湖東岸に位置する市。2010年(平成22年)3月21日、近江商人と水郷で有名な(旧)近江八幡市と安土城で有名な蒲生郡安土町が合併して成立した。近江八幡市は、豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展した。いわゆる近江商人の発祥の地である。近世の風情がよく残る「新町通り」・「永原町通り」・「八幡堀周辺」・「日牟禮八幡宮境内地」は「八幡伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが住み、多くの近代建築作品を遺した地としても知られている。2005年9月1日には水郷地域160ヘクタールが景観法に基づく「景観計画区域」に指定された。これは同法の適用第1号である。さらに2006年1月26日には「近江八幡の水郷」として重要文化的景観の第1号に選定された。「八幡」は「やわた」や「やはた」とも読めるため、地元以外の人間からは「おうみやはた」や「おうみやわた」と読み間違えられることがある。また、「近江八幡」を冠する神社があるとしばしば誤解を受けるが、地名のもととなった神社名は「日牟禮八幡宮」である。市名に旧国名の「近江」を冠しているのは、市制施行時に福岡県八幡市(やはたし)が存在したためである。しかし福岡県八幡市は1963年に合併し、北九州市の一部となり消滅した。その後、1977年に京都府八幡市(やわたし)が誕生したが、この時点では既に福岡県八幡市は消滅していたため、同名回避は行われなかった。このため、先に市制を敷いた側が冠称を付けるという珍しい結果になった。なお近江八幡駅は市制施行前の1919年に八幡駅から近江八幡駅に改称しているが、これも福岡県の八幡駅との同名回避によるものである。
 @新町:安土城下の新町を移したものだと考えられます。その内、四丁目については「浅小井町」と呼ばれた時期があり、ここは安土の新町とは異なり、浅小井出身者が占めたと考えられます。また、江戸期以降に多くの豪商を輩出しており、主な商人に安南屋西村太郎右衛門や山形屋西川甚五郎、大文字屋西川利右衛門、大文字屋西川庄六、一扇屋森五郎兵衛などが挙げられます。
@近江八幡 近江商人の町並み。
@近江八幡 近江商人の町並み。
A近江八幡 近江商人の町並み。 A山本医院。竣工1998年4月。
 B近江商人のふるさと:天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡山頂に築城、本能寺の変で主なき城下町となった安土の町を移し、翌年、八幡山下町掟書を公布、縦12通り、横4筋の区画整然とした城下町が誕生、しかし開町から10年、廃城となるが、その後は商業都市として栄え、北は北海道、南は九州、遠くは東南アジアまで活躍した近江商人の一つの古里でもある。今なお、五番目状の町並みは旧市街によく残され、特に新町や永原町には近江商人の本宅であった家々が建ち並び、八幡堀に面した土蔵群等、往時の在郷町としての繁栄を伺い知ることが出来る。現在、伝統的な建造物群保存地区の指定を受けたこの町並みは、未来の都市空間の中に継承すべき貴重な文化遺産であり、近江八幡の心のよりどころである。
B市指定文化財旧伴屋住宅。
B近江八幡 近江商人の町並み。
 C森五郎兵衛邸:初代五郎兵衛は、伴傳兵衛に勤め、別屋を許され、煙草や麻布を商いました。やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍しました。1931年(昭和6年)に野村藤吾設計により東京日本橋室町に地上7階の「近三ビル」(屋号:近江屋の「近」、三左衛門の「三」より命名)を建築し、現在も近江商事として健在です。尚、市立図書館の一部でもある歴史民俗資料館は森家の控宅で、昭和54年に市へ寄贈されたものです。
C近江八幡 近江商人の町並み。
 C西川庄六邸:2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳・綿・砂糖・扇子などを商いました。3代目の頃になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、九州島津藩指定御用商人になるなど西川利右衛門に次ぐ豪商となりました。8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田天香」氏らとの交流もありました。現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として活躍中です。当建物は江戸中期の建物で間口は13.0m、奥行きは14.9mあります。左側に座敷部分が張り出し、他にも「でみず間」「化粧間」「板塀」「表土蔵」などがあるたいへん規模の大きい町屋です。
C近江八幡 近江商人の町並み。
D近江八幡 近江商人の町並み。
 E八幡堀:近江八幡の町が発展した理由はいくつかありますが、八幡堀の役割は欠かすことができません。堀は城を防御するために存在しますが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用することを考え、琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡の町へ寄港させました。また、八幡山城下はかつての安土と同じく楽市楽座を取り入れたことから、商人の町として大いに活気を呈しました。多くの商人が八幡の町から全国へと旅立ち、近江商人として活躍した原動力となった八幡堀も、昭和30年頃になると時代は高度経済成長期に入り、人々の生活が変化する中で、次第に市民の関心も薄らいできました。やがて、八幡堀はどぶ川のようになり、埋め立てられようとしました。しかし、「八幡堀は埋め立てられた瞬間から後悔が始まる」の合い言葉により、市民が立ち上がり、清掃活動に取り組みました。その結果、次第にかつての姿を取り戻すようになり、今日でも各種団体による清掃活動が続けられています。八幡堀は、写真や絵画の愛好家などが数多く訪れ、時代劇のロケ地としても頻繁に使用されるなど、市民や観光のシンボルとして位置づけられています。
 F背割排水:通りに面する町屋が背と背を合わせる部分には「背割り排水」「背割りの溝」と呼ばれる水路が通り、八幡堀につながっています。この溝が整備されているのは、主に町西半部の土地の低い地域です。下水道の役割を果たすと共に、城下町建設以前、沼沢地だったこの地域の排水に役立てられたと考えられます。竹管を使った古式水道の整備と共に、豊臣秀次(近江八幡開町の祖。豊臣秀吉の甥)の町作りの計画性が感じられる施設です。
 G近江八幡の町並み:近江八幡市は、天正13年(1585年)に豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が八幡山に城を築いたことに始まります。秀次の楽市楽座等による商工業の発展政策は、その後の近江商人の活躍の原動力となりました。天正18年(1590年)に秀次が移封され、ついで京極高次が城主となりますが、わずか5年後の文禄4年(1595年)に廃城となります。城下町商人としての特権は失われましたが、船や街道を利用して多くの人や情報、文化が入ってくる地の利を活かし、その先進性と自立的な商法により八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。今なお五番目状の整然とした町並みは旧市街地に残され、特に新町や永原町にはかつての近江商人本宅の家々が立ち並び、八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。
 H此の割堀は天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡城を築城・それと同時に構築されたもので東は北之庄の沢より西は南津田長命寺湖岸近く外湖を結ぶ全長約5q、その全体を「八幡浦」と稱した。今日では八幡堀といわれているが、八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり大津・堅田とならんで琵琶湖の三大港の一つに数えられていた。湖上を往来する北陸と関西の物資を満載した全ての船はこの八幡浦に寄港し大いに賑わい、今も残る堀沿いの土蔵・倉庫群は往時の繁栄を物語っており、その重要性は近江商人の活躍を絶対的なものにしたものである。この割堀こそが、近江商人の代表八幡商人を生み出した源流である。
H夕方の八幡堀風景。
 I日牟礼八幡宮:八幡山の南麓に建つ旧八幡町の総社で、近江商人の信仰を集めていました。江戸初期に海外貿易で活躍した西村太郎右衛門が寄進した「安南渡海船頭」(重要文化財)が納められています。 鎮座の始め。伝記によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。應神天皇6年(275年)、天皇が近江に行幸されました。その際奥津島神社に参詣され、還幸の折に宇津野々辺(社の近辺と見られる)にて御少憩になり、当地に御座所が設けられました。年を経た後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。持統天皇5年(691年)には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた旨も伝えられています。そもそも日牟礼社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。日觸使主を始めとする和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族です。古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、その祖神あるいは紙祇を奉祀していました。この一般例に鑑みると、当社は同族の人びとがその祖神を祀る斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられます。
 I正暦2年(991年)、第66代一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀りました。さらに寛弘2年(1005年)には遥拝の社を麓に建て、「下の社と号す」こととなりました。現在の社は麓の「下の社」に相当すると解することができます。上下に社殿を整えた時代にも、皇室の崇敬は篤く、弘安4年(1281年)蒙古襲正暦2年(991年)、第66代一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀りました。さらに寛弘2年(1005年)には遥拝の社を麓に建て、「下の社と号す」こととなりました。現在の社は麓の「下の社」に相当すると解することができます。上下に社殿を整えた時代にも、皇室の崇敬は篤く、弘安4年(1281年)蒙古襲来の折には奉幣があり、康安2年(1362年)には御光厳天皇、永和元(1375年)には後圓融天皇と二度の綸旨を下して天下の静寧を祈らせ給いました。また承久3年(1221年)源氏に神主補命が下されて後は武家においても、足利将軍家を始め近江の守護六角氏以下のもと神事の退転を防護し、社領を寄進するなど種々の尊崇の実を尽くされました。天文10年(1541年)には、近江の守護佐々木六角に召され観音寺に登城、御屋形号を許されました。
 Jロープウェーの所要時間は約4分ほどですが、山頂からは四季折々の琵琶湖、西の湖、旧城下町などが見渡せる大パノラマが広がります。 八幡山(標高271.9m)は、豊臣秀次が築いた八幡城の城跡で本丸跡には村雲瑞龍寺が京都から移築されています。碁盤の目状に整えられた町並みの美しい市街地や田園風景が眺められます。山頂駅で降り、石垣を上がっていくとお願い地蔵堂、さらにその上に村雲御所瑞龍寺門跡があるのは、秀次によって築かれた八幡山本丸跡で、そのほか西の丸や北の丸跡も残されています。
J営業時間 年中無休(9時から17時まで)※毎時15分間隔で運行しております。
 料金 おとな/片道460円、往復800円 こども/片道230円、往復400円
K八幡山ロープウエーに着いた時には17時になっていたので徒歩で八幡山を登る。
 L最初看板を見間違えてロープウエー山頂駅まで徒歩で10分と思い、日暮れまでに降りてこられるだろうと考えていましたが、ロープウエー山頂駅まで徒歩で30分かかりました。
M不動明王とロープウエー山頂駅の分岐点。ロープウエー山頂駅は左方向。
Nロープウエー山頂駅。
Nロープウエー山頂駅からの近江八幡の町並み。
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