更新日時 2019年01月19日

尾小屋鉱山からみ煉瓦と町並み
 尾小屋鉱山とは、かつて石川県小松市尾小屋町に存在していた銅山である。江戸時代から、試験的に金の採掘がなされてきた。天和2年(1682年)頃は金山として金が採掘され、その後廃山となったが、宝永年間(1704年-1710年)に再び金の採掘が行われた。しかし、金山としては品位が低く、盛業にはいたらなかった。金山としては注目されなかった尾小屋鉱山だが、明治以降に銅山として脚光を浴びるようになる。1880年(明治13年)に加賀藩の家老であった横山家が経営に加わり、銅山としての試掘を開始。1886年(明治19年)に銅鉱石の新鉱脈が発見されてから隆盛期を迎える。1896年(明治29年)洪水を機に坑内の施設を近代的なものに変え、1903年(明治36年)には銅生産量が1,000tを超えた。その後、1920年(大正9年)の2度のストライキを経験するなど労働争議が頻発し、1931年(昭和6年)には経営が行き詰まる。鉱山は日本鉱業の手に渡った後、1962年(昭和37年)には北陸鉱山(日本鉱業の関連会社)へと再三経営者が変わり、1971年(昭和46年)閉山された。 ジャパンエナジーの前身である日本鉱業の歴史は、1905年に久原房之助が日立銅山(買収以前は赤沢銅山)を買収したことに始まる。その後、日立(茨城県)や佐賀関(大分県)に製錬所を設け、金属製錬事業を拡大していった。ところが久原鉱業は第一次世界大戦後の不況で経営危機に陥り、久原自身の健康も害したため、経営再建を鮎川義介に託した。鮎川は久原鉱業の持株会社化を図り1928年に日本産業株式会社に商号を変更、翌年にはその鉱業部門を独立させ日本鉱業株式会社が発足した。
@尾小屋鉱山の六角柱(亀甲形)のカラミ煉瓦。
A尾小屋鉱山の六角柱(亀甲形)のカラミ煉瓦。
A尾小屋鉱山(遊泉寺銅山?)の四角柱のカラミ煉瓦。
A尾小屋鉱山(遊泉寺銅山?)の四角柱のカラミ煉瓦。
A尾小屋鉱山(遊泉寺銅山?)の四角柱のカラミ煉瓦。ドリルのビット?
B尾小屋鉱山の廃橋梁。
B尾小屋鉱山の廃橋梁。
B尾小屋鉱山の廃病院跡に怪しい薬の瓶が転がっていた。
C尾小屋鉱山の町に残る横穴。
C尾小屋鉱山の町に残る横穴。郵政省の看板で隠された中には井戸の様な物がある。
D郵政省の境界杭。
D尾小屋鉱山の四角いカラミ煉瓦で造られた建物跡。排水処理施設?
D尾小屋鉱山の四角いカラミ煉瓦で造られた建物跡
E尾小屋鉱山の四角いカラミ煉瓦で造られた建物跡
E尾小屋鉱山の床屋?跡。
F尾小屋鉱山の街中にあるカラミ煉瓦の倉庫?
F尾小屋鉱山の街中にあるカラミ煉瓦の倉庫?内部。
F尾小屋鉱山の街中にあるカラミ煉瓦の倉庫?内部。2階の壁は朱塗りの壁だ。
G尾小屋鉱山の住宅地跡。
G尾小屋鉱山の住宅地跡に煉瓦の窯が残っている。
G尾小屋鉱山の住宅地跡に煉瓦の窯内部。
G尾小屋鉱山の住宅地跡に煉瓦の窯が残っている。
 G小屋鉱山に有った境界杭は日本鉱業の境界杭?ジャパンエナジーの前身である日本鉱業は1905年に久原房之助が日立銅山を買収したことに始まる。その後、日立(茨城県)や佐賀関(大分県)に製錬所を設け、金属製錬事業を拡大していった。鉱業部門を独立させ日本鉱業株式会社が発足した。
H遊泉寺銅山の真吹炉(銅鉱質の分析炉)で丈夫な煉瓦造り。
H真吹炉(銅鉱質の分析炉)内部。 H四角柱の遊泉寺銅山のカラミ煉瓦。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『小松市』を掲載」
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