更新日時 2023年01月21日

隧道・廃道探索写真集 須花隧道
 須花隧道:須花隧道は3つあり、完成した時代から昭和・大正・明治トンネル。もしくは、新・旧・旧々隧道と呼ばれる。開通以前は足利市方面と佐野市方面の交通は須花峠越えしか無く、3つの村を統括する連合戸長であった田島茂平により掘削が開始された。田島は家財を擲ってまで単身掘り進んでいたが、それを見た下彦間村や足利町の村民が自発的に協力する様になり、1881年(明治14年)労働者61名により本格的な工事が開始された。足利町と下彦間村双方から掘り進められ、当初3年で貫通すると計画されていたが、5年経過しても貫通せず、資金が底をついたことで労働者は次々と離れ、残された田島を含む3名により工事が継続された。その後、2名も病気や怪我で脱落し、家庭を顧みず邁進したため、嫁に家出されながらも田島のみで最終的に8年掛け貫通に漕ぎ付けている。完成したトンネルは地域の発展に大きく貢献し、田島茂平の功績を称え、1892年(明治25年)隧道内の排水溝と木枠が整備された。その後、交通の要衝であることが認められたことで大正隧道が整備され、昭和40年代に入り、モータリゼーションの発達により大正隧道は狭小となり、車両が大型化したことで支障をきたし、昭和隧道が計画された。昭和隧道完成により大正隧道は旧道となり、歩行者自転車用隧道として使用された後に封鎖された。明治、大正隧道は崩落の危険性があるため封鎖されており、明治隧道は比較的低い木の柵があるのみだが、大正隧道は金網で入口が厳重に塞がれている。2009年、公益社団法人土木学会により、明治隧道と大正隧道は選奨土木遺産に認定された。
@明治の須花隧道へ繋がる道。
@須花隧道の案内看板。
A明治の須花隧道へ繋がる道は整備されている。
B明治の須花隧道入口。柵は壊れている。右は選奨土木遺産石碑。
B明治の須花隧道入口。
B明治の須花隧道内部から外部を見た景色。
C明治の須花隧道右側内部に細い狸堀のような穴がある。
C明治の須花隧道右側内部左側は崩れた?
D明治の須花隧道の足利側出口は埋もれかけている。
D明治の須花隧道の足利側出口は埋もれかけている。
D明治の須花隧道の足利側出口の先風景。
E明治の須花隧道の足利側出口から少し行った所から隧道方向を振り返る。
E明治の須花隧道の足利側出口から少し行った所。この先は廃道になっている。
F大正の須花隧道と昭和の須花隧道分岐部。
G大正の須花隧道のカーブミラーは朽ち果てている。
H大正の須花隧道の佐野市側。
H大正の須花隧道内部は煉瓦造り。
I大正の須花隧道の足利市側。
I大正の須花隧道の足利市側。
J大正の須花隧道左側と昭和の須花隧道左側右側。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『足利市・佐野市』を掲載」