更新日時 2023年01月16日

下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場
 下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場:伊豆半島及びその周辺地域は、江戸時代初期の築城事業などをはじめ、石材供給地として有名であった。「堅石」「青石」「白石」などの区分があった、これらの石材は総称して「伊豆石」と呼ばれた。近世末期から近代に入ると、横浜外国人居留地や東京銀座煉瓦街、東京市区改正などをはじめ、不平等条約改正を目指す幕府や明治政府の都市づくりにおいて、煉瓦造と呼ばれる建物の外壁や基礎や装飾には伊豆半島産の石材が多用された。その他、近代港湾、近代造船業、近代道路、鉄道事業、橋梁、隧道などその用途は多岐にわたる。伊豆半島とその周辺産の石材産地は、明治後期頃から「伊豆半島産石材の枯渇問題」「国会議事堂建設用石材調査によって多様な採石場開発」「鉄道輸送による北関東採石場の交通の便の改善」などの要因で、その相対的優位性を他石材産地に禅譲していくまでの間、明治初期から明治中期まで首都圏で出回った石材のうち4分の3ほどのシェアを誇っていた(残りの4分の1ほどは主に「房州石」と総称される千葉県産の石材が担った)。下田市大賀茂とその北に隣接する下田市大沢には、明治中期から大正初期にかけて幾つかの史料で東京横浜の近代化に伴う建築用石材を供給した石丁場の記録が残っている。旧朝日村域の記録としては、主要な石丁場が2件記録されている。まず、朝日村「鼻岩丁場」は1850〜60年代に開場し、最盛期で年間10,000〜15,000切の石材が採石された。伊豆半島の石材産業が衰退していったとされる大正後期でも年間7,000切の採石があった。明治44年の段階で従事者は15名おり、2丁場が運営された。大正初期の記録で、運送費は山元へ人力で1銭5里、下田海岸へ馬車で8銭、東京まで船で10銭。石材価格は下田海岸で1切30銭で取引された。次に、「鼻岩丁場」から「南西方向5町」ほどの位置に「桂越路丁場」が存在した。現在の走湯神社から西側を明治後期の地図では「桂」と表記しているためこの道中の丁場であることが考えられる。また逆に「南西方向5町」の表記を逆算することで「鼻岩丁場」の位置関係も把握することができる。「桂越路丁場」の石材と「鼻岩丁場」の石材はほぼ同質同価格であったとされる。これらの石材は、「伊豆石」の中でも「鼻岩石」「大賀茂石」「桂石」などの名称で呼ばれた。「桂石」は「江間石」とも呼ばれていたようであるが、これは半島北部の田方郡江間村の軟石丁場と類似の石材であったためにこのように呼ばれたと考えられる。これらを含み、明治期後期から大正初期にかけて大賀茂地域に6〜7ほどの石丁場があったとされる。旧稲生村域には、主要な石丁場が3件記録されているが、大正初期で稼働していたのは「タタリド」の「大澤丁場」のみとされる。「大澤丁場」では、江戸時代から採石があったが明治14年頃から一般に知られるようになり、明治20年代後半から明治30年代後半までの10年ほどは年間6,000切ほどの採石があった。大正初期の段階では4名が従事し、年間3,000切ほどを採石した。石材は稲生川に人車(7銭)で運び30切積みの川船(2銭)に乗せて運搬した(この地域の別の石丁場では60切積みの川船を用いた例もある)。下田からは70〜80トン積みの帆船(6銭)を用いて東京に運搬された。この石材は、稲生川渡しの費用で25銭であった。このほか稲生村域には、「大澤丁場」とほぼ同質の石材を産出する「八木山」「丸山」などの主要な石丁場が存在した。大賀茂地域の北部、大沢地域の南部檜沢林道沿いに位置する該当写真の石丁場は、これら2地域の石丁場群のいずれかに分類され、これらの開発に伴って開場された軟石丁場のうちの一つであると考えられる。この場所で野生のコノハズクと遭遇した。
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執筆:伊豆石文化探究会
(https://sites.google.com/view/izustoneculture)剣持佳季
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@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。道路脇に穴が有る。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。右下の入口。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。右下の入口を入った場所。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。入口を入って左側。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場に水たまりがある。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場に水たまりがある。マキタの仮設ライトは強力だ。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。道路に面している別の入口を見上げる。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場。道路に面している別の入口。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場の地底湖。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場の地底湖。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場の左上の入口。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場の左上の入口を入った右側壁に野生のコノハズクが居た。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場に野生のコノハズクが居た。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。右上の窪みがコノハズクが居た場所。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。入口を入って正面の長細い穴。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部。入口を入って正面の長細い穴の先は水が溜まっていた。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場内部の細い穴はカマドウマが多く居て天井から降ってくる。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部にある石切場。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の入口。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の内部。
@下田市林道ヒノキ沢線沿いの石切場上部の内部。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『下田市』を掲載」
出典: 伊豆石文化探究会(剣持佳季)