更新日時 2010年07月13日

 雨宮21号は東京深川にあった雨宮製作所によって1928年に製造された蒸気機関車。日本の工業化が進んだ1920年代後半には、そうした大日本軌道(後の雨宮製作所)をはじめとする日本国内の機関車メーカーの車両設計製造技術水準が大幅に向上したことから、官公庁側でも再び国産品採用の機運が高まった。そうした中、従来は温根湯・置戸、足寄・陸別・トマム・津別、と路線建設に合わせて輸入機関車を購入していた北海道庁拓殖部林務課所轄の森林鉄道において国産品の導入が計画された。そうして北海道庁における日本製機関車導入の第一陣となったのは、1928年の武利森林鉄道向けであった。同鉄道の開業に際し、雨宮製作所へNos.18 - 20の3両の11t 飽和式C型サイド・ウェルタンク機が1両あたり8,600円で発注された。これら3両は導入後概ね良好な成績を収め、以後の日本の森林鉄道における蒸気機関車国産化の端緒となった。1928年9月に竣工し、3両共に当初丸瀬布町(現北海道遠軽町) の武利森林鉄道に投入された。これらの内、No.18は新造後まもなく落合森林鉄道へ移管され、その後1945年の層雲峡森林鉄道建設に伴い同鉄道へ再移管、そこで1947年の林政統一を迎え、1949年の機関車番号の整理に伴う大改番の際にNo.71へ改番、1951年に層雲峡森林鉄道が専用自動車道路へ転換された際には古丹別森林鉄道へ再々移管され、そこで1955年に廃車解体された。これに対しNos.19・20は終始武利森林鉄道で運用され、1949年の大改番でNo.19がNo.21へ改番された以外は特に大きな改造も無いままに使用された。もっとも、1950年代に入り、普及が始まったディーゼル機関車によって代替される形で1957年には2両とも使用が停止され、1958年に書類上は2両とも廃車となり、2両の内No.20は解体された。最後まで残されたNo.19→No.21は1961年にさよなら運転を実施した後、保存の手配がとられた。その後は長期に渡って保管された後、1976年に丸瀬布町に払い下げられ、1980年に札幌交通機械でボイラー回りを含めた徹底的なレストレーションが実施され、可動状態に復元された。以後は動態保存として、現在も遠軽町丸瀬布上武利の森林公園いこいの森内で春から秋にかけての同園営業期間中のうち、土・日・祝日(夏休み期間は毎日)に運転を行っている。
 森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」雨宮21号は、昭和3年、東京の株式会社雨宮製作所で製造された国産の森林鉄道蒸気機関車です。昭和3年から昭和33年まで丸瀬布町武利意森林鉄道で木材の運搬及び住民の足として活躍しました。しかし、経済性と山火事防止等からディーゼル機関車へ、そして、トラック輸送へと替わりました。昭和36年には、森林鉄道そのものが廃止となり、その後、雨宮21号以外の10数輌あった蒸気機関車全てがスクラップされましたが、町民から一番愛着のあった雨宮21号のみが、町民の保存運動によって林鉄資料として残されました。昭和51年に北見営林局丸瀬布営林署より、丸瀬布町に譲渡され、昭和54年には、林鉄関係者や町民の強い要望によって、森林公園いこいの森に、日本唯一の森林鉄道蒸気機関車の動態保存が実現しました。
 森林鉄道用として設計されたこの機関車は昭和3年東京の雨宮製作所で製作され、道内における国産第1号として武利意森林鉄道に配置されました。当時、石北線が全通していなかったので、部品にして池北線で迂回して運び、丸瀬布町で組立てられたものです。
 昭和33年用途廃止まで、30年間の長きにわたり、国有林野事業の推進力として活躍し、また地域住民の唯一の交通機関となり、「ポーッ」という汽笛を響かせながら走る姿は木材の町における風物詩として、地元住民に親しまれ丸瀬布町発展の大きな原動力となりました。
箱形の客車。
オープン客車。
 森林鉄道は「カンコ(官行)の汽車」と呼ばれ、「ポーッ」という汽笛とともに、官行斫材のシンボルかつ住民生活の足となり、木材のまち丸瀬布の風物詩になっていました。
 雨宮号は、明治・大正期に日本の私鉄王「雨宮 敬次郎」が経営した東京深川区の雨宮製作所で製造され、昭和3年にムリイ森林鉄道では初めて国産の雨宮号3台が部品輸送され、丸瀬布で組み立てられました。翌4年に運行を開始し、レールの敷設、木材の輸送に活躍しました。
雨宮21号が鉄橋を渡る。
 昭和33年には、蒸気機関車の運行が終わり、ディーゼル機関車へと移行され、昭和38年に、ムリイ森林鉄道が廃線となり、トラック輸送へと移行されました。昭和32年、雨宮号のスクラップが浮上しましたが、住民有志の保存活動があり、昭和51年に町が営林局から譲り受け札幌で復元整備しました。
 昭和54年には、いこいの森に新築した機関庫に格納し、22年ぶりに「ポーッ」という懐かしい汽笛を響かせて試運転を行い、客車や貨車を購入し、昭和56年には園内に8の字形の1週軌道も完成、翌57年5月1日から「森林鉄道の走る緑と渓谷のまち」をキャッチフレーズに動態保存されています。
森林鉄道時代の橋梁か?
雨宮21号がメンテナンスの時はこのディーゼル機関車が客車を引きます。
屋外展示車両。
緩急車。
 緩急車(森林鉄道付属車)林鉄制動の乗務、機関車の薪積載用車輌であるが、作業員が上下山の際、その乗車にも当てられていた。各機関車に1台づつ連結していたが、現存するものはおそらく全国にこの1台だけと認められる。昭和32年蒸気機関車が内燃機関車に代わったあと昭和58年9月1日丸瀬布郷土史研究会が払い下げを受け、町に寄贈されたものです。
これも緩急車?
鉱山の蓄電池カー?
蒸気機関車。静態保存。
オープンデッキの客車。 貨物用台車。
 この客車は1925年(大正14年)に日本車両製造(株)で製作され、1969年(昭和44年)まで45年間岡山県笠岡市井原市を結ぶ井笠鉄道で住民の足として活躍し、用途廃止後の1973年(昭和48年)から1984年(昭和59年)の間、埼玉県所沢市の西武山口線で活躍、その後1993年(平成5年)に西武鉄道のご協力で丸瀬布町に譲渡され、そして翌年には東京交通博物館のご指導で修復整備し、森林公園いこいの森の保存車輌として仲間入りしました。現在では全国でも数少ない明治調木造客車で、オープンデッキ、木製の外板、屋内灯、座席など、明治中期から末期の雰囲気をもった貴重な物です。木造客車「ホハ19」「ホハ13」(オープンデッキ)
 入替動車は駅構内で貨車を荷役する線別に配線し、これを発送方面別、列車別に仕訳する入替にしようした。国鉄の貨物輸送が、我が国物流の枢要な位置を占めていた時代の昭和32年丸瀬布駅に配置された入替動車の稼働は丸瀬布町の林業発展にも密接な関係にあった。
丸太をワイヤーを使って運ぶ機械らしい。展示品?(笑)
屋外展示客車。
「森林公園いこいの森」内の、丸瀬布町郷土資料館。
丸瀬布町郷土資料館展示写真。
丸瀬布町郷土資料館展示写真。
丸瀬布町郷土資料館展示写真。
丸瀬布町郷土資料館展示写真。
丸瀬布町郷土資料館展示写真。
雨宮21号に乗る歩鉄の達人(笑)写真は廃線探索コラボのSentimental-Way さん撮影。
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森林公園いこいの森 雨宮21号